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(掌編小説)「白線渡り」1,000字

「今落ちただろ!」
「アイスの棒踏んでるからセーフだよっ!」
「ずっりぃ!」

 いつものように定時で帰宅の途に就いていた慎一郎しんいちろうの脇を、存在を周囲に主張するように大声ではしゃぎながら、小学生の子どもたちが追い抜いていった。

 どうやら彼らは白線の上を落ちないように渡っているのだ。道路の白線や路肩の植え込みの縁石、点字ブロックの上などを飛び跳ねるように走っていく。

 無邪気に走り去る子どもたちに重ねるように、慎一郎は職場の後輩のことを思い出していた。

「仕事、辞めようと思っていまして」

 まだ入社して数年の若い後輩は昼休みの休憩室でごく軽い調子で切り出した。ずっとやりたかった写真の道に進むことにしたのだとか。

「そうか。──まあ頑張って」

 言い様のない気持ちになって、そんな当たり障りのない言葉をかけると、後輩は話したときと同じように軽い調子で仕事に戻っていった。今、小さくなっていく子どもたちの背中が、その後輩の背中と不意に二重写しになったのだ。

 ふと思い立って、慎一郎は子どもたちと同じように白線の上を歩いてみた。この平均台のように細い道を踏み外すと、奈落の底へと落ちて這い上がれなくなるのだ。少し目を閉じてじっと留まってみると、思いの外足元が不安定で覚束ない。

 更に進むと白線が途切れそうになったので三十センチほどの高さの植え込みのフチに飛び乗った。目を閉じると、一層足元は心細く、慎一郎はふわふわとゾワリが同居したような心地になった。その心境は長らく感じていないものだった。

 適度にやりがいのある仕事に、妻と息子。もうすぐ産まれる娘。家族四人で暮らすには不満のない収入。これまでに手に入れたものは慎一郎を十分に満足させ、幸福を与えてくれている。

 不意に植え込みが途絶えた。続く白線は遠く、飛び付いても届きそうになかった。

『誰かと手を繋いでたら落ちてもセーフな!』

 行き止まりでも、不安定な道でも、自分が子どもの頃は謎のルールを作り上げて乗り越えていた。

「──ふっ」

 軽く息をついた慎一郎は微笑みを湛えていた。スマホを取り出すと電話帳の名前をスクロールさせながら流し見る。高校の同級生、大学の先輩に同僚。妻、実家、別れた恋人、行きつけの居酒屋。誰と手を繋げば進んでいけるのだろうか。どこへ向かっていくのだろうか。

 慎一郎はタップして連絡先を表示させると、発信することなくそのままポケットに突っ込んで白線に向けて飛び出した。
 
 了

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