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(短編小説)「うどん屋の朝」1,500字

 今の季節、この時間はまだ真っ暗だ。朝の五時だが、もう慣れたもので眠いとは思わない。
 念入りに手を洗ってから厨房へ。
 いつものように、寸胴二つに水を張ってガス台へ。昨日のうちに細かく刻んだ利尻昆布を入れる。事前に確認しておいた新聞の天気予報だと、気温は十五度くらい。晴れだけれど、肌寒い。温かいのがよく出るなら、もう一つ出汁を取らなければいけないかも知れない。
 昆布をあげるまではまだ時間がかかるので、この間に仕込みの調理器具などを台の上に。細ごまとした準備を終えてから、アルミのボウルに水を張って、半分に割った玉ねぎをそっと入れる。少し置いて水を含むと皮がツルリと剝けるので気持ちがいい。二十個の玉ねぎを剥ききってからスライスしていく。
 包丁がまな板を叩く音が厨房に響く。あとはガス台の炎の音。静寂ではないけれど、落ち着く。
 次いでネギや白菜を刻んで、保存用の籠に入れていく。そうしていると、寸胴の昆布出汁が泡立ってきた。柄杓で掬って、味見用の皿に。もう少しか?
 少し火を弱めて、じっと見つめる。
 もう一度味見してから、網で掬って取り出した。この昆布は後で佃煮にするのでお湯を切っておく。
 二つの寸胴から昆布を取り出したら、削り節を投入する。厚削りの鯖節とムロ節。一気に香りが広がった。鍋の中で踊る節を見ながら火加減を調節していると、戸建てに続く扉が開いた。
「おはようさん」
「おはよう」
 志津枝がテキパキと窓や入口の扉を開けると、外はもうだいぶ明るくなってきていた。風が入ってきて、厨房の熱気を少し散らして心地よい。
「どうぞ」
「ああ」
 沸かしておいたお湯でお茶を淹れてくれる。店で出すのとは違う玄米茶だ。
「今日はいい天気ですね」
「この間もらった茄子なんですけどね」
「頼子の先生がね」
「来月練習試合があるんですって」 
 志津枝が店内のテーブルや椅子を拭いていく。彼女がいると厨房が一気ににぎやかになる。こっちは、ああ、とかそうか、とかしか言わないのだが楽しそうに手と口を動かすのを見ると元気が出る。
 合わせ節を取り出すと、白濁した出汁が寸胴になみなみと出来上がる。軽く水で口を濯ぎ味を見る。うん。志津枝や頼子はこの白出汁の時点ではあまり好きではないらしいが、私はこの味が好きだった。うどん出汁やどんぶり出汁になる前の、素朴な味わい。スッキリして飲みやすい出来に満足する。
 うどんは腰が悪くなってからは機械を使っていた。小麦粉や水を入れてスイッチを押す。生地を混ぜるのにも修行をしたもんだったが、こいつは黙々とこなす。こねるのも伸ばすのも。
 最初は複雑な気持ちがあったが、美味しい物が出せるならそれで良いと思った。
 生地を寝かせている間に天ぷら鍋や食材を準備していく。炊きあがったご飯は保温ジャーヘ。
 ガチャリと扉が開いて頼子が顔を出した。
「おはよう、お父さん。じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 娘の頼子がトレーニングウェア姿で出かけていく。朝練だろう。
 食材にはラップをかけて、冷蔵庫へ。
 出来上がったうどん出汁の火を一旦止める。朝の営業だと、出すときは少しずつ小分けで火を入れるのでも間に合う。
 時計を見ると七時になろうとしていた。
「じゃあ暖簾出しますよ」
「ああ」
「今日も一日お願いします」
 気持ちよく笑う志津枝に頷く。
 窓の外を見ると商店街には通勤や通学の人たちが行き交っている。
 カランと扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 今日もまた、良い一日でありますように。


皆様にも素晴らしい一日を。

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