見出し画像

障がい者支援とは何なんだろうか

 まず最初にこれだけはご理解いただきたいのが、この記事は被支援者の方や支援者側の方に何かを言いたいわけではなく、多様な価値観を持っている人がいる事実に対して、私自身が感じたことをただ書き残したいと思ったということ。

 私のことを少し書かなくては立場が不明瞭になるため、関係ありそうなことを列挙する。
・健常者
・サラリーマン
 仕事として被支援者と触れ合う機会は多少ある
・親戚に重度知的障がい者がいるが直接の介助等はしたことはない
・支援者側になったことはなく、外野である

 ただし、健常者を広義の支援者とするならば支援者であることに不満はないと考えている



 以下、考えるきっかけとなったツイートを2つ引用する。

被支援者と思しき人のツイート(①)

このツイートを引用したツイート(②)

 ①を読んでショックを受けた。
 私の解釈で言い直すと、『被支援者は常に支援者がその手を離すことができることから、その手を離されないように支援者側の機嫌を取らなくてはいけないという状況にある』ということを支援者側は理解していなければならない。だから私達被支援者は、支援者側に対して迎合することもあれば(障がい者をいたわれ、などの言動で)反発したり悪用しているように見えることもあるけれど、それらの言動の理由は支援者側にもある。ということだろうか。
 確かにそういった権力構造は観念できる。だが、それはもはや、支援という言葉の皮は被っているもののその実態は……。

 この①のツイートを見て、偉そうとか、もう支援してやらないとか、そういう風に感じる支援者側の人がいたら、その人こそがこのツイートの指す状況を表しているのだろう。支援者側がこのように考える気持ちは分かるし否定もしないが、私がショックを受けたのは、被支援者側からもこのような言葉が出て、なおかつそういう側面も事実としてある、という認識でいる事にある。(もちろん、被支援者の総意でないことは理解している。)

 つまり、被支援者は②のツイートにあるように、『自分が思う正しい被支援者像』を押し付けられているのが当たり前であると認識し、その認識に支配されて言動が制限されていると感じているわけだ。そうしないと支援されないと思っているということだ。

 しかし、どうだろうか。その支援者側は、そういった風に考えているのだろうか。つまり、『自分が思う正しい被支援者像』に反していると支援をしないのだろうか。仮にそうであったとして、果たしてそれは本当に支援と言えるのだろうか。
 支援の本当の意味で言えば、被支援者が自分の力だけでは困難な事がある際に援助をしてもらうことだ。あくまでも、行動の主体は被支援者側にある。にも関わらず、被支援者がまずすることは、『正しい被支援者像』の皮を被ることにあるという。それは、虚像だ。
 その虚像が主体となって行動すること。その虚像にしか手を差し伸べないこと。これが支援の構造だというのだろうか。そうだというならば、そういう意識こそが断絶を生むのではないか。言わせてもらえば、それは断じて支援ではない。

 例えば、国家と国家などの血の通わないもの同士であれば成り立つこともあろうが、我々は人間だ。感情のある人間だ。それを許すことなどできるのだろうか。一方が感情のない機械であったならば、それは上手くいくのかもしれない。今のシステムが上手くいっているように見えるのであれば、もしかしたらそれは、被支援者側が機械の役割を果たして――つまり感情を殺していることで成り立っている、見せかけの支援ではなかろうか。

 どちらか一方が悪いということではない。このシステムが悪いように感じられてしまう。とはいえ、被支援者一人一人に合わせた対応を支援者側が実施するのは効率が悪く、現実的ではないのは確かだ。功利主義的観点から言っても、少人数の負担、あるいは多くの人の少量の負担で、(被支援者も支援者側も含めた)大多数の人の益になるのであれば、そこには一定の正しさが感じられる。どう変えていけば、より善い方向へ向かうのかは、残念ながら私には分からない。

 そして、このツイートのような意識があるからこそ、被支援者が「我々は支援されて当然だ」といった開き直ったような態度をとることも理解はできる。それに反感を覚える支援者側の意見も分かる。この対立に嘆く人は、被支援者にも支援者側にも同様に存在するだろう。溝は深まるばかりだ。


 どうすればこの問題を解決できるのだろう。どうすればこの断絶を繋ぐことは出来るのだろう。

 被支援者は、支援者側には自分たちの置かれた立場を理解することは出来ないと諦めることは出来るだろう。
 広義の支援者側は、被支援者のことは分からない、関わりたくないと言って、接点を極力断つことは出来るだろう。
 システムを構築する機関は、これらの人たちのことなど、所詮些末な問題といって思考を巡らせないことも出来るだろう。

 私には、被支援者の気持ちも支援者側の気持ちも正確には理解できない。中立ではなく、外野だ。もし、私がどちらかに属することになれば、私の心はどう振り切れてしまうかわからない。
 だが、理解を諦めたくはないし、関わりたくないと排除することもしたくはないし、何が出来るか考えることを放棄したくはない。だから、外野であり続けたいと思う。


 いつか、障害者差別解消法などの条文を読んだ未来人が、何故こんな法律が存在したのかを訝しむような世界になることを祈る。
 支援というものが、耳の遠くなった老人に対して少し大きな声で発話するといった、そんな”当たり前”になることを切に願う。

 そのために、たとえ答えが出せずとも私は考え続けたいと思い、誰かの救いになるわけでも何かの役に立つような言葉でもないが、この文章を残したいと思ったのだ。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,832件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?