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早生まれ問題は気にするな

 我が子は3月生まれ。いわゆる早生まれだ。
 何故かしらないけれど、私の周りには早生まれが多い。が、世間的にはどうなんだろう。
 ということで月別の出生数の統計をみてみよう。

ネットに転がっていた厚労省データから作成されたものを拝借

 早生まれにあたる1.2.3月がワースト4位以内に入っている。データとしては不十分だが、なんとなく早生まれは少ないな、という認識をもってもらえればそれでいい。

 ご存知の方も多いだろうし、まさにそのタイミングを考えて行動をしていた人も多いのかも知れない。
 生まれ月には上記の通り偏りがある。これには色んな理由があるが、妻が妊娠したころ情報収集をしていた時に早生まれは損しやすいといった類の情報が多かった気がした。
 だから、早生まれは虐待だと言う表現も目についた。言葉の暴力ここに極まれり。

 結論から述べよう。
 3月後半生まれの4歳の我が子を見て、そんなものは大したことではないということを。


客観的視点は不要

 早生まれのメリット/デメリットを挙げ連ねるブログなどが散見される。客観的に早生まれについて検討しているのだ。しかし、何故このような情報が求められるのかというと、そこには不安感があるからだ。

 日本は4月2日を境に就学年度が分かれている。秋入学にしようとか、就学年度を選択できるようにしようとか議論されているものの、変化の兆しは見えない。そうすると、最長で365日の生後日数差がある子が同年度として扱われることになっている。大人ならまだしも、子供のうちは人生におけるその日数の割合が大きいため、発育の差に影響が出るのは自明だ。この差は中学生くらいまで続くと言われている(研究によっては生涯だって!)。親としてはその差が自身の子供にデメリットとして作用することに不安を感じるのだろう。
 だからこそ、この不安感を払拭せんがために、客観的にその価値を見出したいのだ。

 気持ちは分かるのだが、その心理には早生まれというものが相対的に価値の低いものだという潜在意識、あるいは絶対的事実と捉えて、これに打ちひしがれる人の多さが窺える。


 私には、早生まれというものを肩書きや属性の一つとして、うまく行かない諸々の原因として押しやることで心の安定を保とうとする性質がそこにはあるように感じられる。みんな、理由がほしいのだろう。一時的な心の安定を図るためならよいが、それに縋って現実を直視できなくなるようでは困りものだ。

 何故なら、本当に大事な事はその事実を受け入れて自分(子供自身)がどう行動するかにあるのだから。


それを理由にしているのは親だけだ

 わが子の通う幼稚園は、年度の違う園児ともよく遊ぶシステムを採用している。2歳〜5歳の4年度分の園児が交流する。
 同年度だけの交流であった場合は、4月生まれと3月生まれの子が同じ環境にいることになる。実際、我が子と同学年の仲良しの友達には4月生まれの子がおり、生後330日ほどの差がある。身長も体重も大きく違うし、4月生まれのお友達はもうひらがなが読めるそうだ。その子と遊んでいて、我が子が劣等感を抱くか尊敬するだけで済むかは子供の個性の問題だろうが、遊ぶ内容や興味の方向性に差異は生じやすいだろう。
 そこで、他年度交流が効いてくる。わが子の1つ下の年度の4月生まれの子とも仲がよいのだが、その子とは生後30日しか差がない。そのため、同年度の子よりも、発育状況が近いのだ。だからかどうかは断定できないが、この子とも楽しそうに遊んでいる。自分のほうが少しはお姉ちゃんになるわけだし。(年度ごとの集まりでやった遊びを教えてあげたりしているみたい。)

 年度という区切りを取っ払うことにより、発育や個性といったものをグラデーションとして理解しやすい環境であるように感じられる。そうであるから、子どもたちにとっては生まれや発育具合の早いも遅いも意識する必要はほとんどないのだ。


子供が意識した時がチャンス

 そうは言ったものの、もし子供自身が「早生まれだから○○」という仮説を立ててきたら、良い傾向だと思うし、気のせいだなんて一蹴せずに、しっかり拾ってあげたいと思う。
 人の成長には、現状と理想のギャップを意識する必要がある。その差を埋めるための方法を一緒に考えてあげればいいだろう。理解できるかはさて置き論理的に説明してみてもいいだろう。それでも納得できずに早生まれのせいとするならば、その生後日数の差が埋まるまでの間に理想像に到達できればOKとして目標設定をしてあげればよいことだ。早生まれだから出来ないというならば、同じ生後日数に達したなら出来ると言っているのと同義なのだから。親はそれをフォローしてあげるだけでいい。


子は親の所有物じゃない

 仕事の都合とか、兄弟との年齢差とか、そういった理由での出産タイミングを考えることはいいと思うが、早生まれを回避するためというのは、個人的には危ない思想だと思っている。というのは、それは「子供のために」という意思が歪んだ形で現れているように感じられるからだ。
 出産は予定通りにいかないことがほとんどだし、緊急時にはかなりの早産になることだってあるわけで、そうなった時に無駄に罪の意識に苛まれたり、子供を責めてしまったりなんてしたら悲しいことだと思う。
 「早生まれだったら欲しくなかった」とか「望んだ性別じゃないから欲しくなかった」とか「障がいがあったから欲しくなかった」とか、そんな身勝手なことが言えるのは、子供を親の所有物と思っているからであるように感じてしまう。

 「○○だから」っていう考え方じゃなくて、単純に「この子を大事にする」って思えることが大事なんだと思うし、それができればどんな子だって愛せると思う。
 統計データや実体験で突き付けられる「誕生月格差」に悔しい思いをする事もあるのかもしれないけれど、そんな時はそっと寄り添ってあげればいいし、そうすべきだと思うし、理由がなんであれ悩んでいる子供に寄り添うのは、早いも遅いも関係ない。
 「今」そして「いつも」そうすればいいだけなんだ。
 「いつ」生まれたかなんて気にせず「今」を見てあげてほしい。


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