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参拝文化に“レス”を投じる

 賽銭を電子マネーで受けとる神社があるようだ。一方、このご時世にダメなことと分かっていても賽銭泥棒をして捕まる人もいるようだ。

 金融機関での両替手数料が上がったことで負担が重くなる小売店などに対して、賽銭で集まった小銭を両替するという神社が現れたとの記事も読んだ。
 これは、小銭を両替するのが負担になる神社側にもメリットがありwin-winの関係だ。だが、全ての神社がこのように対応できるわけでもない。


 これから先、賽銭は無くなるのだろうか。

 時代の変化は仕方ない。
 それに取り残されることのないように技術もマインドもアップデートしていく必要はあるとは思っている。


 私は、分類で行くと無神論者に含まれると思うが、参拝することはある。願いを叶えてくれるとは思っていないが、この文化は好きだ。
 人々が(内心でどう思っているかは別として)願いや感謝を神様に伝えるために、様式に従った行動をするという共通意識が好きだ。厳格なルールに則った行動に価値があり、よいものだと捉える集合的無意識が好きだ。

①参列し
②用意した硬貨を投げ入れ
③鈴を鳴らし手を合わせ
③各々が何かしらを思う
 この一連の流れを好ましく思う。この一連の流れにこそ価値があると私は考えている。間違っていたとしても、流れに沿うという態度がありさえすればよい。
 逆に、この流れ通りにいかないと途端にそれは別のものへと変わってしまう気がする。

 例えば、賽銭の電子マネーなどのキャッシュレス決済の対応は②の硬貨を投げ入れていない。
 ③④をしなければ、それはもはやただの寄付行為に思える。
 この社会状況であるから、①の参列すらせずにキャッシュレス決済で②をするという行為も選択肢のうちに入るかもしれない。オンライン旅行ならぬオンライン参拝だ。もうすでにあったりして。
 そして④に関しては、私のような無神論者であればわざわざ神様の前で宣誓せずともSNSに抱負を書き込めばこと足りる。普段信じていない神様に告げて何になるのか。

 共通意識のほころび、集合的無意識への反旗。そして価値観の変化。

 都市国家間の代替戦争という位置づけから始まったオリンピックは、国の代表となって世界に国力を示すという重圧な空気感を経て、今は個人の栄光のためという側面も強くなってきたように感じる。

 このように目的が変わったり、その意味が別のことになったりということは世の中にたくさんあるだろう。


 参拝に話を戻す。
 参拝の様式で、なぜ硬貨を投げ入れるか、手を叩いて合わせるか、鈴を鳴らすかというと、音を出すためだ。神様に音を出して気づいてもらうためだ。(※この記事を書ききるまではこのように理解していました。後で調べたところ本当は違うようですが、敢えて書き直しせず続けます。)
 キャッシュレスというのは、こういう意味でもずれている気がする。電子音では味気ない。


 仮に、キャッシュレス決済で賽銭専用のコインを買ってそれを投げる。というシステムを採用すれば両立できそうではあるが、神社側の賽銭専用コインの製造コストやコインの仕分けなどのランニングコストを考えると、非合理で採用されることは無いようにも思える。
 いや、御朱印帳のように新たなコレクターズアイテムになって経済活性の一翼を担うかも?
(ちなみに単純な両替方式はキャッシュレス決済の現金化問題や使用手数料が発生する点から採用できないと思われる。)
 いずれにせよ、神社側からキャッシュレス決済での賽銭を積極的に推すのは、文化を軽んじる拝金主義と捉えられそうで、それはそれで物議を醸しそうだ。

 あと、Youtube等では投げ銭と呼ばれる文化があるが、お賽銭に近いものにも思う。多額の賽銭で大きな印象(音)を与えて、配信者(神様)に気付いてもらったり、コメントを読んで(願いを叶えて)もらったり。
 こちらはすぐに反応があって投げ甲斐があろうものだが、果たして神様相手にその気持ちが維持できるかどうか。そもそも、電子マネーでやってしまおうと考える者の信仰心ならば……おっと、これ以上はやめておこう。


 徒然と考えてきたが、どうやら私は賽銭を投げるのが好きなのだと思った。
 なんだろう。まず、願いを聞いてもらうのにこちらは何もしないというのは道理に反する気がする。せめての気持ちは必要だと思う。
 次に、自分の所有物に念を込めるという行為。念のこもった物を渡すという行為に神性を感じる。そして、それを投げるのは遠い目標にまで届くように、という気持ちも重なる気がする。
 だから私は賽銭を投げ入れたい。


 極論、参拝は個人が好きなようにしたらいいのだけれど、神社側がキャッシュレス決済に対応した結果

お金を渡せばよい→キャッシュレス決済なら直接行かなくてもよい→行かないなら願う意味も薄まる→それなら、そもそも神社不要

 という論調が出てきてもおかしくない。

 そうなっていくと、究極的には神社に誰も寄り付かなくなり、寄付や賽銭すらしなくなって、経済的にしんどい思いをするのは神社側な気もするし、果てには神社経営が成り立たなくなってしまうんじゃないか、と考えてしまう。
 春日大社や厳島神社などの世界遺産や文化遺産ともなれば心配はいらないのかもしれない。いざとなれば公費で補うこともあるかもしれない。
 が、どうだろう。無駄なところに血税を使うなという人は必ず現れるだろうし、それが支持される余裕のない社会になっているかもしれない。時に世論は神も仏もない方へ傾くものだ。

 賽銭泥棒なんて罰当たりなこと。
 なんて表現も無くなるのかな、と思うとすこし物悲しくも感じる。


 ちなみに、2022年初詣の参拝者数はコロナ禍前の2020年と同水準に回復した神社が多いようだ。
 ここから何かしらの意味を見出すのは早計だが、参拝文化の行く末を注視していきたいと思っているし、必要に感じればこうやってレスポンスもしていこうと思う。そこに意味があるかは分からないが、音を立てねば気付かれないかもしれないのだから。




こちらの記事は2022年に書いたものです。一年間寝かしてました。文体がちょうどそのころの感じだけど、内容は今年でも通じるなー、と思って掘り起こしました。

あ、私は今年も参拝してきましたよっと。

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