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「境界線」を対話してみた


▷はじめに

今回の対話のテーマは
~境界線を対話しよう~

このテーマから
・あなたが気になる境界線は何?
・境界線って何?
そして
・境界線をどう活かしたら幸せになるのか?
という問いを立てました

下記はイベントページに掲載したものです

私たちの毎日にも社会にもたくさんの境界線が存在しています
人間はどうやら境界線が大好きです

時には境界線を、何かを区別、識別、分別、管理、把握、研究するために使いますが、
別の時にはそれを、正当化、分離、差別、批判、批評、不寛容、攻撃のために使うこともあります

超えられる境界線も
超えられないと感じる境界線も
意図的に採用する境界線も
押し付けたり、押し付けられる境界線もあれば
無自覚な制限となっている境界線もあります


境界線をもっと上手に活かすことができたら、私たちが社会や個人で抱える問題はもっと違う解決に向かうことが可能なのでは?
そしてもっと平和で幸せな現実をつくることができるのでは?

そんな仮説から、問いを立てました


「境界線とは何か?
境界線をどう活かしたら幸せになるのか?」

当日はワールドカフェ形式でメンバーをシャッフルしながら、正解のない対話を楽しみます

そこから発見する自分にあった境界線の使い方がきっと新しい未来につながると信じています^^

これは、一緒にイベントを主催してくださっているよりこさんが
書いてくださったもの

素敵すぎる文章にただただ感動



▷対話の流れ

「ウクライナとロシア」
「話せるときと話せないとき」
「動けるときと動けないとき」
「主催者と参加者(ゲストとホスト)」

そして私が気になっていた境界線は
「学校と地域」
「子どもと大人」
そして「教える人と教わる人」

みんなそれぞれ気になる境界線が違う中
では、境界線とは何か?


まず出てきたのは
”絶対”じゃなければいいもの


境界線はなければいいというものではない

境界線は
違いを認識するため
識別するためには必要な物

多様性やダイバーシティ、インクルーシブという
言葉が飛び交うこの時代に
「男と女」の境界線を
では果たしてなくしていいものなのかといったら
そういうわけにはいかない

人にはそれぞれ
自分が安心できるテリトリーがあり
そこにもそれぞれ境界線がある


性別をなくす、
つまり性による境界線をなくそうということは
逆に個々の心理的安全性を保つための境界線を
脅かすことにもつながりかねない


白と黒に分けない、のではなく
その線が絶対ではない曖昧さをも認め
生きづらいと感じている人々を排除することなく
「ユニバーサルデザイン」のようなものを
もっともっと”当たり前”にしていくことが
これから必要なのではないかと感じる


インクルーシブという考え方も同じ

線をなくしてみんな一緒にしよう!とすることで
結果的によくないこともたくさんある

インクルーシブという考え方が悪いのではなく
言葉が一人歩きして
本質的なことを理解しないまま
線をなくそうとする表面的な変化に対し
「本当にこれでいいのだろうか」と
モヤモヤする私がいる


線はなくすのではなく
線を”絶対”のものにしないという認識


対話を通じて自分の「境界線」に対する認識が
変化するはじまりだった





▷個々の境界線


人は、自信がない時や不安な時
隠したいことがある時、負けたくない時など
それぞれのシチュエーションで
境界線を拡げたり狭めたりする

子どもが鬼ごっこをしているときに
オニが近づいてきたら急に「バリア」をはる
あれに近い(笑)


人それぞれに境界線があり
自分を守りたいがゆえに引く線がある

こちらからしたら
なくてもいい線、引かなくてもいい線なのに
と思うものでも
その人にとっては自分を守るためであり
決して人が土足で上がり込むようなことは
してはいけない

境界線はセイフティーネット

人との関係性や場の雰囲気、これまでの経験など
いろんな要素によって個々のもつ境界線は
常に動き続けている

一方で、では自分がもつ境界線はどうなのか?
バリアばかりはって、
自分を守り続けていいものなのか?
不安や恐れによって引かれた境界線を、
どうやって拡げていけばいいのか?

そうやってお互いがバリアを張り続けていたら
この世の中はちっとも平和にもならないし
個々の幸せ、社会全体の幸せにもつながらない


そこで次の問い

境界線をどう活かしたら幸せになるのか?

である




▷境界線はこう活かせる


境界線の活かし方は
大きく分けて二つ

まず一つ目は
平和的な合意をつくるためのチャンス
という捉え方

お互いに違いがあり境界線があることで
相手を理解しようと対話が生まれる

たとえで言うとルール作りなどがそう

学校で子どもたちに
「これがルールだから」と押し付けるよりも
この合意形成のプロセス自体を経験させることが
とても大事だと私は思っている


もう一つは
境界線があることで
次のステージやレベルへ上がる
成長のチャンス!
という捉え方があるということ

線を越えようというワクワク感は
意外と身の回りにたくさんある

次は〇級を目指そう!というような資格や習い事
国境をまたぐ海外旅行や言語の壁を超える海外留学

異業種交流も互いの業種を飛び越えることで
何かを新しいことが始まったり
スピードが格段とあがったりとすることは稀にある


私も「学校×地域」という越境を繰り返すことで
多くの刺激をもらいながら成長している自分がいる


境界線は決してわるいものというわけではない


差別やいじめ、戦争など
境界線の活かし方を間違え
人々を苦しめることもあれば
一方で
境界線を活かし、世界をより平和に
そして
自分を含めた社会全体を幸せにすることもできる


対話の醍醐味を味わった気分だ


▷境界線は〇〇によって、越えられるもの


さて、ここで
私が気になっていた境界線

それは「学校と地域」


そこには確かに境界線がある
しかし私は
その境界線をなくすべきだとか
もっと学校を地域に開放すべきだとか
そういうことが言いたいわけではない

当然「責任」と「管理」という点では
境界線は目印としてやはり存在していていいものと
私は思っている

しかし
どこかそれ以上に「学校と地域」の間には
もっとやっかいな境界線がある気がしている



日本の学校は
何よりも子どもたちの「安全」を
第一に考えている

何十年も昔
刃物を持った男が学校へ乱入し
教師や子どもたちが命を落とすという
悲しい事件が起きた

その時からか
学校の門は閉ざされ
学校と地域の間には
境界線ならぬ壁のようなものができた


オランダの学校には
ポツンと門のような入り口があるだけで
囲いやフェンスといったものがないという

学校は地域のもので
誰でも自由に出入りができる


さて、今の日本とオランダでは
一体何が違うのか


それは結局
学校と地域の間に信頼があるかどうか


日本の学校は
何かあったらいけないという不安と恐怖がある

その不安と恐怖でつくられた境界線は
いつの間にか簡単に跨げるような線ではなく
壁、面、バリアのような2Dのものへと変化した


不審者や交通事故…
確かに学校を地域へ開かれたものにするには
まだまだ地域が信頼できる対象にならない限り
境界線ならぬ壁は取っ払えないであろう



社会そのものが平和であること

当たり前化もしれないけれど
境界線を越えるには互いの信頼関係
必要不可欠であるということが
対話を通じて改めて再認識できた



▷おわりに


境界線は
違いを認識するための『目印』であり
違いをつなぎ合わせる『つなぎ目』である


線、ときくと
排除や差別、責任、管理などのイメージが強くなるけれど
『目印』や『つなぎ目』という言葉に置き換えただけで
少し平和的な印象に変わる


もっともっと
この世の中にあふれている境界線が

”絶対”でも”壁”でもなく
信頼によって簡単に跨ぐことのできる緩い『目印』
そして
互いの違いを認め合えるための『つなぎ目』
として存在できるものであってほしいと
私は思っている

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