見出し画像

私は反出生主義者になれない

 反出生主義を理解してその存在を容認してもなお私が完全に同意できないその理由がわかった。それは、私がどうしようもなく自由を愛しているからだ。


 反出生主義の本質は2つに分けて言い表すことができる。

①悲しみを覚える個体を産み出すことなかれ
②生を受けてしまったならばせめて幸福あれ

 少なくとも私はこのように理解している。この2点に通じている感情は優しさである。
 ①は、生まれてしまったらたとえどんな幸福が待っていようと、それ以上の辛さや悲しみがありトータルで言えばマイナスになってしまう。マイナスになるくらいなら最初からゼロがいい。という考えが元だ。
 ②は、もうマイナスであることは確定だが、せめて幸福になってそれを薄めさせてあげるべき、というものだ。


 理屈はわかるし、根拠となる優しさも素敵だ。悲しみを覚える個体のことを思って生み出さないというのは、極めて倫理的で人のことを考えたものだとも思う。何せ、自分はいくらこの主義を広めても完全に救われることはないのだから。


 ところが、反出生主義のこの考え方は私の倫理とは相容れない。
 私の倫理は「自分の自由を大事にすること」にある。自分の自由を何よりも大切にすることが絶対的に正しいと思っている。

 自分の自由を観念するのは自分という人格そのものだ。人格は生まれ出ないことには生じようがない。生まれてから苦悩にさいなまれるのも、生まれてこなければよかったと感じるのも、全て自分の自由だ。私は、その自由を阻害されることは許さない。同時に、他の人にもそのように考えてほしいと思っている。

 自由を行使する人格を生みだすこと、つまり出生を私は否定しない。それは親の自由の行使でもあるし、生まれてくる子が将来自由の行使をするために必要なことでもあるからだ。
 形成された人格がどんなに苦しもうが何が起きようが、自由を行使できる以上の幸福などない。と、このように私は考えているのだ。
 (これを価値観の押し付けと捉えることも出来るだろう。しかし、倫理という意味で言えば、私がこのように生きるということの主張や価値判断のものさしを表明することは避けては通れないことだ。そして、私の倫理や自由を否定する自由も認めている。)

 反出生主義の派閥のうちには、人類は滅亡すべきという意見を持った人もいるだろう。私は人類が滅亡することは構わないと思っている。自由を行使する人格が失われてしまうことは仕方がないとも思っている。人はいずれ死ぬし、人を殺したいという自由を行使する人も出てくる。当然、反出生主義という価値観を貫く自由も同様に認めているわけだ。
 誤解のないように言い添えておくと、自由を謳歌する人格が消滅するのは構わないが、自由を渇望することすら出来ないようにするという状況は許しがたいと考えているという事だ。

 ある人間の、あるいは人類全体の幸福度がプラスかマイナスのどちらに振れるかなんてどうでもいいのだ。そんなものは、立場や視点が変われば簡単に覆る。逆に言えば、「0」でなければ、そこに我々が生きた意味は必ずあるのだ。と、私はこう思う。だから、産み出すことが素晴らしいとは思わないが、産み出すべきではないとも思わない。そこに自由がある限り。


 以上のように考え、反出生主義と部分的に同じような考えや結論を導くことはあるのだろうが、やはり私は反出生主義者にはなれない。


この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,832件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?