誠実に愛するということ
婚姻届を役所に出してから11年経つ。離婚届を役所から持ち帰ってからは、かれこれ7年くらい経ったかな。
多少話題にもなったキャッチコピー。なかなか悪くないけれど、完全には共感出来なかった。
結婚とは契約である。ので、他の幸せになるかもしれない契約もあるなか、結婚というものを選択するという、その意気込みはわかる。当時よりも多様な価値観が尊重される現在だから尚のこと、そう感じる。が、結婚というものが幸せに繋がるものであるという認識、あるいは結婚したからには幸せにならなければならないという義務感が漂うので、論理の組み立て方は好きなのだがイマイチ共感出来ないのだ。
愛がなくとも結婚はできる。愛があるからこそ結婚しないという選択もある。価値観はそれこそ多様だ。
結婚とは契約である。結婚は魔法の言葉ではない。この言葉に過度な期待をしすぎてはいけない。
唯一この論理が通るのは、「結婚(という契約を)しているのだから、一方的に破棄してはいけない」くらいだろうか。どんな事態になっても対話や合意なしに反故にしてはいけない。
『結婚しているから……』私はこの呪いの言葉を聞く耳を持たない。
結婚とは契約である。契約を理由に私の内心を制限されるのは御免だ。そして私の内心が、契約によって制限されているからこそ導かれたものだと誤解されるのは耐え難い。
前提の「結婚しているから」がなければ、途端に揺らぎそうなものをどうやって信じることができようか。頼りなくて嘘くさくて、そこに誠実さは宿らない。
私は、11年前からずっとこの思いを変わらず持ち続けている。明日の自分や1年後の自分の内心を拘束するつもりはない。行動を制限するつもりもない。契約によって選ばされた意志に誠実さは宿らない。
だから私は、日付以外を記入した離婚届を妻に渡している。首根っこを押さえられているわけではない。奴隷契約を結ぶわけでもない。逆に、その紙切れ一枚を守るための行動をするつもりはないという意思表示だ。これは、生殺与奪権を与えるかわりに(行使できないと高を括って)好き勝手にやらせてもらうという免罪符にするわけでもない。
日々、妻と生活を共にするという行動とその意志は、契約に制限されることのない私の本心であるということだ。
いつか、妻が泣きながら私の眼前に離婚届を突き出すことがあるかもしれない。泣いて喚いて、あるいは私が泣くことになっても、それでも私は自分の行動を突き貫くと、そう覚悟しているのだ。その可能性を十分に受け容れているからこそ、あなたと共にするこの瞬間に誠実さが宿るのだ。
結婚とは契約である。
朝、コーヒーの香りとおはようの声を契約更新の合図にしよう。
いつまで経っても起きてこないあなたの寝顔も契約更新のサインにしよう。
直らない私のだらしないクセと、それに対するあなたの変わらないお小言だって、そうだよ。
まあでも、その離婚届がたからものになることを願うくらいには、私はあなたを愛しているのだよ。
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