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一人称とは衣服である

 私。わたし。わたくし。ぼく。ボク。僕。俺。オレ。ワシ。吾輩。我。これ。

 私が会話や文章で使ったことのある一人称をざっと挙げてみた。下の名前は使ったことがない。男の子だからネ。(これももう不適切表現になるな。)
 今現在も使うのは「私」と「僕」と「ワシ」。「俺」は最近使わない。あー、子供といる時限定で「お父さん」もあったな。

 私はこれらを場面に応じて使い分けている。何故ならば、この記事のタイトル通りだからだ。厳密に言うと「日本語において」が付く。


 日本語は一人称が豊かな言語だ。他言語では、ただひとつで済むものが多いらしい。
 たくさんあるということはそれだけ選ぶことができるということである。そして、一人称という機能はどの言葉を使っても果たせる。
 初対面の人にいきなり下の名前を一人称にしても、それがそうだと理解してもらえず混乱させてしまうことはあるだろうが、一度名乗ればそれで足りる。
 そうは言っても、それでは非効率だし手間がかかってしまうのが実情だ。
 だから、TPOに合わせた一人称を使いましょうとなるのだろう。


 同様に、衣服もTPOを意識しているはずだ。
 結婚式にジャージで出席する人はいないだろう。危機管理意識が高い人なら、有事に備えて寝間着も身動きのしやすい服を選ぶことだろう。テーマパークに行くのにコスプレして行く人もいるだろう。パーティーと聞けば、普段からでは想像もつかない奇抜な格好をする人もいるだろう。
 このように、衣服は自己表現の一部だったり、機能性を重視したりすることもある。

 対して、一人称の衣服というのはもっぱら他者に見られることに重きを置いている。相手あっての衣服といえる。
 自分一人しか居ない時に、あまり一人称を使う機会というのは多くないと思う。自己暗示をかけている時くらいのものだろうか。



 一人称を使うのは、相手に認識してもらいたい自分というものを具現化するようなものだと考えている。
 一人でいる場合には自分は透明人間でも構わないのだ。だが、誰かに見てもらうためにはそれでは困る。透明人間の自分に一人称という衣服を纏わせることで相手に認識してもらうのだ。

 一人きりでいても一人称を用いる場合はある。それは、心の中でだ。
 先述の通り、一人でいるときには敢えて一人称を使う必要はないのだが、次のケースなら心の中で一人称を用いることはあるだろう。

(君はそう思うだろうが、〇〇は違うと思う)
(あの時、○○は悲しかったんだろうな)

 ○○の部分に一人称が入る。
 前者は、自分と相手を区別しなくてはいけないため、衣服を纏わせる。
 後者は、自己省察しているときだ。これは、自分を客観視していることであり、このときも自分に衣服を纏わせる必要がある。
 どちらも、自分以外の存在というものを意識することで生じるわけだ。


 一人称は相手あってのものであるから、どの一人称を使うか選択する際に考慮すべきことは2点ある。
 一つは、どんな自分であるかをイメージすること(あるいは他者にどのようなイメージを持ってもらいたいか)。そして、もう一つは相手の持つ(状況やあなた自身の)イメージと乖離していないこと。この2点の折り合いをつけなくてはならない。

 例えば、私自身は常に黄色い服をまといたいと思っていても、それが葬式の場であれば他者からは適切でないと評価されるだろう。喪服でなくてはいけないと叱られるだろう。
 この場ではこういうイメージを纏わなくてはいけないという固定観念が、社会生活を送っていく上で醸成されていくのだ。

 一人称のその言葉たちは、礼服などと同様に、そのイメージが既に備わってしまっている。それに逆らうのは個人の自由だが、周りからどう思われるかは推して知るべし。


 ところで、私の娘の一人称は「ボク」だ。
 昨年の4月から幼稚園に通いだした。園の先生方にはあらかじめこのことを伝えていた。曰く、ままあることらしい。
 通い始めて2ヶ月ほどたったころだ。相変わらず家にいるときや私の前では「ボク」を使うが、園の友達と遊んでいるときは「あたし」を使うようになっていた。しかも、園から出た直後に私に話しかける時に「あたし」と言ったあと、すぐに「ボク」とわざわざ訂正した。意地悪な私は、どうして言い直したのかを訊ねると、「ボクはボクだからだよ」との答えがあった。

 園の先生によると、もしかしたら年上の子と遊んでいる時に「ボク」はおかしいと指摘されたのかもしれないとのことだった。(何故、おかしいと思ったのかをその指摘した子に聞いてみたかったけど、誰かは分からず。)
 つまり、娘は3歳にして一人称をTPOにあわせて使い分けているということだ。

 これは私の想像だが、「ボク」を使うのは家族以外にも仲がよく可愛がってくれる大人だけだ。お友達といるときには使わない。このことから、甘えさせてくれて構ってもらえる相手に対してのみ「ボク」を使っているように感じられる。
 他方、「あたし」はお友達や園の先生、通りすがりに話しかけてくれる人なんかに対して使っている。これは、大人っぽく見せたいという思いがあるのかもしれない。あるいは、「ボク」を使うことが相応しくないと認識しているのかもしれない。
 いずれにせよ、自分がどうしたいか、そしてどう思われたいかを意識しているように感じられるのだ。

 3歳の子供ですら、こういった認識を持つのだから、成長とともに色々な状況を経験していけば、おのずとどの衣服を身に纏うかは判断できようものだ。

 そのため、適切でないと思われる一人称を使っている人を見ると、抵抗感があったり常識が無いなどと、思ったり思われたりするのだろう。

 

 ちなみに、私の一人称の使い分けはこんな感じになる。

「私」・・・仕事、記事、かしこまった時
「僕」・・・甘えたい時、親しい人といる時
「ワシ」・・頑固おやじになりたい時
      (妻に歯向かう時。なお、瞬殺)
「俺」・・・中高時代の友人と会う時
      (この頃はほぼ俺を使っていた)

私「ワシは腹が減っちょる。なんぞこさえーや」

妻「(無言)」


私「私のお腹の虫が暴れているのですが」

妻「そうですか」


私「……僕ちん。お腹すいたぴょん」

妻「しゃーないな、チャーハン作るか」


 一人称とは衣服である。

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