見出し画像

レンズ

最近、街を歩いていると、友人やカップルで写真を撮っている人たちや、駅でのお見送りの瞬間を思い出としてカメラに収めている人、インスタのストーリーを撮っている人、TikTokを撮影している女子高生など、日常生活のそこら中でカメラのレンズがこちらを見ている。

私は友人と写真を撮るのも少しためらうくらいにカメラというものが苦手であるため、他人のカメラのレンズを、さながらスナイパーの射線を切るようにかいくぐり、日々街を歩いている。
しかし、それも完璧ではないので、どこの誰かも知らない人の思い出の一部に私が入り込んでいるだろう。また、YouTubeやTikTokを見ていると、主役の端に映り込んでいる一般人の顔や行動についておもしろがっていたり、ましては馬鹿にしたりと、様々なコメントがされているのを何度も見たことがある。それを見た時に、もし私がその映り込んでしまった立場であったらどうしようと考え、街を歩くことでさえ委縮してしまう。

もし、私自身が自分の顔に自信があれば、そんな悲観的に考えることもないのだろうかと真剣に考えたこともある。しかし、自分の顔に100%自信を持っている人など果たしているのだろうか。どんなに顔が整っていても、少しはコンプレックスがあるのではないか。そう考えた場合、他人のカメラに写り込んでしまうことはしょうがないと、全員割り切って過ごしているのだろうか。そんなことを長々と考えていても、私の中で一向に解決しない。

逆に私が友人と写真を撮ったり、風景を映した時のことを考えてみる。その場合は、メインの友人であったり、風景以外には全く目もくれない。それは写真を撮った瞬間、時間が経って写真を見返すときなどいつ見てもその中心で撮ったもの以外の映り込んだ個人が話題になることはなく、写真の風景の一部として認識する。大勢の人混みが映り込んだ祭りや観光地などの写真では、人混みもそのときの情景の一部として、いい写真のスパイスとなることがある。
私以外がどうかは分からないが、少なくとも私と同じように、自分が撮った写真に映り込んでしまった個人についてどうでもいいと感じている人はいるはずだ。

そう考えても、私は今後も日常にあふれるカメラのレンズにおびえながら生活するだろう。日々の通学や買い物など、街に繰り出す機会は無数にある。その中で、生き辛さやストレスを感じていてはどうしようもないと考える反面、やはりあのレンズには高校の授業中的外れな回答を披露してしまい、教室中の視線を集めてしまった時のような怖さを感じてしまう。

思ったことを勢いで書いてしまったため、長々と読みにくい文ですみません。
ここまでご覧くださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?