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短編小説:まがいものエレジー

                           
                                                                                                 岩間 清一

 
同僚の横山から手紙が届いた。

同じ会社なのにどうして手紙を寄こすのかと思いながら封を開くと、先日横山達と楽しんだバーベキューの時の写真が数枚入っていた。

その中の一枚の写真は私が肉を焼いているところを上から撮られたものだった。

私の頭頂部の地肌が、丸く見えている。

「あれっこんなになってたのか全く気が付かなかったなあ…」

と声を上げた。

私は、自分の頭頂部が薄いのに初めて気が付いた。

写真を一緒に見ていた女房が、言いにくそうに

「前から気が付いていたけど、あなたが気にすると思って黙ってたのよ…あんまり気にしない方がいいわよ。気にするともっとハゲっあっ。いや毛が抜けるって言うから…」

「ハゲとはひどいことを言うな。まだハゲじゃない薄いだけだ」

 気にするなと言われると逆に気になるのが人間の常である。

 ふと、思いだした。同僚との飲み会の席で、酔っぱらった増山が笑いながら、私に向かって「てっぺんはげたか!」って言ってたことを。

その時は、はげ鷹は頭がハゲてるから、そのことを言っているんだなと自分で解釈し一緒に笑っていた。

しかし、はげ鷹のことを何で、こんな席で俺に言うんだ? とも疑問に思っていた。

今になって私の頭のことを言っていたんだと、気が付いた。

そういえば、最近髪の毛が柔らかくなってきたような気がしていた。

 私の髪の毛は、いわゆる剛毛で量も多く、毎朝、髪のセットをするのに大変だった。

起きると寝ぐせでぼさぼさの髪型になっているので、ポマードや、電気アイロンを使って髪の毛をセットすることに時間がかかっていた。

柔らかくて少ない髪の量の方がセットしやすいのにと、ぜいたくな悩みを持っていた。

しかし、実際に薄くなった頭頂部を見て、それ以来気になって仕方がない。

 ある朝、手鏡でかざして頭頂部を隠すように髪をセットしていてひらめいた。

髪の毛は黒色だ、それなら地肌を黒くすれば分からなくなる。

黒くするのに手っ取り早いものは何かないか… 墨だと墨をすらなきゃならないから面倒だし、それなら黒色マジックではどうだろう? 

文房具箱の中から油性マジックを取り出し、早速、薄い地肌に塗ってみた。

手鏡をかざして見た。黒くなって地肌が見えなくなっていた。

 ― いいじゃないか。全然分からなくなった。何でこんな簡単なことに気がつかなかったんだろ ―

「ばっかじゃないの、そんなことして、肌がかぶれちゃうわよ」

私がマジックで頭頂部を塗っているのを見ていた女房と高校生の娘が言った。

 女房や娘の軽蔑(けいべつ)の眼差(まなざし)しをものともせずに、毎朝黒色マジックのお世話になっていた。

 一か月位経ったころ、頭頂部が痒(かゆ)くなってきた。

頭を洗って手鏡でみると、赤くなった地肌に小さいぼつぼつができていた。元来肌が弱い体質なのに、油性マジックを塗ったせいでかぶれてしまった。

「言わないこっちゃないでしょ。私が言ったとおりになっちゃったじゃない。医者に行ってきなさいよ」

と、あきれ返った女房にように言われ、皮膚科に行った。

「どうしたんですか 何かここに塗りましたか」

 医師から質問されたが、まさか、ハゲを隠すためにマジックを塗ったとは言えず、あいまいな返事でごまかしていたが医者に、

 「ここに何か塗ったのではないですか?」

と再度問いつめられ

「実は、ハゲを隠すために黒色マジックを塗りました…」

と本当のことを言うと、医者はあきれ返ったように

 「マジックなんか塗ってはだめですよ。特に油性ペンを体に塗ることは大   変危険な行為なんですよ。油性ペンに含まれる有機溶剤が体内に取り込まれ過ぎると、脳、肝臓、腎臓に障害を与えます。この有機溶剤は呼吸器からが最も入りやすいのですが、皮膚からも容易に体内に取り込まれていきます。もう絶対にやらないでくださいね」

とたしなめられた

 私はそんなに大変なことだったのかと神妙に医師の言葉を聞いていた。

そばで聞いていた看護師は、口を手で覆いながら顔を真っ赤にして下を向いて笑いをこらえていた。

  塗り薬をもらってきて、今度は毎日マジックの代わりに塗り薬のお世話になることとなった。

毎朝、薬を塗った後、薄い部分を隠そうと髪の毛がある方からなでつけていたが、隠れたと思っていたのは自分だけだったようである。

しばらくすると薬が効いたのか湿しんは治ったので、養毛剤や育毛剤の宣伝を見ると片っ端から試してみたが、全く効果がない。(色々試しすぎて化学変化でも起こして毛が生えなくなったのかな…)

それから一年が過ぎたころ、ふと、思った。もう隠したりしない。ないものねだりは止めよう。

ないものはないんだ。

よし、きっぱりと髪を短くしようと決めて行きつけの床屋に行った。
 
床屋の主人に、

 「もう、さっぱりと角刈りにしてよ」

と言うと、鏡越しに主人がニヤッと笑って
 
「ええっ、いいんですか」

「決めたんだから、やってよ」

主人は、後悔するんじゃないのって顔しながら私の髪にはさみをいれた。

鏡に写っている自分は前しか見えないから、頭頂部の様子は全く分からない。

髪の毛がばさ、ばさとおちていく。
―.これは失敗したかな… しかし、今さら止めてくれと言うこともいえないな… ― 不安な気持ちが心の中に広がってきた。

 頭を洗った後、正面を向いて鏡を見る。頭頂部は見えないけど、さっぱりとした髪型に思った。

まあ、これでいいんではないかなと思っていると、床屋の主人が私の天頂部付近に何かを振りかけて、スプレーで固めた。

 「何ですかそれは」

 不思議そうに尋ねる私に鏡をかざして、頭頂部を見せ、

 「どうですか」

と笑顔で聞いてきた。

私は、鏡を見てびっくりした。

地肌の見えていた頭頂部が真っ黒になっている。全く地肌が見えなくなっている。

 「何をしたんですか?」

 主人は私に先ほど頭に振りかけていた、小さな黒色の容器を見せて、

 「この中に黒い粉末が入っていて、これを頭の薄い部分に振りかけると地肌が見えなくなるんです。振りかけた後は、スプレーで固めれば落ちることもないんで、 髪の薄くなった方には好評なんです。」

と言った。

私は、こんな便利なものがあったのかと驚いた。その場で容器2本とヘアースプレーを買った。

家に帰ってきて、女房に、

 「床屋に行って良かった。ほら、見てごらん。頭薄いの分からないだろ」

と、うつむいて頭頂部を見せると、

 「どうしたの、薄いの全然わからなくなってる? 」

床屋で買ってきた品物を見せ、

 「これだよ、これを薄い部分に振りかけてスプレーで固めると大丈夫なんだって。一日持つらしい。いいもの手に入れたよ」 

と、言うと、

 「大丈夫なの?また、皮膚がかぶれたりするんじゃないの?」

 「植物の繊維でできてるパウダーらしいから、かぶれたりはしないって。静電気で髪や地肌にくっつくらしいけど、それだけじゃあ、落ちちゃうからスプレーで固めるんだって」

毎朝、今度はパウダーのお世話になっていた。旅行に行ったときは枕をタオルで巻いて、粉が枕につかないようにしていたが、スプレーで固めていたので粉が落ちることはなかった。

これはいいものがあったと心の中で喜んでいた。

ところがある朝、朝食をとっていると洗面所から娘の

 「お父さん、その頭に振りかけるの止めてよ! 洗面所が黒くなってるじゃない。こっち来て見てよ!」

と叫ぶので洗面所に行ってみた。

すると、パウダーは頭の上から振りかけるので、全てが頭頂部に降りかかるわけではなく、洗面所の鏡の下付近に飛び散った粉であちこち、まだらに黒くなっていた。

 女房より気が強くて恐い娘の一言で、ふりかけは中止となり、仕方なく短くした髪の毛を伸ばし始めた。

しかし、一旦気になりだした頭頂部の薄さはもう気になって仕方なかった。

粉を振りかけて毛穴をふさいだせいか、薄い部分が広がってきたような気がする。

鏡をかざして見るたび、ため息がでる。

また、あらゆる育毛剤や養毛剤に手を出すが、全く効果がない。

ある日曜日の朝食の前に、新聞を広げて見ていると、ある大手カツラメーカーが一面に宣伝しているのが目にとまった。

その広告には、一本の髪の毛に2~3本の人工毛を結わえて増毛する方法が載っていた。

 広告の写真のモデルは有名な某元スポーツ選手だが、カツラとは全然分からない。

 よし、これだ! と思ったが値段は載っていない。

 だけど、たかが人工毛だからそんなに高価なものじゃあないだろうと思った。

しかし、女房に話せば絶対反対されるに決まっている。

今日は日曜日だから丁度いいから、電話したいけど女房が家にいると電話ができない。女房に
 
「今日は出かけないのか? 」

と何気ないふりをして聞くと、

 「昼から買い物に行くけど、あなたも一緒に行く?」

 「いや、俺が行ったら、買わなくてもいいものまで買っちゃうってお前に言われるから止めとくよ。せっかくの日曜日だから、家でのんびりしとくよ」

 「そうね、あなたと一緒に行くと何でもポンポン買い物かごに入れちゃうからね」

 私は、料理が好きで休みの日の食事は私が作っていた。

しかし、レシピにこだわることから、食材を買う際に少しの量しか必要ないものまで、缶や瓶ごと買ってしまうので女房には買い物に一緒に行くことを嫌がられていた。

嫌がられてもことあるごとについて行っていた。

でも、今日は一人で早く買い物に行ってくれないかと内心そわそわしていた。

 昼食が終わって、女房が買い物に行った。さっそく新聞に載っていた近くの支店にダイヤルした。

 「はい、こちらはハゲヘルチャンスです」

 「あのう… 新聞の広告で見たんで、お話を聞きたいのですが…」

 「はい、それでは社員をお宅様に派遣して、詳しくご説明いたしましょうか?」

家に来られると、女房に分かってしまう。あわてて、

 「いっ、いいえ…。私がそちらに伺います。来週の日曜日午前十時頃伺って大丈夫でしょうか? 」

 「はい。分かりました。それではお待ちしておりますのでお名前をうかがって宜しいでしょうか」

予約していた日曜日の朝が来た。

 いつもの日曜日の朝女房は、朝食の後洗濯を済ますと、隣の山下さんの家に仲の良い近所の奥さん達数人が集まり、昼食近くまで亭主の悪口などを話しているのが常だった。

 今朝に限って洗濯を済ますと、テレビを見ている私の隣に座って一緒にテレビを見だした。

私は、女房が外に出たらカツラ店に行こうと思っていたので、内心イライラして

 「今日は、山下さんの家には行かないのか? 」

 「昨日から横浜の実家に帰っているのよ。久保田さんも親子で出かけたは」

 よりにもよって、何も今日皆が出かけなくてもいいのに、女房がいない隙に行って来よう、とのもくろみは、崩れてしまった。

 さて、どんな口実を作って出かけようか…。普段の日曜日、私は昼食の支度にかかるまでは、朝からごろごろしてテレビを見ているのが常だった。

意を決し

 「一寸、散歩にでも行ってくるかな」
 と言うと、女房が

 「あら、珍しい日曜日にあなたが散歩なんて。どういう風の吹き回し? 」

 「いいじゃないか。たまには、外の空気を吸わなきゃな。古女房のお前と一緒じゃ気が滅入っちゃうよ」

 「何言ってんのよ。こうして一緒にいてもらえるたけでありがたく思いなさいよ。亭主元気で留守がいいって、みんな言ってるわよ。私ぐらいよ。一緒にいてあげる奥さんは」

 「古女房じゃ、どうしようもないしゃないか。もっと若くて綺麗な女房なら、いつも一緒でいいけどな」

 「自分の顔と相談しなさい。そんな老けた顔して若い人なんか誰も相手になんかしませんよ」

と女房に返された。

 私は十代のころから、十年から二十年くらいも老けて見られる顔立ちで、三十代の現在は四十代半ばから五十代以上に見られている。

この前も、取引先の方と話をしていると、

「本山さんは、来年退職ですか? 退職したら何かやられるんですか? 」
って聞かれた。

心の中では、

 ― ふざけるなよ。何でこの俺が? まだ定年まで20年もあるじゃないか ―

と思ったが、大切な取引先の方だったので、

 「そうですね。私なんか定年後雇ってくれるとこはないと思いますので、何処かいいところあったら、宜しくおねがいします」 

と、心にもないことを言ってその場をしのいだ。

女房は私より、五歳も年上なのに、逆に私より若く見られていた。

髪を増やせば若々しく見られるのでは、というのがカツラを着けようとした最大の理由である。

 売り言葉に買い言葉でだんだん険悪な雰囲気になってきた。

しかし、勝気で口達者な女房に気弱で口下手な私は歯がたたない。

このまま話していると、いつ私の目論見がばれてしまうか知れたものではない。

 「分かった。分かった。もう、分かりましたよ。私はお年寄りで、貴方は年取ってても、若く見られて綺麗ですよ。良かった、良かった。こんな若くて綺麗なお方と一緒になれて。じゃあ、お爺さんは山に散歩に行ってきますよ。年取った若いお婆さんは命の洗濯でもしていなさい」

 話を打ち切り、外に出て自転車を持ちだしてサドルに乗った私に、

 「何? 自転車なんか持ちだして。散歩に行くんじゃなかったの? 」

 「いいじゃないか。サイクリングに変えたんだよ」

 何で最初からサイクリングって言わなかったんだろうと後悔した。

また、疑惑の火種を作ってしまった。しかし、納得したのか、

 「すぐに帰ってきてよ。昼から横浜の佐藤さんとこに行かなきゃならないんだから」

 昼から友達のところへ夫婦でいくことになっていたのを忘れていた。 

 「分かったよ。30分も走りゃ飽きちゃうよ。すぐ帰るよ」

 ここから、店までの距離は約4キロメートルある。

女房とのやりとりで時間をくってしまって予約の時間が迫っていた。

ゆっくりと道路にこぎ出して、女房が見えなくなるとペダルを一生懸命にこぎだした。

 荒い息をしながら店の前に着いた。

店は7階建の5階にあった。息を整えて建物に入った。

エレベーターを待っていると、私のほかに5人の男性がエレベーターホールに来た。

それとなく見ると、若い人も、年取った人もみんな髪の毛がふさふさとしている。

― これならいいな。全然カツラって分からないや。けど、みんな、あすこに行くのかな? ―

上がっていくエレベーターの中で考えていると、店のある5階で降りたのは私一人だった。

 人間一旦思い込むとそのことしか考えられなくなって、何でもそのことに結び付けてしまうものである。

 店の自動ドアから中に入るとチャイムがなった。

見るとドアのついた部屋がいくつもある。

客同士が顔を合わせない配慮であるようだ。

チャイムの音に、奥から白衣を着た、背が高くてほっそりとした、30代に見える男の人が、ニコニコしながらやってきた。

恐る恐る

 「予約をしていた本山です…」

と言うと。

 「はい、はい、伺っております。どうぞこちらへ」

と、はきはきとした口調で言って歩き出した。

後についていくと一室に案内された。

対面してよく見るとその社員は若くてカツラなど着けていないように見えた。

 ― あなたのその頭はカツラですか? ―

って聞こうかと思ったが、気が弱いので止めた。

 「新聞の広告で見たのですが、全然カツラを着けているとは分からないんですけど、本当にあんなに分からなくなるのですか? 」

尋ねる私に、社員は笑顔で

 「はい、大丈夫ですよ。他社の製品は、人毛を使ってますから年が経つにつれて色が変わってくるんです。私どもで開発した製品は人口の形状記憶毛髪を使用しておりますので、色あせすることがありませんし、形状記憶ですから幾ら洗髪しても型が崩れるということもありません。それと、植え込み式ですので、寝るときに取り外す、わずらわしさもありません。月に一回床屋に行く感覚で私どもの店に来ていただいて、後は自宅で整髪していただくだけですので、料金も月一度の整髪代だけです」

と、説明されたが良いことづくめである。

 冷静に考えればそんな良いことづくめである訳がないが、溺れる者は、わらをもつかむ心境で、説明を聞いているうちに段々と買おうかなあと言う気持ちになってきた。

でも、さっきからの説明では値段のことが一切でていない。

 「それで、値段はどのくらいかかるのですか? 」

尋ねる私に、

 「はい。一本たったの60円です」

社員は、相変わらず笑顔をたやさず答えた。

 ― 1本60円か。60円なら安いな。そんなにハゲてるわけじゃないから、千本やっても6万円か。

一生使えるんじゃ安いもんだ。これから養毛剤に使う金から比べても安いものだ。買っちゃおうかな… ―

気持ちがどんどんと買う方向へ傾いていく。

社員は私の気持ちを見透かしたように、

 「一寸型を取ってみましょうね。ここに座ってください」

と、私を理髪台に乗るよううながすので、それに従った。

すると、私の頭に白い布のような丸い物を載せ、ナイトキャップの様に耳元付近まで引っ張って伸ばした。

天頂部付近を何かで印をつけているようだった。

つけ終わったのか、頭から外して私に見せた。円形の真ん中付近がマジックで丸く印が付けられていた。社員はそれを見て、

 「この範囲だと1万本位で大丈夫ですね」

と、軽くのたもうた。

 ― なにっ。1万本だと60万円じゃないか。とんでもない。そんな金、女房が出すわけがない。止めた。止めた。馬鹿馬鹿しい。養毛剤に使った方がずっと安上がりだ。

今の技術は年々進歩しているから強力なハゲ治療薬が発明されるはずだ。それまで待とう―  

 社員は悩んでいる私の顔をうかがって、ここが押し時とみたのか、電卓をたたいて私の前に差し出して、

 「確かに1回でお支払いになりますと、安い買い物ではありません。でも、20年ローンも取り扱っておりますので、いかがでしょうか? そうしますと月々のお支払いは、わずかなものでございます」

と言った。電卓に表示された金額の数字を見て、私は考えた。

 ― うん。これなら、自分の小遣いから支払える額だな。女房に黙っていても大丈夫だ。買っちゃうか。これで一生使えるなら安いものだ。男は度胸。買っちゃえ! ―

何で男は度胸が浮かんできたのか分からないし、カツラを着ければ女房に分からないわけがないのに、いわゆる衝動買いである。その場でローンの契約をしてしまった。
 
契約書を上着のポケットに入れ、帰ろうと時計を見ると友達のとこに行く時間が迫っていた。急いで自転車をこいで家に帰ると、仏頂面(ぶっちょうづら)の女房が玄関に出ていて、いらいらしている声で、

 「どこまで行ってたの。随分時間がかかったわね。佐藤さんからさっき何時ころ来るんだって、さいそくの電話があったわよ。早くしてよ」

 「久しぶりに自転車で外に出たから、あっちこっちぶらぶらしてたんだよ。今行くよ」

 不審げに私を見る女房から顔をはずし、家に入ると、急いでカツラの契約書をポケットから出すと、タンスの中に吊るしてあった背広の内ポケットにねじ込んだ。

 カツラが出来てくれば、分かってしまうことだが、黙って契約してしまったことに後ろめたさがあって、契約書を隠さなければならない。その場をとりつくろって仕舞えば何とかなるだろうという、楽観的、手前勝手な考えであった。

 カツラはオーダーメイドで、出来上がるまでに約2か月かかるという説明だった。

 友達のとこから帰ってきたら隠した契約書を他のところにしまおうと思っていたが、帰ってくるとすっかり、契約書を隠したことを忘れていた。

 次の日曜日の昼下がり、いつものように寝っころがってテレビを見ながら、うつらうつらしていると、いきなり、

 「あんた! 何やってるのよ。黙ってこんな物注文して! 」

 目を吊り上げた女房が、背広とカツラの契約書を手に詰め寄ってきた。よっぽど腹が立っているんだろ。普段はあなたと言ってるのがあんたになってる。

 眠気は吹っ飛び、頭の中で、

 ― あれっ。何で分かったんだろ。分かる訳ないのに、おかしいな。しかし、ばれてしまえば仕方がないな。でも、どうやって説得しようか ―
と考えめぐらし、

 「あっ、見つかっちゃったあ。悪い、悪い、つい言いそびれちゃって。いいじゃないか、それで俺が若返れば、お前だって旦那が若く見える方がいいだろ」

 「何を言ってるのよ。ローンなんかくんじやって。金利でどの位高くなってると思ってるのよ。これで中古車1台買えちゃうじゃないの! 」

 「俺の頭に車載せてると思えばいいじゃないか。もう契約したんだから仕方ないだろ。買ってよ」

 「何を馬鹿なこと言ってるのよ! 」

 ローンで物を買うと金利がつくことから、ローンで物を買うのを嫌がっている女房は大変な剣幕である。

 実は私も、契約した後冷静になって考えると、金利がついて1.5倍くらいの金額となってしまい、失敗したと後悔していた。

しかし、売り言葉に買い言葉で、

 「うるさい! 俺が買うって決めたんだから、買うんだ! 」 
と、怒鳴ると女房は、

 「あんた。今年の夏は家族で高知に帰るって決めてたじゃないの。これだけのお金があれば、何回も行けるじゃない。全く、ドブにお金をすてるようなものじゃない。契約早く解除してきて! 」
と詰め寄ってきた。

今年の夏には久しぶりに私の故郷である、高知に家族全員で帰ることになっていた。 

 「馬鹿野郎。男が一旦決めたことを撤回できるか。旅行なんか、止めた、止めた!」

旅行も男のこの私が決めたことであるが、もう、やけくそになっていた。

 このやりとりを傍で聞いていた娘が、

 「お父さん、何を言ってるのよ。みんな高知に行くのを楽しみにしてるんじゃないの。そんなもの着けたって変わりゃしないわよ。そんなことするの止めてよ」

女房と連合を組んで機銃掃射の様に集中口撃をかけてきた。

女房一人でもたまらないのに、女房に輪をかけたような口達者の娘と一緒では、多勢に無勢一旦退却をせざるをえない。  

 「うるさい。俺が払えばいいんだろ。黙ってろ。俺が払う! 」 

 「あんた。本当に払いなさいよ。私は知らないからね! 」

女房の最後通告を背に聞きながら、自分の部屋に退散した。

部屋に入って考えた。どうして見つかったんだろう? あっ、そうか、そういえば今日冬物をクリーニング店に出しに行くって言ってたな。あの背広はクリーニングに出すつもりでタンスの中に吊るしていたんだ。あの時は慌ててたから分からなかった。失敗したと思った。
 
しかし、どうするかな、金は大蔵大臣の女房が握っていて、私には大したへそくりもない。

以前、月の小遣いは、給料日にまとめて女房から貰うことになったが、貰った翌日に気が大きくなって会社の同僚たちを誘って飲みに行くと、もらった月の小遣いを一晩で使ってしまった経緯から、その後は、仕事に行く朝、その日の小遣いをもらっているという寂しい懐具合である。

この緊縮財政化の私にとっては、ローンの金を捻出するのに苦労するのは目に見えていた。

ここは、仕方がない、泣き落としで行くしかないと思った。

 夕食のとき、ぶすっとして黙々と箸を運んでいる山の神に、かけまくもかしこくも、恐る恐る声をかけた。

 「もう、そろそろ出来上がってくるし、オーダーメイドだから、契約解除すると違約金を取られるし、それはもったいないから、買ってくれないかな… 」

 すると、山の神は、

 「あなたは、何時もそうなんだから。勝手に一人で決めて、後で後悔ばっかりしてるじゃない。テレビもそう、買った後にもっと大型のテレビが出て安かったじゃない。ぶら下がり健康器も、ルームランナーもそう。全部あなたが勝手に決めて買ったものは、すぐ壊れるか、役に立たないものばっかりじゃないの。どれくらいの物が物置で眠っていると思ってるのよ! 」

 またまた私への言い方が、あんたから、あなたに変わってきた。これは脈があるなと感じた。

 「もう絶対、お前に黙って買い物するようなことはしないから、今回に限りお願いします」

 「本当に今回限りだからね。一回払いで出来ないか、明日私からその会社に聞くからね」

 翌日、女房が店に電話してローンの取り消しの折衝をしたが、契約済ましているのでできないと言われ、頼み込んで2回払いの手続きを取った。

しかし、2回払いでもローンのため、金利に大差はなかった。

 こんなことなら、最初から一回払いにしとけば良かった。と、またまた後悔した。

 二週間後にはカツラが出来上がるという日に、職場で、事務をとっていると、支社長から電話があって部屋に来るよう呼ばれた。

何事だろうと支店長に入った。支社長は、私にソファーにかけるようすすめてくれ座ると、

 「本山君、さっき異動の内示があって、君は今度横浜の本社勤務に決まったから、頑張ってください。異動は来週の水曜日です」
と言われた。

本社勤務になることなど想像していなかったから、驚いて、

 「本当ですか。ありがとうございます」
と、上ずった声でお礼を言って、支社長室を出た。

自分のフロアに帰ろうと階段を下りている途中、本社に異動が決まってうかれていたわけではないが足を踏み外して転げ落ちそうになり思わず飛び降りた。

 大した高さではなかったが、飛び降りた瞬間左ひざに激痛が走り、しゃがみこんでしまった。階段下にいた女性社員が駆け寄って、

 「どうしました。大丈夫ですか? 」
と、手を差し伸べてくれたが、痛くて、思うように立てない。

呼んでもらった救急車で総合病院に運ばれた。

 整形外科でレントゲンを撮り、診察してくれた若い医師写真を見て、

 「これは、左膝の前十字靭帯が切れているようですね。半月板も損傷しているようですから、手術をしなければなりませんよ」
と言った。

それほどの怪我をしているとは驚きであった。

 「ええっ、たいした高さではないところから飛び降りただけですよ。そんなに酷(ひど)いのですか? 」

 「この怪我は、簡単には治りません。このままにしておくと、若いうちは筋肉で補ってくれますから、そんなに不自由は感じないかもしれませんが、年を取るにしたがって、筋肉も弱くなり、歩くのに不自由になります」

 「来週、転勤なんです。なんとかなりませんかね? 」

 「手術するしないは、本人の自由ですけど、これから腫れてきますから、安静にしておかなければなりません。とても、一週間やそこいらで治るものではありません」

 「直ぐに手術しなければならないのですか? 」

 「早い方が良いと思います。しかし、手術すると3か月は入院しなければなりませんし、退院してもリハビリが毎日あります。自宅はこの近くですか? 」

 「いいえ、ここから、40キロくらい離れています。家の近くに総合病院があるのですが、そちらの方へ紹介状を書いていただけないでしょうか? 」

 これが、大きな間違いになることをその時は知る由もなかった。

 医師は、カルテの画面を見ながら、 

 「分かりました。それでは紹介状を書きますので、持って行ってそこの先生と相談してください」
といって、紹介状を書いてくれた。

 私は、3年ほど前にタバコを止めたが、その頃から太りだし、3年間で10キログラムも増えてしまった。

体重は増えても運動量は減っているので、筋肉も衰えてきている。

そのせいか飛び降りた時に足をひねったこともあり、衝撃で靭帯が切れてしまったのだろう。

健康のためにタバコを止めたのに、思わぬことで障害をつくってしまうこととなった。 

 部下が車で、私の住まいの近くの総合病院に連れて行ってくれた。

病院には、会社から連絡を受けていた女房が先に来て待っていた。

 「どうしたの。子供が怪我をして呼び出されるのならわかるけど、なんで、あなたが怪我するの? 怪我をするような仕事じゃないでしょうに」

 「弾みで、階段踏み外して飛び降りただけなんだけどな…」

 「年甲斐もなく飛び降りたりするからよ」

 「やろうと思ってやったんじゃないよ」 

 「それで、怪我の程度はどうなの? 」

 「外傷はないけど、大分酷いらしい。膝の靭帯が切れて、半月板も損傷してるんじゃないかって。手術の必要があって、完治するのは3か月以上かかるらしい。困ったな、来週の水曜日に本社に転勤が決まったのに…」

 「えっ、転勤なの?」

 「今日、支社長に言われたばかりで、支社長室から部屋に帰ってくる途中だったんだよ、怪我したのは。でも、怪我の程度によっては取り消されるだろうな。折角本社勤務になったのに…」 

と、妻に怪我をした経緯を話していると、

 「本山さん、中に入ってください」

診察室からの声に二人で診察室に入った。

そこには、40代後半の、白衣の眼鏡をかけた太った医師が座っていた。名札を見ると杉山と書かれていた。

その医師は私が持って行ったレントゲン写真を見ながら、

 「レントゲン写真だけでは、はっきりとは分かりませんが、本山さんを診察した先生の診断の通り、、前十字靭帯が切れているかもしれません。関節鏡を膝に入れてみましょう。そうすればはっきり分かります。それで手術するかしないか判断しましょう。関節鏡と言うのは、カメラの着いている細い管を関節の中に入れて関節の中の様子を見る器具のことです。本山さんの膝はこれから腫れてきます。腫れている間は関節鏡の検査は出来ませんから、腫れが引くまで自宅で安静にしていてください。大体2週間ほどで腫れは引くと思いますので、そうしたら、入院して頂いて、調べましょう」
 
その場で入院かと思っていたが、自宅で安静にしていることとなった。左膝を固定して松葉づえを借りて、女房の運転で自宅に帰ってきた。

松葉づえは怪我をしていない方に使うことを初めて知った。

それまでは、怪我をした方に使うとばかり思っていた。

 元気で仕事が忙しい時などは、いっそ病気でもして入院すれば楽だろうな。と、思うことがあったが、いざ、安静にして自宅で2週間もいると退屈で仕方なかった。

これから、3か月も入院するのかと思うとうんざりとした。怪我をして初めて健康の大切さが分かった。

休んでいる間に、本社転勤の内示は取り消されたとの連絡が会社からきた。
腫れも引いて、入院の日がきた。

入院に必要なものを用意して、病院に向かった。今まで病気見舞いはあるが、入院はしたことがないので不安だった。

入院受付窓口で入院の手続きを取ると病棟から看護師さんが来て病室に案内された。

病室は7人の相部屋で、私は入口に一番近い場所を指定された。

 隣のベッドには、16~7歳の少年が右足にギブスをはめて横になっていた。

母親とみられる女性が付き添っている。女性に話しかけると、

 ― 村木という名前で、昨年中学を卒業して長崎からこの県に大工見習いとして就職して住み込みで働いている。3か月前に足場から転落して右足を複雑骨折した。

母子家庭で、 弟が二人いて学校があるため、心配だったが様子を見に来ることもできず、やきもきしていた。春休みになったので、親戚に弟二人を頼み込んで3日間の予定で様子を見に来た。明日は長崎に帰らなければならない。―

と、語ってくれた。

中学を出たばかりで、郷里から遠い土地で働き始めた途端に大怪我をして、本人も母親も不安であろうと思われた。

同じ怪我をしている者同士で面倒見ようもないが、母親の不安を少しでも和らげる意味で、私が面倒見ますからと言うと、宜しくお願いしますと言って帰って行った。

 村木君は、もう3か月も入院していて、明るい少年で皆をいつも笑わせており、看護師さん達のマスコット的存在であった。

 入院して一週間が経って、関節鏡の検査が行われることになった。検査といっても、手術と同じに麻酔をかけて行われるため、前日の夕食後から薬を飲み、朝食は抜きだった。

 不安な気持ちで手術室に行くベッドに横たわると、看護師さんが手術室まで運んでくれた。

手術室に入ると、不安気な私の顔をのぞき込んだ若い看護師さんが、

 「大丈夫ですよ。全然心配いりませんから、安心してくださいね」

と、声をかけてくれた。

 自由の利かない体で顔を動かしてうかがってみると、若い看護師さんばかりのようだった。

手術室には手術室専門の看護師さんがいるのだということが後で分かった。

 看護師さんの勤務は、非常に過酷な勤務であることが、入院してみて分かった。

特に、外科や整形外科などは体の自由が利かない患者が多く、夜中にナースコールを押される回数は他の病棟に比べて多く、看護師さんがひっきりなしに廊下を走り回っていた。

 しかし、勤務している看護師さんは、きつい仕事であるにも関わらず、笑顔を絶やさずに患者の面倒をみている。

頭が下がる思いでいっぱいだった。

 間もなく口に呼吸器をかぶせられ、背中に麻酔薬を打たれた。

 背中が涼しくなってきた感じがしてきたのと、頭の側で大きな声でゆっくりと、数を数えている麻酔担当の医師の声が遠のいていくのと同時に、目の前が真っ暗になった。

ドラム缶の中に入って外から缶をガンガンと叩かれると、こんな音がするのではなかろうかという、不快な大きな音と、急激に体全体がぐるぐると回りだしたと思ったら、今度はジェットコースターでストーンとどこまでも落ちていく感覚になった。

 気持ちが悪い。どうしたのだろうこの感覚は?と不安感が広がってきた途端に、私は、行きつけのスナックで仲間と酒を飲みながら、カラオケのマイクを握っていた。

 ― あれっおかしいな。手術室にいたはずなのに、あれは夢だったのか? 今日は随分飲んじゃったな。そろそろ帰るかな。だけど、気持ちいいから、もう一軒だけ行くか ―  

 歌を歌いながら、酔っぱらった頭でそんなことを考えていると、曲が終わった。

席に帰ろうとするが、ふらふらする。この感覚はもう大分酔っぱらっているときのものだな。明日の朝、起きるのがつらいな。でも、もう一軒だけ行こう。

 「よ~し、もう一軒行くぞ! 」

 私の声に、皆ふらふらと立ち上がった。皆も大分酔ってる様子だった。

ワイワイ言いながら狭い階段を私が先頭に降りていくと、後ろから、

 「本山さ―ん、本山さ―ん、本山さ―ん、本山さ―ん」

と、私をしきりに呼ぶ声が聞こえる。

しかし、呼んでいる声に聞き覚えがない。誰だろうと振り返ると、後ろには仲間が騒ぎながら降りてきているだけで、誰も私を呼んではいない。

 おかしいな、空耳かな? と思って、階段をどんどん降りて行く。すると、また、
 
「本山さ―ん、本山さ―ん」

と、今度は大きな声で何回も呼んできた。

 ― うるっさいな! もう、いい気持ちなのに。誰だ、邪魔する奴は! ―

と振り返ったのと、目を開けたのが同時で、目の前に私の名前を呼んでいる麻酔担当の医師の顔があった。

此処はどこ? 私はだ~れ? という心境で、飲んで歌っていたのが麻酔による夢で、手術室にいるのが現実だということに気が付くまで、時間を要した。

 「あ-。何か酔っぱらっている夢を見ていました」

 まだ、もつれる声で答えると、

 「そうですか。目が覚めたようですね。じゃあ、大きく深呼吸してください」

医師に言われて深呼吸すると、徐々に感覚が戻ってきた。

その時思った。これは、いいな。麻酔で酒に酔ってる感覚が味わえるなんて想いもしなかったな。

 酒好きな私は、晩酌の際には最初にビールそして日本酒、焼酎で終わる毎日を過ごしていた。

考えてみれば、怪我をしてから、医師に飲酒を止められていたから、ずっと酒を飲んでいなかった。何か得をした気分になった。

 病室に帰ってくると、女房が心配げな顔で待っていた。女房に手術室での夢の話をすると。
 
「あなたは、私がどれほど心配して待っていたか分からないの? そんなふざけたこと言って」
と、怒られてしまった。

女房も検査というから、すぐに終わる簡単なことだと思っていたのが、手術と同じだと聞かされて戸惑っていたのだから、無理もないことだと、またまた反省した。

二日後、関節鏡で撮影したビデオを見ながら、杉山医師は、

 「これが、前十字靭帯です。最初見たときは切れていないと思ったのですが、よく見ると、付け根の部分から剥がれたようになっていますね。これだと手術しなければなりませんね」

一緒に見ていた女房が、

 「なんとか、手術しないで治りませんか? 」

 「手術をしないで治す方法はありません。いま手術しないと、後々歩いていると膝がガクッと落ちて、歩行困難になりますよ」

 「でも、体にメスを入れるということは、体に傷をつけるということになりますから、何とか手術はさせたくないんですが…」

 「そんなことを言っても、治らないものは、治らないんですよ! 奥さんの体じゃないんですから、旦那さんに判断してもらいましょ! 」

杉山医師が、女房とのやりとりに怒ってしまって、黙って聞いていた私に矛先を向けてきた。

手術をしなければ治らないと医者に言われれば仕方ない。体にメスを入れるのは忍びないが決断するしかない。

 「してもらうしかないだろ。先生に御願いしようよ」

と言う、私に女房
 
「でも…」

と言って渋っている。そこで、

 「年取って不自由な思いするよりいいだろう…。体にメス入れるの仕方ないよ。先生、お願いします」

と、医師に頼むと、今まで怒ってぶすっとしていた医師の顔が、急に笑みを浮かべて、女房に向かって、

 「分かりました。奥さん大丈夫です。絶対よくなりますから。信じてください。じゃあ、手術は来週の木曜日と言うことで手配します」
と言った。

医師は、関節鏡のビデオを取り出すと、不安そうな私と女房を残して、さっさと診察室を立ち去った。

医師がいなくなると女房は

 「何を怒ってるのよね。馬鹿みたい。手術を受けるのはこっちじゃない」

先ほどの、手杉山医師とのやりとりにまだ、怒りを抑えきれないようだ。

 「お前も、そんなに怒るなよ。手術を受けるのは俺だよ。当人抜きで二人が喧嘩しても仕方ないだろう。承諾したんだから、あの先生にすがるしかないんだよ」

 「でも、すごく感じの悪い医者ね。こっちは素人なんだから、もっと親切に説明してもいいじゃない。私は、分からないから聞いたのに、急に怒り出したりしちゃって。あれで大丈夫なのかしら…」 

 「看護師さんの話では、ベテランの医師だって」

 「どうだか分からないわよ。自分の病院の医者の悪口言う看護師さんなんかいないでしょうに。他の病院でも診てもらった方がいいんじゃないの?  後で足が曲がらなくなったりしたら、どうするのよ」

「そんなことはないだろう。国家試験受かってる医師だよ。どこの医師も同じだよ」

 「でも、手術って手仕事でしょ。大工さんだって巧い人と巧くない人がいるじゃない。それと同じよ」

 中々腹の虫が治まらない女房だが、私は、手術承諾書に署名をした。
 
手術の日が来た。

以前の検査の時には麻酔でいい夢を見た記憶から、麻酔を注射されるのが楽しみな気分になっている。

 前回と同じ麻酔担当の医師が私の背中に注射を打ち、数を数えだした。

前と同じに頭はぼーとして、腰から下の感覚はなくなったが、これは以前の麻酔と違うと感じた。

 医者が看護師さんと話していることや、周りの音が聞こえており、しびれている私の足を、ずんずんと引っ張っている感覚がある。

そういえば、手術の前の医師の説明で、今回の麻酔は部分麻酔で行うと言われたことが思い出された。

検査の時は全身麻酔だったから、全く意識がなかったのかと思い当った。

すると、

 「これは駄目だな。取っちゃおう」

杉山医師が言った言葉が聞き取れた。

 ― 何が駄目で、何を取ったのかなあ? ― 

ぼんやりとした頭で考えたが分からない。

すぐに手術は終わった。ベッドのまま運ばれて手術室を出ると、女房が心配そうな顔をして近寄ってきた。

看護師さんにベッドで運ばれながら、女房に、

 「今度は、酒飲んでいる夢なんか見れなかったよ。直ぐに終わったな」

と言うと。

 「そう? 4時間もかかったから、心配していたのよ」

 「ええっ! そうなのか、そんなに時間かかっていたのか。俺は、直ぐに終わったと思ってた」

自分では分からなかったが、麻酔で時間の感覚がなくなっていたようだ。

病室に帰ってしばらくすると、杉山先生がやってきて、手術の説明をしだした。

 「前十字靭帯は剥がれた部分を少し切って、つなぎ合わせました。あと、膝の右側の半月板は傷ついていたので、取り除きました。手術は何の問題もなく終わりました。」

と手術の内容を話した。

 手術中に何かを取ると言ってたのは、半月板を取ると言っていたのかと分かった。

たけど、取り除いて何もしなくていいのかな? そのことを尋ねると、先生は、  

 「半月板は左側に残ってますから、支障はありません。膝もリハビリすれば前と同じように曲がるようになりますよ」

と、手術が成功しことを強調して病室を出て行った。 

 ところが、その夜ギブスで固めた左足が強烈に痛み出した。

ナースコールを押すと、看護師さんが直ぐに来てくれた。

あまりの痛みに額に脂汗をにじませながら、

 「手術した足全体が痛くて、痛くて、我慢できないんです」

と言うと。看護師さんは、

 「麻酔が切れたせいかしら? 先生に聞いて痛み止めの注射液をいれましょうね」
と、言って一旦部屋をでて、すぐに帰ってくると、私の背中に刺さったままになっている注射針の上の部分に液体を入れてくれた。

しばらくすると痛みが取れたが、痛みが止まっているのは10分位で、また、ずきっ、ずきっと脈を打つように痛みが襲ってきてとても眠れるものではない。

ナースコールで看護師さん呼んで、話すと、

 「この薬を注入したら、3時間後しかできません」
と言う。

時計とにらめっこで、3時間過ぎた途端にナースコールを押す。

 なんだ、この痛みは。こんなに痛むのなら手術をしなければよかったと後悔する。

夜明け前、痛さと格闘した疲れでうつらうつらすると、また痛みが襲ってくる。

陣痛の痛みは男には分からないが、陣痛の痛みってこんなものなのかなとぼんやりした頭で考える。

 翌朝、回診に来た杉山先生に苦痛を話すと、

 「そんなに痛むわけはないんですがね? それに何回も注入した薬は、1回で盲腸の手術が出来る位の効き目がある薬なんですけどね? 」

と、痛みの原因が分からず首をひねっている。

 こっちは、原因はなんであれ、痛いものは痛い、本人にしかこの痛みは分からないもどかしさがある。

その日も一日中痛みとの格闘が続いた。みまいにきた女房が心配して、

 「そんなに痛いんなら、やはり手術しない方がよかったわね」

 「今さらそんなこと言っても仕方ないよ。手術はしたんだから。そんなことより、ああ、痛い! 痛い! 痛い! 何とかこの痛み取れないかなあ… ああっ! 痛い! 」

痛いって言葉では表せない、激痛ということはこういうことを言うんだろうと思った。

日中は少しでも気持ちを紛らわせることができるが、静かになった夜は恐怖である。

昨夜と同じく時計と、にらめっこでナースボタンを押す。全く痛みが取れない。

 ― 何か俺悪いことしたかな? こんなに痛むんじゃあ、ものすごく悪いことした罰かな。神様、仏様、何か分かりませんが、ごめんなさい、もうしません許してください何とか痛みを取って下さい。お願いしま-す。―

苦しい時の神頼みである。

普段は拝んだこともない神様、仏様に心の中で御願いする。

しかし、神様も、仏様も面識のない私からの頼みに、面食らっているとみえて救いの手が差し伸べられる気配もない。

ふと思った。足は御足と言って金だな。カツラを黙って買ったのは御足が出ていくことか。そうすると、黙って買う約束をした私に対する女房の怨念か? いや、そんな馬鹿なことはないよな。思わず首を振って否定した。

 神様も、仏様も願いを聞いてくれないのなら、時間が解決する。時間が経てば痛みもなくなるだろう。もう少し頑張ろう、死ぬまでずっと痛いことはあるわけがない。よし頑張ろうと、自分自身を励まして、痛みに耐えていた。

 翌朝の回診時、先生は、

 「そんなに痛いんでは、一旦ギブスを切って、足を診ましょう」

と、ギブスを電動のこぎりで切り開いた。

その途端、今までの強烈な痛みが水を引くようにスート引いて消えた。

 ほっとした私に、杉山先生は、

 「ああ、ギブスを少し固めにして締めすぎてたようですね。そのため傷口を圧迫して痛みが出ていたんですね」

と、何でもなかったかのように言った。

この言葉を聞いて、私は、

 ― ふざけるな! 縫ったばかりの傷口を石膏で圧迫すれば痛くなるのは当たり前じゃないか! 医者のくせにそんなことも分からないのか。あなたの誤った治療の結果こっちは二昼夜痛みで眠れなかったんだぞ。医療過誤じゃないか慰謝料払え! ―

と、言いたかったが、女房と違って気の弱いのと、なにしろ今までの痛みが取れたことで、ほっとしたら、二昼夜ろくに眠れていなかったせいか、猛烈に眠気が襲ってきた。

 気が付くと、女房が心配そうな顔でのぞき込んでいた。

 「ああ、眠ってしまっちゃった。何時だ? 」

と、言う私に女房は、

 「いびきかいて寝てたわよ。よっぽど疲れてたのね。もう昼の3時よ。昼食置いててもらったから、ご飯食べる? 」

と昼飯をすすめてきた。

ギブスを切ってもらってから、5時間も眠り込んでいたことになる。痛みが引いて今度は腹の虫が泣いてきた。

昼飯を口に運びながら、

 「しかし、ひどいね。こんな傷口を石膏で締め付けるなんて…」

思わず愚痴がでた。

 切り広げられたギブスの間から見えている足の傷口は、膝の上から弁慶の泣きどころ付近まで40センチほどあった。

膝の付近だけを切るのかと思っていたら、とんでもなく広い範囲だった。

これだけの傷口を固い石膏で締め付けて痛くないわけがないと思った。

女房は、傷口を見ながら、

 「こんなに切って元通り治るのかしら? 」

不安そうに言った。

 「傷口は縫われてふさがってるから大丈夫だろう。それより、傷口がふさがった後のリハビリが大変そうだよ。女の人なんか涙を流しているらしいよ」

 「そうなの…。このまま3か月もギブスはめていれば、関節も固まっちゃうものね」

 「まあ、我慢してやるしかないな」 

 痛みで苦しんでいるときは、痛みで忘れていたが、食欲も出てくると、どうしても、入れたものは出さなければならない。

しかし、手術したばかりで身動きが取れず、用を足すのはベッドの上でしか出来ない。

小はなんとか自分で出来るが、大はどうしても自分以外の人に頼るしかない。

看護師さんは、用を足したいときは言って下さいと、言ってくれるが、どうも恥ずかしくて頼むことが出来ない。我慢して女房が来るまで待つ。

カーテン一枚で仕切ったベッドの上での排泄。

臭いは漂うし、こんな屈辱的なことはないが、その手助けを頼むのに、肉親より女房に頼んだ方が気楽である。

夫婦は、他人同士が一緒になったのではあるが、その絆は肉親以上なのであろうか?

普段喧嘩ばかりしているが、この時ばかりは女房が、神様、マリア様に思えて、感謝の気持ちでいっぱいになった。

よし、退院したら女房孝行をしなければと、決心した。― その時は 

 隣の村木君、足のギブスが取れてリハビリに通いだした。帰ってくると私に、

 「本山さん。痛いすっよ。物凄く痛いっす…」

足をさすりながら顔をしかめて、言った。

 「そんなに痛いのかね? 」

 「痛いなんてものじゃないですよ。一日のリハビリで少ししか曲がらないし、先生が曲げようとして力を入れると、もう痛くて我慢出来なくなって、下のマットを叩いてギブアップですよ」

 「それじゃあ、プロレスの関節技じゃないか」

笑って言う私に村木君は、

 「そんな冗談言って笑っていれるのは今のうちだけですよ」

と言って、私を脅かした。

窓から見える田んぼに、レンゲの花が咲きだした。

村木君が退院する日がきた。村木君は手術の結果があまりよくなく、足に障害が残るため大工になることを諦めて、一旦故郷の長崎に帰ると言う。

手術したのは私を手術した杉山先生だった。

看護師が言うには杉山先生はベテランですから手術に問題はないと言っていたが、私は本当に大丈夫かなと不安になった。

 若くてこれからなのに、体に障害が残って可哀そうだけど、励ましてあげることしかない。

村木君は私に向かって、

 「本山さん、これからリハビリ大変ですけど頑張ってください。長崎にくることがあったら連絡してください。帰ったら手紙書きます」

と、逆に私を励ましてお母さんと一緒に帰って行った。

彼の性格なら大丈夫だ。どんなことがあっても乗り切っていくことが出来るだろうと確信した。

 田んぼに水が張られ田植えの季節になった。

 部屋の仲間も入れかわって、私が一番の古株となった。

私の隣のベッドに、腰のヘルニアで手術するという30代前半の男性が入院してきた。

聞くと吉田さんと言って私の家の近くに住んでいることが分かった。

 ほりの深い顔立ちで、背が高く、二枚目であり、話し好きで如才(じょさい)がない。

奥さんは細面でほっそりとした美人で似合いの夫婦である。旦那さんとは違っておとなしい方で、毎日面会時間の始まる時間から来て、面会時間が終わるまで吉田さんのベッド横の椅子に腰かけていた。

 何日か経って面会時間も終わり奥さんが帰った後、わたしは吉田さんに、

 「仲がいいんですね。毎日見舞いに来てくれて」

と、話しかけると、

 「何言ってるんですか。本山さんの奥さんも毎日来てるじゃないですか。私の女房は私が浮気するんじゃないかと監視にきているんですよ」

と、笑いながら返してきた。

私が、

「病院で浮気なんて考えられないでしょうに? 」 

と言うと、吉田さんは、頭をかきながら、

 「いやいや、恥を忍んで話しますけど、実は私、前に浮気して女の家にいるときに女房に踏み込まれたことがあるんです。女房には前の日に一泊の出張だと言って、会社の女の子のアパートに泊まったんですけどね。どうしてばれたか分からないんですけど、それが、ばれちゃったんですよ。次の朝、部屋の中で二人が出勤しようとしているところに、女房が押しかけてきて、大声出してドアを叩くから、声で、あっ!女房だと分かって、私は押し入れに隠れたんです。

女が女房を部屋の中に入れて、―私のとこには来ていません―って、女房に言ったんですけど、女房が、― それじゃ、探すよっ!― って言っていきなり押し入れを開けて、見つかって引っ張り出されたんです。後で考えたら隠れるのに慌てていたんで、玄関の靴を隠すのを忘れていたんですね。それ以来、信用をなくしまして、今回この病院に入院するときも、病院には女性の看護師さんがいっぱいいるから、看護師さんに手を出すんじゃないかって疑われてるんです」

と、自分の醜態(しゅうたい)を打ち明けた。

私は、それを聞いて笑いながら、

 「吉田さんはどんな女性にでも手を出すんだ」

と言うと、吉田さんは、

 「そんなことはないですけど、本山さんだってあるでしょ。悪い遊びしたことが」

と言ってきたので、私は、

 「いや、私は悪いことすればすぐに、おっかない山の神にばれちゃうから、女性に手を出したことは全然ないんですよ」

ありのままの自分のことを言った。吉田さんは私の返事に、 

 「へえ~。一回もないんですか。いまどき奇特(きとく)なかたですね。私は、三回しかないんですけど、全部ばれちゃったんですね。何か女房は勘が鋭いんです」

ぼろっと、聞いていない自分の悪行三昧を打ち明けだした。

 「さっきの話も含めて3回もですか。それじゃあ、奥さんの信用なくすのは当たり前じゃないですか」

あきれ返って言う私に、

 「女房の怨念ですかね。腰を悪くしたのは…」 

少し反省しているのか、しんみりと言う吉田さんに、

 「そうですよ。女性の嫉妬は怖いですからね。腰悪くして浮気できないように奥さんに祈られたんじゃないですか。奥さんは随分勘が鋭いらしいから、霊感も強いんじゃないですか? 」

と言うと、

 「ああ、怖い、怖い。腰が治ったら今度こそ浮気はしませんよ」

 「でも、無理でしょうね。手癖(てくせ)・女癖(おんなぐせ)は死んでも治らないって昔から言われてるから」

 「いや、私が浮気しようとして誘ったんじゃないですよ。全部女性の方から言い寄ってくるのですよ。今度からは言い寄ってきても無視しますか」
吉田さんは、女性にものすごく優しいことが、会社の女性が見舞いに来た時のやり取りからも分かっていた。

 「吉田さんは、女性に優しすぎるんですよ。見舞いに来る女性全員に、母性本能をくすぐるようなことばかり言っているじゃないですか。あれでは、女性は吉田さんにころっとまいっちゃいますよ」

 「そうですかね。自分では全然そんなこと意識してないんですけど 」

 「天性のものなんでしょうね。これでは、奥さんこれからも苦労しますね」

 「本山さんの意見を参考に努力しますよ。ところで、どうですか? これ消灯になったら、すぐに飲んでください」

そっと、紙パックを差し出した。

何だろうとパックを確認すると日本酒の紙パックだった。

 「これ飲んでたんですか。いつも消灯になるといい臭いがするなって思ってたんです」

と言うと、吉田さんは、

 「消灯になって30分過ぎないと看護師さん来ないじゃないですか。その間に飲むんですよ」

と飲み方を教えてくれた。

全く悪い人が隣に来たものである。

しかし、もう禁酒して4か月近く経っている。

酒飲みの私はもう限界である。

傷口は治っているし酒は百薬の長と言われている。

薬だから飲んでも大丈夫だろう。と勝手な理屈をつけて正当化した。 

― 消灯で―す ―

 のアナウンスで全員ベッドのカーテンを引く。

私は、カーテンを引くのを待ちかねて、紙パックの酒のストロー入れ口にストローを差し込み、酒をすすりこむ。

旨い、いや、旨い。本当に旨い、きゅわーっと喉から胃に流れ込んでいくのが実感できる。

五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)にしみわたるとは、このことを言うんだろう。

久しぶりの酒の味は格別だ。

ゆっくり味わって飲みたいが巡回してくる看護師さんに見つかってしまう。隠れて飲むという、緊張感と罪悪感が旨さを倍加する。一気に飲み終えた。

久しぶりのアルコールを体内に取り入れたせいか、横になっていても酔っぱらった感覚がする。

 整形外科の病棟は、怪我をして不自由な体の患者が多いので、夜になるとあちこちから、うめき声が聞こえたり、ベッドから落っこちたりと、夜勤の看護師さんは、てんてこ舞いである。

病室では、体の自由のきく患者がナースコールを押すなど、相互扶助の協定が暗黙のうちに出来ていた。

ギブスがとれて少しは体の自由がきいていた私は、その対応に追われて熟睡できない日々が続いていたが、久しぶりのアルコールのおかげで、その日は熟睡、いや、爆睡できた。

酒好きな人間が酒を止めていて、また、その味を味わうと、もう止めることが出来ない。

部屋の7人のうち誰かが、外出できるとその者が紙パックの酒を買ってくることとなった。

 毎夜、消灯時間になると7人全てが待ちかねたように、一斉に自分のベッドのカーテンをさっと閉め、ベッドからは、"ちゅる、ちゅる、ちゅっ" とストローをすする音が聞こえだす。

 消灯から30分後、懐中電灯を片手に看護師さんが、各部屋を巡回する。出入り口に一番近い私が、監視役で、看護師さんの足音が近づくと皆に小声で、― 来たぞ―と知らせる。

すると、全員息を止め、看護師さんが部屋を出ていくのを待っている。臭いを隠すための方策である。

しかし、こんな方策をとっても、部屋の全員7人が飲んでいた酒の臭いは部屋の中に漂っているので、看護師さんも分かっていたのであろうが、知らないふりをしていてくれたのだなと思った。

入院してかれこれ3か月が経った。今朝、私の足のギブスを外すことができた。就寝前に隣の吉田さんに、

 「本木さん、いよいよ明日からリハビリですね」

と言われる。

 ギブスをはめていた左足は右足と比べるとほっそりとして、棒のようになって膝を曲げることは全くできなかった。

明日からは、村木君に脅かされた恐怖のリハビリが始まる。 

翌朝から午前中にリハビリが始まった。

車いすでリハビリ室に行く。リハビリ担当の内田先生は30代のがっしりした体格で、鼻ひげを伸ばしていた。

 私は内田先生に、

 「リハビリすれば正座もできるようになるって、手術する前に杉山先生は言っていたのですが、大丈夫ですよね? 」

と不安そうに尋ねると、内田先生は、えっという怪訝そうな顔をして、

 「この手術は前十字靭帯を根元から少し切って、いわゆる引っ張ったような状態でつなげてますから、少し短くなっているんです。ですから、いくらリハビリしても、正座することは無理です。大腿部の筋肉の一部を切って靭帯の代替とする手術がありますが、その手術だとリハビリで、元のように正座が出来るようになります。本木さんの場合は、先ほども言いましたが、靭帯自体が短いので、リハビリで靭帯を長くすることは出来ないんですよ。最大に曲げて130度が限度でしょうね」 

と、自分の足を130度位に曲げて説明してくれた。

全然、執刀医の杉山先生の言っていたことと違う。

元通りになると言ったから手術したのに、これでは手術しない方がよかった。

だまされた気分になった。杉山先生は、開業するということで既に病院を退職していて、怒りのぶつけ先がない。

 内田先生は、

 「頑張ってやりましょう。正座できなくても日常生活に支障がないくらいになりますから。心配ないですよ。ただし、本人の努力次第ですけどね」
と励ましてくれた。

ギブスを外した左足は、細くなって膝は棒のように固まって曲げることができない。

これを徐々に曲げていくのだから、考えただけでも苦痛である。

最初の2~3日は、慣らし運転ではないがそんなに苦痛を感じず、これは大したことないなと高をくくっていたが、日を追うごとに苦痛が増してきた。

うつ伏せになって足を伸ばしていると、先生が後ろから私の足を曲げようと力を入れる。

すると、関節を逆に曲げられるときのような激痛が襲う。

時代劇の拷問の場面で、正座をさせ、その両膝の間に棒をはさみ、上から大きな石を乗せる場面があるが、その時の苦痛はこのようなものではないかと感じた。

歯を食いしばって耐えようとするが、額には脂汗(あぶらあせ)が出てくる。

マットの真ん中で施術を受けているが、プロレスでロープに逃げるように、あまりの痛さに腕の力で端っこに逃げようとして先生に引き戻される。

 村木君の言っていたギブアップという表現がぴったりだった。

これを我慢して耐えなければ足は曲がらない。

口にハンカチを詰め込んで、唸りながら毎日のリハビリの苦痛に耐えた。

うっとおしい梅雨の季節がすぎ、日ごとに暑さが厳しくなり夏の季節が来た。室内は空調が効いているが、私は汗びっしょりの毎日であった。

部屋に戻ると、汗みだれで疲れ切った顔の私を見て、みんなが、大変ですねと、声をかけてくれる。

 毎日の苦しいリハビリに耐えた結果、膝が90度まで曲がるようになった。

左足に装具を着け、ぎこちない動きではあるが、松葉杖一本で歩くことが出来るようになった。

退院して、通院でリハビリを受けることになる。

腰のヘルニアで入院していた吉田さんも、後一週間で退院する予定になっている。

今回は厳しい奥さんの監視下におかれていたので、看護師さんとの甘い話しはなかったようである。

部屋の皆に別れを告げて家に帰ってきた。

久しぶりの我が家、やはり、自分の家の畳の上が一番いい。大の字になって、健康の大切さをしみじみと感じた。 

 日曜以外は、女房の運転でリハビリに通う毎日となった。

入院以来女房は愚痴も言わずに欠かすことなく毎日病院通いをして、私の面倒をみてくれた。

私は、口では憎まれ口を言っているが、本心は感謝の気持ちでいっぱいである。

足が治ったら、旅行にでも連れて行ってやろうと思って、

 「足が治ったら、一緒にどこか旅行にでも行くかね。傷害保険に入っていたから、130万円位保険金がおりるって会社の庶務から連絡来てたから」

と言うと、

 「あなたと行ったって、まっすぐ目的地に行くだけだし、どうせ、ずっとお酒飲んでるだけだからつまらないわ。近所の奥さんたちと一緒に行ったほうがずっと楽しいわよ」

と、そっけない返事が返ってきた。

 「せっかく、俺が迷惑かけたから罪滅ぼしにと思って言ったのに、何だ、その言いぐさは」

 「そう思ったら、カツラなんか頼むようなムダ金つかうようなことしないでよ」

 カツラはとっくに出来ていたが、思わぬ事故でそのままになっていた。

カツラにかかる費用が自分の怪我の保険金と同じ位という皮肉な結果となった。

お金の事をお足と言うが本当に自分のお足で払うこことなった。しかし、体は元にはもどらない…

 毎日のリハビリの結果、松葉杖も必要なくなり、装具を着けただけで、歩くことに不自由を感じなくなった。

カツラ店に連絡を取って、指定された日に行った。理髪台に座ると、女性社員がまさにカツラを持ってきた。

これを見て、

 ― なんだ、本当にカツラじゃないか。自分が思ってたのと全然違う。これならカツラ着けてるって分かっちゃうじゃないか ―

と失望した。

 「あれっ、注文した時は、一本の毛に二本、三本って結わえていくって言ってたですよね。そうじゃないんですか? 」

と、聞くと
 
「結わえる髪の毛が有ればできますけど、本山さんの場合はありませんので、ネットで代用するんですよ。左右の髪のある方に結んで髪のない部分は、人口毛をネットに植え込んであります」

と説明されたが、足の手術といい、カツラといい何だか騙(だま)されたような気分になったのと、もうそんなに髪がなくなっているのかと、複雑な気持ちになった。

 社員は私の気持ちにお構いなしに、整髪して髪のある部分に結わえてカツラを被せた。鏡の中にふさふさとした髪型の私がいた。しかし、あまりにも黒々として、きちっとし過ぎる髪型で違和感がある。

「このまま洗髪しても大丈夫ですし、乾かすのにドライヤーを使っても平気です。しかし、日にちが経ちますと、結わえている元の毛が成長してカツラが浮き上がってきますので、結わえ直しのため、月に一度お見えになって下さい」

と言う社員の声を背中に店を出た。 

 誰も気にしていないし、見てもいないのだが、すれ違う人達、みんなが私を見ているのではないかと、被害妄想的な気持ちである。

家に帰ると、女房は、

 「いいじゃない」

と、好意的に言ってくれたが、高い買い物であるから納得せざるを得なかったのであろう。

 半年間の療養生活を終え、出勤する。

会社では私に気を使っているのか、誰も私の頭のことには触れてこない。逆に私が、

 「いやあ。入院している間に髪の毛が増えちゃったよ」

と、差し向けるが、以前は冗談を言い合っていた仲間も、戸惑ったような表情をして、私の髪の毛の話を極力避けている。

 日にちが経って、次第にカツラを着けていることに違和感がなくなってきた。

ところが、通気が良いように作ってあると言われていたカツラが蒸れることに気が付いた。

熱いものや辛い物を食べた時などカツラの下の地毛から、汗がじわっと出てくる。

 整髪に行ったとき、カツラを取った頭頂部を見ると、ハゲ部分がカツラを着ける前よりもっと広がってきたような気がする。

着けっぱなしが良くないだろうと思い、社員に話すと、カツラを取り外しが可能な装具を付けてくれた。

 これはカツラの周囲に4か所髪の毛を挟(はさ)んで留(と)めるフックで、カツラの取り外しが可能となった。

 夜寝るときは、外して枕元に置いて寝ていた。

 カツラを着けてから1年が過ぎ、夏の季節となった。

 昨年は私の思わぬ怪我で、家族で私の故郷へ帰ることが出来なかったので今年は車で里帰りすることとなった。

 私の故郷は高知県の西部を流れる四万十川の中流域にある。

 故郷にはもう何年も帰っていない。
 
 夜の8時に出発して東名・名神・山陽道から瀬戸大橋へと向かう。約15時間も要して実家にたどり着いた。

 女房が、高速道路では大型トラックの横暴な運転に怖れをなし、更に高知に入ると、車1台が走行できる道幅しかない道路が、山肌を縫うように走っているのに怖れをなして、
 
「こんな道路、A級ライセンス持ってなきゃ走れないわよ」

 と運転交代を拒否したので、一人で運転してきて、へとへとになった。

 私の故郷は、若者は都会に出ていって、老人しか住んでいない過疎地である。

翌日、田舎に残っている数少ない同級生が集まって、四万十川の河原でバーベキューを開いてくれた。

皆とはもう何年も会っていない。

 「本山、前と変わらんね。髪の毛も真っ黒でいっぱいあるじゃないか。俺なんか、みてみな、だいぶ薄くなったがぜよ」

郵便局に勤める細田が、私の頭を見ていった。私は、
 
「俺は苦労しないからね。ハッハッハ… 」

空疎(くうそ)な笑いで誤魔化す。

横で二人のやりとりを聞いていた女房が、ニャッと笑って何か言いかけたが黙った。

酒やビールを飲んでいるうちに酔ってきて、気持ちが大きくなった。
― 少年時代の仲間じゃないか、何も誤魔化す必要なんかないや。此処では素でいこう ―

 「この頭はカツラだよ」

 頭に手をやり、パチパチとフックを外してカツラを手に取った。

肉や魚を焼いていた皆が、一瞬ぽかんとした顔をしたが、笑い出した。

細田が、

 「どおりで歳の割にはふさふさして、真っ黒じゃと思っちょったがよ」
と言うと、お寺を継いでいる上村が、焼けた肉をほおばりながら、

 「頭の毛なんかどうだっていいじゃろうが、俺らあ、いっぱいあるけんど切っちょっるがじゃけんね」

と言うので、それを見て、

 「何だ、お前坊さんなのに、肉食うのか? 」

と、驚いて尋ねる私に細田が、

 「こいつは生臭エロ坊主よ。肉は食うし、魚を取るのは巧いし、法事で酔って檀家の娘さんには抱きつくし、始末におれんがよ」

あきれ返った私が、

 「お前、坊さんの学校で何を習ったんだよ? 」

と言うと、上村が、

 「逆もまた定理なりって言うじゃろうが、それをこの世で実践(じっせん)しているがよ。檀家(だんか)の皆さんは私みたいなことをしたらいかんぞって、身をもって教えちょるがよ」

 「ものは言いようだね。そうやって善良な人達をたぶらかしているんだな」

 「そういう本山も、まやかしもので人をたぶらかしているじゃろうが、お互い様じゃよ」

 「そうか、お互い様か。アッハッハッハ」

 飲むほどに酔い、日も暮れて空一面に星が瞬きだした。

都会では明るくて星座を探すのに苦労するが、故郷では、星が多すぎて星座を探すのに苦労する。

 「いや-。久しぶりに、こんなきれいな星空をみたよ」

感動する私に、市役所に勤務する栗山が、

 「わしらあは、ずっとこんな空しか知らんけん、こんなものって思ってるけんね。お前みたいに感動するのが不思議ながよ」

 「毎日こんな星空見てればそうだよな。俺もここに住んでた時は、星空はこんなものっだって思ってたんだよな。都会に出て、すっかり空を見上げることを忘れたたよ」

 「そうか。でも、まだ、空は汚れちょらんけんど、川はダメじゃね」

 「ええっ? こんなに水が澄んでいてきれいな川じゃないですか?」

驚く女房に栗山が、

 「奥さん、昔はこんなもんじゃあ、なかったがですよ。もっともっと澄んでいて、魚もいっぱいいたけんね。テレビや本で四万十川は日本一の清流って宣伝したろう。それで観光客は来るようになったけんど、来たら来たで、ゴミは捨てっぱなしにするは、その観光客目当てに、漁師は鮎やウナギらあ、川の生き物は取り放題取って少のうなるし、その後始末は全部俺らあがやらんといけんがよ。過疎地の村おこしに観光はいいけんど、痛しかゆしってとこじゃね」

と言った。私は、それを聞いて、

 ― そうだな。まだ、俺らが子供の時は、鮎やウナギ、エビやゴリも、いっぱいいたなあ ― 

と思った。

過疎化して若者がいなくなった地域の活性化を図るために清流を表看板として行った観光客誘致が、清流本来の姿を失いつつあるという皮肉なこととなっていた。

 楽しい日々は直ぐに過ぎる。

久しぶりの故郷での生活を満喫し、故郷を離れる日が来た。

来るとき運転に怖れをなした女房に運転する気は全くない。

故郷に帰って来るときは気持ちも張っていたが、故郷を離れるとなると、なんとなく気持ちも落ち込んでしまうのは、幾ら年を取っても変わらない。

 お盆休みの最後とあって、道路は大渋滞だった。

東名高速道路にようやく入った時は、予定時間を大幅に越えて午後10時頃だった。

この時間は予定では自宅に着いている時間だった。

運転している私に疲れが出てきた。

浜名湖サービスエリアで遅い夕食を摂り、本線に入ってしばらくすると、食後のせいか眠くなってきた。

休憩しようとパーキングに車を入れる。

どうしたわけか、パーキングに入れて眠ろうとすると、目が冴えて眠れない。
ところが、本線に入ってしばらく走るとまた、眠気が襲ってくる。

パーキングやサービスエリアがあるたびに、車を乗り入れて車の中で少し休憩して、また、走るということを繰り返していた。

静岡県内に入り、サービスエリアに入った。

車の中で休もうとするから眠れないのだろうと思い、外のベンチで休もうと思い、車外に出る前に、

 「誰もトイレに行かないのか? 」

と声をかけるが、子供3人は後部座席でぐっすり寝ているようであり、女房も寝ぼけ眼で首を横に振った。

私は、外に出て、ベンチでごろりと横になったが、横になるとまた目が冴えてきて眠れるものではない。

直ぐに起き上がり、車に戻ると、助手席の女房が運転席の方に上体を傾けて寝ている。

 「おい、行くぞ」

と、声をかけ、眠ったままの女房の体を助手席側に押し戻して出発した。

その後も、サービスエリアやパーキングがあれば停まり、少し休んでは走るということを繰り返しながらようやく、自宅近くまでたどり着いた。

すでに午前3時になっている。

予定では、午後10時には帰っていて、翌日仕事にいくこにしていた。

これでは、4時間くらいしか眠れない。

コンビニエンスストアーで朝食の買い物をしようと駐車場に車を乗り入れた。

私は、先に店に入って、品物を選んでいたが、誰も後から来ない。

どうしたんだろうと、店の外に出ると、女房が血相を変えて走って来ると、

 「あなた! お兄ちゃんがいない! 」

と言う。

長男のことを家族のものはお兄ちゃんと言っていた。

 「何? 何でいないんだ? 車から降りた気配はなかったじゃないか。いなくなる訳がないじゃないか」

半信半疑で車の後部座席を見ると、長女と次男が眠たそうな顔で、

 「お兄ちゃんがいないよ」

と言った。

 「何を言っているんだ。お兄ちゃんは、お前たちの真ん中に座っていただろうが、何処で降りたか、分からないのか? 」 

 「分かんないよ、眠っていたから…」

らちがあかない。女房に、

 「お前は何処で降りたか分からないのか? 」

と聞くが、

 「私も眠くて、眠くて、全然覚えていない…」

全く頼りない返事がかえってきた。 

「じゃあ、探しに行くしかないな」

と言う私に、女房は、 

 「探しに行くって言っても、何処だか分からないじゃない。110番して警察に探してもらいましょうよ」

 「乗用車に乗っていた高校3年生の息子を何処か分からない場所に忘れてきました。って言うのか? みっともないだろうが、それに、事件じゃないから警察が本気で捜してくれるわけないだろ。俺は嫌だよ。自分で探しに行った方がいいよ」

 「いいわ、私が110番するから」

 女房に電話させるわけにいかないので、仕方ない。

私は、藁(わら)にもすがる思いと、恥ずかしさの入り混じった複雑な気持ちで110番した。

 「はい、110番警察です。何がありました。事件ですか。事故ですか」

 「あのう… 子供を東名高速道路の何処だか分からない、パーキングエリアか、サービスエリアに忘れてきちゃったんですけど…」

 「子供さんの特徴と、名前、年齢と東名高速には何処から入って、何処で降りましたか?」  

 「高校三年生の男の子で、名前が本山敏雄と言います。身長は、165センチ位で、細身で頭は角刈り、白の半そでシャツに黒色のズボンをはいてます。四国から帰ってきたので、名神から東名に入って厚木インターで降りました」

 「ちょっと… ちょっと待ってください。お聞きしますけど、高校3年生の男の子供さんですよね?」 

 「はい、そうです」

 「観光バスに乗っていたのですか?」

 「いえ、乗用車です」

 「ワゴン車ですか?」

 「いえ、普通車の五人乗りで家族5人が乗っていました。息子は後ろの座席の真ん中に乗っていました」

 「えっ?乗車の後部座席の真ん中に乗っていて、いなくなったことを誰も気が付かなかったんですか?」
 
電話の向こうで、クスッと笑ったのが分かった。

無理もないな。

 「私以外は皆寝ていて、私も後ろは気をつけていなかったので気が付かなかったんです。何回もパーキングや、サービスエリアに停まっていたので、何処で降りていなくなったのか分からないんです。ただ、浜名湖では食事したので、そこまでは一緒にいたのは間違いないんですが… お金も持っていないので心配なもので…」

「高校3年生で男のお子さんですから、心配ないとは思いますが、静岡県警にも手配します。発見しましたらお宅に連絡します。もし、お宅に帰ってきたときは、もう一度こちらに連絡してください」

 電話を終えて女房に、

 「やはり、本気で探してはくれないよ。高校3年生の男の子だよ…」

 「待ってみましょうよ。連絡が来るかも知れないから…」

 「あいつ、110番は金がかからないこと知らないだろうな。知っていれば助かるんだけどな」

 「あの子、おっとりしてるから、そんなことに気が回らないわよ」

 「2~3時間待って連絡が来なければ探しに行くぞ」

 2時間待っても、3時間待っても警察から連絡は来ない。

しびれを切らして女房に、

 「もしも、連絡来た場合に困るから義姉(ねえさん)にここは頼んで探しに行こう」

 すぐ近くの義姉に恥を忍んで訳を話し、留守番を頼んで女房と二人で車に乗った。

しかし、探しに行くと言っても場所が特定されていないことから、東名高速道路の下り線を走って上り線のパーキングやサービスエリアを見つけると、近くのインターで反転しパーキングに入って探すことを繰り返したが、見つからない。

 もしかして、上り線を歩いているのではないかと目を皿のようにして探すが見つからない。女房が、

 「いないわね…もしかしたら、高速道路から下の道に降りたのかしら?」
と言う。

 「一般道路に降りたのなら、誰かに話すだろう。そうすれば分かるんだけどな…これじゃあ、今日は会社休まなきゃなんないな。見つからなければ明日も休まなきゃならないから、次のパーキングで会社に電話するよ」

 パーキングに車を停めて会社に電話をすると、原主任が電話に出た。

 「係長、どうしたんですか?」

 「実は、恥ずかしい話しなんだけど子供を東名の何処か分からないパーキングに置いてきちゃつて、今探してるんで、今日は休暇届を出していてよ。もし、今日も見つからなければ明日も休むことになるから、その時は課長に本当のことをいうから、今日は長旅で疲れたから休むって言っといて」

 「ええっ。パーキングに置いてきちゃったんですか、大変ですね。一番下のお子さんですか?」

 「そんな、大声出さないでよ。他の者に聞こえちゃうよ。いや、恥ずかしいんだけど長男なんだよ」

 「へえっ。トシ君ですか。なら大丈夫でしょう。一人で帰ってきますよ」
 側で電話を聞いていて様子が分かったのだろう、係員の田町、通称ペラ子が電話を変わった。

ぺら子は笑いながら
 
「もしもし、係長、トシ君を忘れて来ちゃったんですか」

 しまった。この子に聞かれたらすぐに会社中の話題になってしまう。しかし、後の祭りである。 

 「こらっ、誰にもいいんじゃないぞ。今探しているんだから」 

 「はいはい。誰にも絶対に言いません。頑張って探して下さいね」

 いなくなったのが高校生の長男と分かって安心したのか、人の気持ちも知らないで勝手なことを言って電話を切った。

愛(あい)鷹(たか)パーキングを探そうと、富士インターで転回して本線に入ると女房が、

 「もしかして、私が運転席にもたれかかって休んだときかもしれないわ。あなたが出て行った後、誰かがトイレに行って来るって、出て行ったような気がするわ… 眠くて仕方なかったから、確かじゃないけど…」
 
「馬鹿! 早くそれを言えよ。それは富士川サービスエリアじゃないか。今富士インターで転回したばかりじゃないか」
 
沼津インターまで戻ると再度転回して清水インターから上り線を走り、富士川サービスエリアに入った。

帰りに、ここを出発して既に8時間も経過している。

幾ら何でもここで待っていることはないだろうと、不安な気持ちで駐車した場所へハンドルを切った瞬間女房が、

 「居たわ!」

と叫んだ。

女房の指差す方向を見ると、駐車場横の芝生の上に所在無げに立っている長男の姿があった。

車が停止するのももどかしげに飛び降りた女房が駆け寄った。

ここでドラマだと。二人でひしと抱き合い ― 良かった。良かった ― と涙の対面となるのであろうが、現実は、私たちを見つけた息子、

 「何やってんだよ! 人を置いて行っちゃって!」

と、怒鳴った。

 「悪い、悪い。まあ、良かった無事で」

 「全くう―。トイレから帰ってきたら車が出ちゃったから後を追いかけて大声出したのに気が付かないもんな。途中で絶対気が付いて帰ってくると思って待ってたら、こんな時間じゃないか」

 「何で110番しなかったんだ?」

 「お金持ってないもん」

 「110番は金がかからないんだよ」

 「えっ。お金いらないの。知らなかった」

 「パトカーが探しに来なかったか?」

 息子考え込んでいたが、

 「そういえば、休憩所で休んでいたときに、駐車所にパトカーが来て、― モトヤマ トシオさん。いましたらパトカーのところまで来てください ― って言ってたけど、まさか自分のことじゃないだろう。同じ名前の人がいるんだなと思って出なかったよ」
 
「馬鹿だな。何で出なかったんだよ。折角警察に探してもらってたのに」

機転のきく子供だと自分のことかも知れないと思って出ていっただろうに、如何(いかん)せん私の子供である。

翌日出勤して、支社長のところにお土産を持って行った。

すると、支社長は私の顔を見るなり、

 「本山君、子供さん見つかったらしいね。良かったね」

と、笑顔で言った。

 「えっ。何で支社長が知っているのですか? 」

 「田町君に聞いたよ。高校三年生の息子さんだって? 大変だったね。アッハッハ」

案の定ペラ子が話していて支店中の話題になっていた。

私に付けられたあだ名は「子忘れカツラ係長」だった。

もっとも、私と話しているときは、カツラは抜いていたが、陰では言っていたようである。

 翌年の春、お預けになっていた本社への転勤となった。

本社では、誰も私がカツラを着けていることを知らない。

平気で私の前で髪の薄い話はするし、以前一緒に仕事をしたことのある上司は、私の頭をみて、

 「本山さんは,昔のまま髪の毛が真っ黒でふさふさしていていいですね。私なんか真っ白で薄くなってますよ」

と嘆くが、私はカツラですとは言う訳にもいかず、言葉を濁していた。

 仕事が終わって、私の係員全員で会社の近くに飲みに行った。

楽しくて時間を忘れ飲みすぎてしまった。

タクシーで今から帰っても、すぐに出てくるようだ。

じゃあ、会社に泊まろうと会社に帰ってきた。

 私の勤めている会社は大手の運輸会社で、全国から配送車両が昼夜を問わず出入りしているため、24時間体制の勤務を行っている。

会社に着くと、当直の社員と、残業で残っていた同僚の今井係長がいた。

今井係長私をみて怪訝(けげん)そうに、

 「どうしたんですか。本山さん。こんな遅くに?」 

 「いや、一寸飲みすぎちゃって。ここに泊めてくれないですかね?」

 「それじゃあ、当直室の隣の部屋を使って下さい。布団も二組ありますから」

 「今井係長はこんなに遅くまで仕事していて、明日も仕事でしょう。どうするんですか?」

 「私は、車で来てますから、もうそろそろ終わりますから、帰ります」

 当直員は交代で仮眠を取っているため、隣の普段は休憩室の部屋に、当直員が布団を敷いてくれた。

 やれやれと、カツラに手をやりフックをパチパチと外して、枕元に置くと布団にもぐり込んだ。

酔いも回ってきて睡魔が襲ってきた。うん…? 誰かが私を呼んでいる。

夢か現実か分からない。俺はどうしてるんだっけ? 眠さと酔いの中でぼやっと考えていると、今度ははっきりと、部屋の外から残業していた今井係長が

「本山さん。本山さん」

と呼んでいる。

頭の中は ― うわっ! 何で今頃、

 「なん、何ですか。どうしました? 」 

と答えるが、カッ、カッ、カツラ、ど、何処にやったっけっ? 早く、早く着けなきゃ、早く、早く! とパニックになっていた。

慌てていて、電気を点けることも忘れていた。

なかなかカツラが手に触れない。時間を稼ごうとして、寝ぼけたふりして、ふとんに入ったまま、もう一度

 「えっ、どうしました?」

 「すみません。帰ろうと思ったんですが、この時間だとまた、すぐに出てこなきゃならないんで、そこに一緒に寝かせてもらえませんかね? 当直室は当直員起こすことになるんで」

暗い中を手探りでカツラを一生懸命探す。

あった!手に触れたカツラをさっと着けて立ち上がり、電気を点けてドアを開けた。

寝ぼけたふりをして、

 「じやあ、どうぞ」

 今井係長ほっとした様子で入ってくると、布団を敷きだした。

私は起きたついでにトイレにたった。

用を済まし、手を洗おうと何気なく鏡をみて、顔が引きつってしまった。

鏡には形状記憶毛髪できしっと七三に分かれているはずのカツラが、おかっぱ頭のように、髪の毛が額にばさばとなっている。

 ― うっわっ! どうしたこれは、 どうしたんだ。 何で壊れたんだ? 寝る前はこんな状態ではなかったはずだが? こんなになっちゃってどうしよう… ―

 カツラの前後が逆になっていることに気づくまでの数秒間がものすごく長く感じて、色んな思いが頭を駆け巡った。

ほっとして、あわてて付け直した。

さっき起きて顔を合わせた時今井係長は気が付いてなかったかな… 部屋に帰ってドアをそっと開けると、今井係長は疲れからか、もう、軽い寝息を立てていた。

あっ、良かったと安堵(あんど)して、もう一度カツラに手をやり、フックを確認した。

 朝目覚めたとき、今井係長に何か言われるのではないかと、ひやひやしたが、何も言わなかった。

気が付いていなかったのか、気がついていても、私に気を使って話をしなかったのだろうか。

気が付いていても、あなたはカツラだったんですかって言えないよなっていう思いと、本人が思ってるほど、人は他人のことを気にしてはないのではなかろうかと複雑な思いだった。

それからしばらくしたある日の出勤途中、乗換駅の構内を歩いていると、後ろからいきなり肩を叩かれた。

びっくりして振り返ると、以前、他の支店で一緒だった同僚の増山が笑いながら、私の後ろにいて、歩きながら声をかけてきた。

 「久しぶりだね。今どこにいるんだ」

 「本社の車両課だよ。マッサンは何処?」

 「俺は朝日支社の営業三課だよ。でも、どうしたんだ、その頭 ? 前は薄かったのに、随分黒々として、髪の毛ふさふさじゃないか? 随分毛が増えてるじゃないか」

 「良い毛生え薬使ってるから、おかげで髪の毛が増えたよ。だけどマッさんの頭もずいぶん、寂しくなってるじゃないか」

 「馬鹿言ってるんじゃないよ。そんな毛生え薬のことなんか聞いたことないぞ。それもしかしたら、カツラか?」

時間は十分あったが、このまま増山に関わっていたら、ラッシュアワーで大勢の通勤客の前で

 ― この人は、カツラで―す ―と、叫ばれてしまう。

 「違うよ。あっ、時間ないや。じゃあ、またな」

 「電話するよ、今度飲みに行こう」

と言って、ようやく、離れることが出来た。

 増山とは、会社入社が同期ということで、以前はよく飲み歩いた。

増山は学生時代番長を張っていたこともあり、飲むとやること、なすことが半端ではない。

 100キロを超える巨体で、柔道五段、鬼瓦のような顔をしていることから、酔っぱらって他人に絡むことはあっても、絡まれたことは一度もなかった。

5年位音沙汰がなかったので、真面目な私としては、ほっとしていたのである。

大変なやつと再会してしまったなあと思っていた。

 すると、案の定増山から電話が来て、他の仲間と一緒に、休み前の日金曜日に飲むこととなった。

増山と駅で待ち合わせて合流したが、皆との約束した時間にはまだ、早かったので暇つぶしに駅前のパチンコ店に二人で入った。

 普段は出たことがないのに、二人とも大当たりして、二人で大きな箱4つにパチンコ玉がいっぱいになった。

ところが、暇つぶしで入っていたのに、思わず玉が出たことから、二人ともパチンコに夢中になっていた。

ふと腕時計を見ると、もう約束の時間が迫っていた。増山は私に、

 「モトさん。もう、時間ないから、これ2箱取っといて明日来てやろうよ」

と言った。私は、

 「まずいよ。持って帰るのは。それにドル箱持って帰れないよ」

増山は、

 「いや、俺の袋に入れればいいよ」

 と、持っていたナップザックの口を開いて、止める私にお構いなしで、その袋に2箱分のパチンコ玉を移して、2箱分を景品に変えて店を出た。

私は増山に、パチンコ玉は店の物だから持って帰るのはまずいよと言ったが、増山は明日またここにきて返しに来るんだから、それにパチンコ店のどこにも持ち出し禁止なんて書いてなかった。

俺は一時的に預かってるんだから大丈夫だよ。

と、自分勝手な理屈で持ちだしたことを正当化した。

そして、自分の持っているパチンコ玉の入った袋を、私に差し出して、

 「モトさん持ってみなよ。重いよ」

 「どれ、どれ、うわっ! 重いな。 これを明日まで持っていて、店に持っていくのか? 俺は嫌だよ。自分が持ってなよ」

と、私は差戻した。

 「分かったよ。言いだしたことだから俺が持ってて、明日店に持って行くよ」

と受け取った。

 皆と合流して久しぶりの再会に飲み会も盛り上がってお開きの時間となった。

増山は二次会に行こうと他の者を誘ったが、皆、増山の酒癖の悪さを知っているので、何かと理由をつけて断り、結局私と2人だけになった。

増山は私に話しかける。

 「皆冷たいな…。じゃあ、モトさん。俺の知っている寿司屋に行こうよ」

 「近くか?」

 「すぐそこだよ」

 「じゃあ、時間も遅いから1時間だけだよ」

 「分かったよ。最後まで俺の相手してくれるのはモトさんだけだな」

 口ぶりや動作から、増山が随分と酔ってると思った。

私も久しぶりの仲間と楽しくいっぱい飲んだ酒で酔っぱらっている。

増山のひいきにしているという寿司屋は、酔った2人がふらふらと歩いて10分位のところにあった。

中に入ると、カウンター席に若い1組のアベックの客がいるのみだった。

私たちもカウンター席に座った。

カウンターの中から主人らしき人が声をかけてきた。

 「マッさん、本当に久しぶりだね」

 「ちょっと忙しかったからね。マスター適当に握ってよ。それから、ビールちょうだい」

 「あいよ」

店主が、ビールの栓を抜いてコップとビールを私たちの前に置くと、魚を切り出した。

 増山、パチンコ玉の入った袋をカウンターに上げて、

 「ちょっと、見てみようか」

と、袋の紐をそっと引っ張って開けた。

 途端に、ジャラジャラとパチンコ玉が袋からあふれ出した。

慌てた増山、袋の開いた口を閉めればいいものを、落ちた玉に気を取られ袋を倒してしまった。

袋からあふれだしたパチンコ玉が飛び跳ねてカウンターに転がり出した。

 飛び跳ねた玉は、横のアベックの醤油皿にも入っていった。

カウンターから落ちた約5千個のパチンコ玉は床いっぱいに広がった。

 「あっ、あっ、あっ。すみません、すみません、すみません」

 二人で謝りながら慌てて、転がっているパチンコ玉をかき集める。

 店の主人、包丁を握ったまま口を真一文字に結び、私たちを見つめている。

その表情から、はらわたが煮えくり返っているのが分かる。

隣のアベックは二人とも寿司を握ったまま、口を開いて何が起こったのかとぽかんとしている。

 「マッ、マスター。まっ、また来るよ。じゃあね」

 ようやく、拾い集めたパチンコ玉を袋に入れると、増山、マスターを見ないで声をかけると、私を置いてさっさと店を飛び出した。

 「どうも、すみませんでした」

私は、むっとしている主人と、笑い出したアベックの客に深々と頭を下げると、主人の前のカウンターに千円札2枚置いて、あわてて増山を追いかける。

 「マッさん、ひどいじゃないか、一人で逃げ出して」

ようやく追いついてなじると、

 「ごめん、ごめん。あそこにいたら、マスターに包丁で切り付けられるよ」

 「まったく、友達がいがないんだからな」

 「悪かった。じゃあ、お詫びにもう一軒知っている店があるからそこに行こうよ。俺が奢るから」

 「いや、もう今日はいいよ。帰るよ」

 これ以上飲みに付き合ってると、何が起こるか分からない。

飲み足りなさそうな増山、渋々承諾した。

帰る方向が同じだったので、電車に一緒に乗った。

車内は混雑していて、座ることが出来ず二人で吊革につかまった。

 すると、増山は目の前に座って、スマホをいじっている学生風の男性に大声で、

 「青年! 君はどこまで行くのかな?」

と、話しかけた。声をかけられた若者、顔を上げて増山を見ると、びくっとして、

 「僕ですか? 」

と、自分の顔を指さしながら答えた。増山、

 「そうだよ。君だよ。青年って言えば君しかいないだろ? 隣のお嬢さんが青年に見えますか? 見えないでしょ。君にお聞きしてるんです! 」

 「僕は、○○です」

 「そう、○○。僕は△△までなんだよ。君の降りる駅は僕の降りる駅よりずいぶん近いね。いいね。座って行けて。近いのにね。年寄の僕は疲れちゃったなあ。いいね。君は僕より近い駅で若いのに座って行けて」
若者は、大声で横暴なことを言う増山の風体に、これは逆らわない方が良いと判断したのか、
 
「どうぞ、変わります」

と言って立ち上がった。増山は、

 「そう? いいの? 無理しなくていいんだよ。だけど折角だから座らせていただくかな。悪いね」

と言って座ると、他の乗客に向かって大声で、

 「みなさん! この青年は感心な青年で~す。私がいいって言うのに、青年は、あなたは疲れているようだから、どうしても座ってくれって、私に席を譲ってくれました!」

 立ち上がった青年、恥ずかしそうに隣の車両に移って行った。

私は、増山の仲間と思われたくないので、二人のやり取りを聞きながら離れた場所に移って行った。

知らん顔をしていると、増山は隣の若い女性に、

 「お嬢さんは、何処まで行くのかな?」

今までのやり取りを聞いていた若い女性、おどおどして、

 「□□までです」 

 「そうなんだ。若いのに座って行けてうらやましいね。実はね、僕の友達に可哀そうな男がいるのよ。一緒に電車に乗ってるんだけどね。よぼよぼな年取りなのに立ってるんですよ。お嬢さんは座って行けてうらやましいな。そう□□までなんだね。近いね」

 大勢の前で、こう言われては、若い女性かわいそうに席を立ちあがった。

すると、増山、私の方を見て手招きし、

 「お―い。モトさん! 親切なお嬢さんが、よぼよぼのあんたに席を譲ってくれたよ! ここに来て座りなよ!」

 大声で叫んだ。隣の車両に逃げ込もうとする私の背に、

 「あっ、どこ行くんだよ! 逃げんなよ。みなさ~ん、今あっちに行ってるのが、よぼよぼで可哀そうなお爺さんの本山さんで~す。頭はカ・ツ・ラで~す」

 馬鹿たれマスの声が車内に響いた。これでは一緒の電車に乗っていると、追いかけてきて、何をするか分かったものではない。

止まった駅で電車を降りて、次の電車に乗った。

 休み明けの月曜日に出勤してしばらくすると、増山から電話が来た。

 「モトさん、金曜はごめんな。俺、あれから寝ちゃってさ。気がついたら千葉だったよ。終電なくなったんで、仕方ないから駅の近くにあった公園のベンチで寝て、朝帰ってきたよ。アッハッハ」

 「アッハッハじゃないよ! 電車の中で人のことをカツラだって言ったりして!」

 「えっ? 俺そんなこと言ったっけっ? 全然覚えていないや。あっ、それから女房には、モトさんのところに泊まったことになってるから、よろしくね」

 増山は、外では恐いものがないが、家では奥さんに全く頭が上がらない。何かことを起こす毎に奥さんがその尻拭いをしているので、奥さんの心労は計り知れない。

 ― 今度やったら、離婚だからね! ―
と、奥さんから釘をさされても、飲むと直ぐに忘れてしまうのである。

しかし、本人は酔いが覚めると一応、しおらしい態度を取っている。

おかしなもので、迷惑ばかりかけるのが、母性本能をくすぐるのか、それとも本当の夫婦愛なのか、離婚する様子は、今のところないようだ。

 実は、土曜日の昼過ぎに、奥さんから、金曜日に増山が私の家に泊まって迷惑をかけたとのお詫びの電話が来ていたのである。

その時は何のことだと一瞬思ったが、ああ、増山は奥さんにまた、嘘言っているなと判断して、奥さんに余計な心配をかけたくなく、私の家に泊まったことにしていた。

 「奥さんから土曜日にお詫びの電話きたから、家に泊まったことにしといたよ。でも、マッさん飲みすぎだよ。気をつけなよ。それから、持っていたパチンコ玉どうした?」

 「そっか。あいつ何も言ってなかったな…。モトさんにはいつも迷惑かけて悪いね。ありがとうな。パチンコ玉はずっと持っていたよ。土曜日にパチンコ店に行って、ありのまま話したら、今回だけですよ。もう持ちだすことはしないでくださいって言って、景品に変えてくれたよ。モトさんに半分やるか?」

「いらないよ。自分で使いなよ」

 景品分けてもらうことになったら、また、増山と会って酒を飲むことになって何が起こるか分からないので断った。

 増山との電話が終わってすぐに、社長の秘書から社長室に直ぐに来るよう電話がきた。

何で私が社長に呼ばれるんだ?係長が社長に呼ばれることは、めったにない。

私には呼ばれる心当たりがない。まさか、増山が他に何かしでかしてて、私がそれに何か関わっていたのか? 心当たりは増山のことだけである。

でも、会ったのは最近一回だけだな。電車では騒いでいたけど犯罪になるような行為はしていないし…。不安な気持ちで社長室に行った。

社長室に入ると座っていた社長が立ち上がり、私のところに歩み寄ってきて、
 
「本山君、おめでとう。君は課長に昇任しました」

と言った。

えっ どうして私が昇任?思ってもいなかったことである。

ぽかんとしている私に、社長は、

 「9月には転勤になりますからね」

と言った。私は我に返って、

 「ありがとうございます。本当にありがとうござまいます。転勤先はどちらでしょうか?」

うわずった声で聞く私に、社長は、

 「朝日支社の営業三課の課長です」

と言った。

 えっ! 朝日支社そこは増山の勤務している支店じゃないか。それに営業三課だと増山が私の部下になる。

 「朝日支社ですか…」 

 「そうです。何か不満でもありますか?」

 「いっ、いいえ、そんな不満なんかありません。光栄です。昇任させて頂いて本当に有難うございます。頑張ります。これからも宜しくお願いします」

 「あの支社は、全国の支社の中で一番、各課で競っている支社ですから頑張って業績を上げてください。本山さんに期待していますよ」

 「はい。精一杯頑張ります」

社長の励ましの言葉を受けて社長室を出たが、嬉しさの裏に新しい悩みが出来た。

 正式な昇任の発表の日に増山から早速電話が来た。

 「モトさんおめでとう。俺のとこの課長だってね。宜しく御願いしますよ。口が裂けても、モトさんがカツラ被ってるってことは誰にも喋らないからね」

 こんな話をしたときは、すでに課員に言いふらした後のことだと思った。

面白おかしく、私がカツラを被っていることを話したことであろう。転勤の気が重くなった。

 転勤が迫ってきたので、整髪のため店に行った。

カツラを着けた最初に私を応対した社員が、整髪している部屋に来て、

 「本山さん。カツラの毛が痛んでいますので、予備のカツラをお作りした方がいいですね。二つ目は割引率が高いですよ」

 予備のカツラを作ることを勧めてきた。

 ― 冗談じゃない。最初は一生もつような事を言ってて、まだ一年も経ったか経たないうちに、痛んでるなんて、これでは詐欺じゃないか ―

と、腹が立った。

 「いや。このままで結構です。でも、そんなに簡単に壊れるものなのですか? 最初に作るときは、形状記憶でずっともつって言ってたじゃないですか」

 「二つあれば、交互に使用できますから、痛み方も少ないのでお勧めしているんです」

 向こうは、商売である。

一つで一生使えるとなると、カツラ店が潰れてしまう。

何だかんだと理由をつけて、もう一つ売りつけようと画策していることは目に見えている。

今度はその手にはのらないぞと、強固に購入を拒否して店を後にした。

 異動日の前日、係の皆が、転勤祝いをしてくれた。

嬉しさのあまり2軒・3軒とハシゴしているうちに、だいぶ酔っぱらってきた。

酔っぱらった頭の中で、カツラを着けて、誤魔化(ごまか)していることが、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

人目を気にして、自然に逆らって、まやかしものを使っている自分が、何だか、ちっぽけで卑屈な人間に思われてきた。

田舎で同級生の住職に、本山もまやかしもので他人をたぶらかしているって言われた言葉が心の中に蘇ってきた。

 ― よしこんな物取っちゃおう!―

 決意して、頭に手をやり、パチパチとカツラのフックを外した。

外したカツラをカラオケのステージに向かって投げた。

飛んで行ったカツラは、歌っていた坊主頭の小島の頭に上手く乗っかった。

前後が逆で、坊主頭の小島の頭がオカッパ頭のようになった。

 小島の歌に合わせて、手拍子を叩いていたみんなが、一瞬手を止め、何事が起ったのかとぽかんとしたが、小島の頭と、私の頭を交互に見て笑い出した。

係員の一人が私に、

 「係長。カツラだったんですか? 」

 「そうだよ。でも、もう止めたよ。転勤を機会に外すことにした」 

 「ええっ。着けていても、いいじゃないですか。似合いますよ」

 「いや、もう隠すことは止めだ。自然が一番」

 カツラを外して心の中のもやもやも吹っ切れた。

みんなの席を回りながら、ふざけて、男女かまわず頭にカツラを被せる。

小島は、前後を逆にしたのが気にいったのか、歌う都度に、笑いながら私のカツラを逆にして着けて行った。

皆も面白がって大笑いだったが、他の客は異様なものを見ているような目で、私たちを見ている。

 気が付くと、私は家に帰る駅からの田んぼ道を歩いていた。

飲みすぎてどうやって電車に乗ったのか、思い出せない。

歩きながら胸から腹にかけてチクチクする。

セーターのせいかな? でも、肌に当たってるわけじゃないしな? 不思議に思いながら家に帰ると、私を見た女房が、

 「あなた。どうしたの。その頭は? 行くときはカツラ着けて行ったじゃない」

 「えっ! 」

 頭に手をやって、カツラがないことに気が付いた。今までずっとカツラを着けていたので、着けていた時の感覚が残っていた。

 ― あれっ? どうしたっけ。んっ? ああ、酔っぱらったときみんなの前で外したな。小島が何回も着けていたから、あいつが持って行ったのかな?―

考えながらセーターを脱ぐと、中からカツラが落ちてきた。

店で脱いだカツラを、胸の中に仕舞っていたのだった。

歩いているときに胸がチクチクしたのはセーターのせいではなかった。

女房に、

 「もう、カツラを着けることは止めにしたよ」 

 「どうしたの。どういう心境の変化?」 

 「いや。人間、自然が一番ってことに遅ればせながら気が付いたよ」

 翌日、私はカツラを外して転勤先の朝日支社に出勤した。

課長の席に座ると、増山が近づいてきて、小声で、

 「モトさん、カツラは?」

 「何カツラって?」

 「とぼけたこと言っちゃって。この前まで着けてたじゃないか」

 「知らないよ。夢でも見てたんじゃないか。俺は前からこのままだよ」

 増山は、おもちゃを取り上げられた子供のように、残念そうな顔をして自分の席に戻った。

 仕事が終わって、課員が私の歓迎会を催してくれた。

飲むほどに座が乱れてくると、課員の一人が私の盃に酒を注ぎながら、

 「課長は、カツラだって噂だったんですが、違ったんですね」

と言った。

私は増山が絶対に私がカツラを被っていると、支社中に流しいてると思っていたがそれが確信に変わった。

 「そんな噂流したのは増山だろう」

 「えっ。何で分かるんですか?」

 「あいつとは、長年の付き合いだから分かるよ」

 口が裂けても言わないってよくもいったものだ。

皆知ってるじゃないか。私は、マッさんの席に行って、コップに酒を注ぎながら、 

 「マッさん。口が裂けても言わないって言ったよな。良く、言うよ。俺がカツラ被ってたって、皆知ってるじゃないか」

 「えっ。いや。そうか? 俺の口が一人で勝手に裂けちゃったよ。つい、弾みでさ。言っちゃったんなら、ごめんな」

 「まあ、もういいよ。あんな、まやかしものの世話になることは、もうないから」

 「ええっ。そんなこと言わずに、着けときゃあ良かったんだよ。これから俺の話のネタになったのにな…」

 私は、そう言ってる増山の頭頂部付近に毛がなくなっているのに気が付いていた。

 ― 増山は俺のこと言ってるけど、自分の頭のことはどう思ってるんだ?―

と思って増山に、

 「マッさんだって俺より、頭の上は薄くなってるよ。他人事じゃないよ」

 「そっかあ? でも、俺はモトさんみたいに無理して自然に逆らわないから平気だよ。それに、ハゲに悪人はいないっていぅじゃないか。ハゲてることに誇りを持たなきゃな」 

 「マッさんは百年に一回くらい良いこと言うじゃないか。そうだな。割り切ってハゲ同盟でも作るか」

 足を怪我して受け取った保険金の額と、カツラの代金はほぼ同額だった。

お足の怪我でお金が入り、毛が増えた代わりにお金が出ていった。

残ったのは自分の我を通して曲げなかったためか、膝の関節が曲がらなくなって正座が出来なくなったのと、半月板を取り除かれたせいで、寒くなると膝が痛んでくるという手痛い後遺症である。

 自然であれば、本人が気にしているほど他人は気にしないが、自然でなくなれば逆に他人は気にするようで話題にもなる。

毛が増えた満足感より、逆に人目を気にする精神的負担が次第に多くなった。

まやかしものは、所詮(しょせん)まやかしもので、本物に代わることは到底できない。

 私のカツラはその後本山家「大蔵大臣」の手でいずれかに隠されて、その行方は現在も不明である。

無毛地帯は、頭頂部から前額部付近まで広がってきた。

今度こそ、きっぱりと坊主狩りにしよう。

今から床屋に行ってこよう。女房に、

 「おい。床屋に行って坊主狩りしてもらうから散髪代くれ」

と言って手を差し出すと、女房は、

 「また、また。そんなこと言って後悔するんじゃないの? 」

 「今度こそ、本当だよ。後悔なんかするものか。心機一転自然のままでいいんだよ。もうまがいものに頼るのは止めた」

 「そうね。人間自然に逆らうとろくなことがないわね。いいじゃない。髪の毛がなくて死ぬわけじゃないし。年(とし)相応(そうおう)ってことを考えなさいよ」

 「そうだな。もうそんなに若いわけじゃないし、古女房の掌の中から逃げ切れないんじゃ、幾ら飾っても仕方ないしな」

 「どっちが言うセリフよ。私の方があなたに縛り付けられているんじゃない」

 「いやいや、実際俺は、お釈迦(しゃか)様(さま)の掌(てのひら)の上にいる孫悟空と一緒だよ。結局は何事もお前の言うとおりになっているよ」

 固い決意で玄関を出ると、家の前の田んぼ一面にレンゲの花が膨(ふく)らみ、変わらない自然の営みはみずみずしい青葉の季節を迎えている。

 床屋に着くとドアの張り紙を見て思わず立ち止まった。

その張り紙には 

― 発毛しなかった人=わずか10% 弱!育毛業界を震撼(しんかん)させる前代未聞の結果を打ち立てた究極の育毛剤 新発売 ! 当店で販売中―
と書かれていた。

ドアを開けながら、頭の中では薄毛の人90%にも発毛効果があるのか、すごい育毛剤だなという思いが渦巻いていた…


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