人生は博打だ

 博打といえば、リスキーだけど当たればデカい賭け事が普通思い当たると思うが、最近私は、人生こそ博打だと考えている。現実がどうであれ、誰もが一度は「人生は幸福に満ちている」と信じた時期があると思う。しかし、意外と不幸や不運は頻発するし、危険な目に遭う事もある。
 自分が人として生まれてくることを決めたのは神なのか、自分なのか、親なのか、それとも違う何かなのかはさておき、生まれるということからもう既に運任せの部分が多い。何故なら、生まれてくる国によって新生児の生存率に差があること、その家庭の貧富や親、兄弟、先天性疾患の有無など、自ら選択が不可能な外的要因によって決まってしまうものが多すぎるからだ。生誕以降も、親が本当に自分を心身ともに健康に育ててくれる保証さえどこにも無いし、かといって脳が未発達の赤子が自らをどうこうすることも不可能。結局はなされるがままだ。社会に出てからも、どんな仕事をしてどんな会社に入るかは自ら決めて就職活動をするが、晴れて社会人になったとしても蓋を開けてみれば希望の部署に行けなかったり、訳のわからない仕事をさせられたり、上司や同期といった人間関係に振り回されたり。
 人生において自ら選べないことの方がはるかに多く、周囲の影響を多大に受け、振り回されながら人は日々を生きている。このようにいうと、自分の人生なのだから自分で選べるだろうと言われるかもしれないが、本当にそうだろうか。自分の意思決定のみで人生が決まるなら、もっと人生は容易いはずだ。就職の例でいえば、前述した希望の部署の話がそうだろう。会社を選んだのは自分であるが、合否が決まる段階においても、その年に応募してきた人が例年よりたまたま多く、より優秀な人材がいて不合格になったり、合格はしても部署が希望通りでなかったりするのは外的要因であって、自らでどうにかできるものではない。
 自分がここに生きているのが唯一の事実で、そのほか今自分が置かれている環境などについては多少取捨選択ができるとしても、そういうことは基本的に自分の範疇に及ばない所で勝手に自然と決まってしまって、それに対して不満を抱えながらもまあいいかと妥協したりして(やはり不満はあるけれど)、そうやって周囲に振り回されるのが人間でありそれが人生の本質であるとやんわり理解して、妥協の連続の中を生きていく。
 そんなふうに進む人生は、薄っぺらい、なんて思う。だがそれでも、結局腹が空いて、夜になれば眠くなって。そういう欲求には抗えない自分もまた、薄っぺらい。振り回されるが人生で、振り回されるが故に人生そのもの、あるいは日々の生活が上手くいくも上手くいかないも外的要因の所為にしてしまうような薄っぺらい自分を、許容して、色々妥協して、薄っぺらい人生を、生きていくしかないのだろう。
 外的要因ばかりで左右される博打のような人生にも、いつか当たり(あわよくば大当たり)が出ればいい。そんな淡い期待を抱くことで、どうにか今日も人生を進めているに過ぎないけれど、それでも空腹の腹に染みる飯は変わらず美味い。そんなちっぽけなことで生きていける人間の単純さに、頭の中の靄が少し晴れて救われたりしながら、今日も世界のどこかで、生きていく。

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