ルッキズムはしょうがない

ルッキズム(外見至上主義)という言葉をはじめてきいた時の感想はこうでした。

「何を当たり前のことを。また無駄に差別に対する多様な価値観がうまれるじゃないか」

理想主義の私ですら、これを無くすことができないことは確信しているわけですが、今日はこの言葉を考えてみました。

結論から書くと、人間が人間をやめない限りルッキズムは無くなりはしないということです。外見に関して、かなり無頓着な私ですらそれに囚われています。というお話。

さて、過激に言わせてもらうなら、ルッキズムを全力否定する人は、金輪際その目を開けない覚悟でいなくてはならないということです。視てしまっている時点で、アナタもこの価値観から逃れることはできないのだから。

言葉の意味とその本質

ざっくりと広義の意味でいうと、外見から得られる情報で評価や扱い方を変えるという価値観のこと。差別的な取り扱いも含めて。

この外見から得られる情報というのが曲者で、例えば、

身長190センチ 体重110キロ
身長170センチ 体重58キロ
身長158センチ 体重43キロ

このような人がいたとしましょう。どんな体型をイメージするでしょうか?






さて、イメージしてしまったでしょうか。

実はイメージした時点でアナタもルッキズムの価値観から逃れることはできないという証左です。人体についての知識が多少あれば、せめて年齢・性別・体脂肪率くらいの情報がなければ正確にはイメージできません。競輪選手や隻腕の人だったら、筋肉のつきかたも一様ではないです。にも関わらずイメージしたのは、過去の経験と記憶から妥当だと思われる体型を引き出したからでしょう。今回のように、数値データだけを挙げた場合ならまだしも、ここにこんな条件を加えたら、どうなるでしょう。

「あなたは凶悪犯から殺害予告を受けました。この3人の中から、ボディガードを1名選んでください。」

さぁ、誰を選びましょうか。もちろん、誰を選んでも構わないのですが、とりあえずその人を選んだ理由は少し考えてみて下さい。

ボディガードの選出は本来は護身術の技術や危険察知能力や経験などを考慮すべきことでしょう。ですが、今手元には外見から得られる情報であるところの身長体重しかわかりませんでした。その状態なら、この数値データから選択するのは、極めて妥当なことでしょう。

つまり、意思決定を行うための数ある情報のうちの一つが外見による視覚情報なのです。そして、他の情報より蓄積量も多く、求める情報への到達速度も速い視覚情報を多用することは極めて合理的かつ自然なことと言えます。

新たに情報を加えましょう。

190センチの人は柔道の有段者
170センチの人は普通のサラリーマン
158センチの人は特殊部隊元スナイパー

外見以外の情報が与えられました。さぁ、誰を選びましょう。外見以外の情報も加味し、あるいは外見以外の情報の価値の方が高まって選択が変わった方もいるでしょう。

おっと、犯人の情報が入りました。

犯人は刃物での犯行に強い執着があるらしく、狙撃の線は消えたそうだ。

これは有益な情報です。改めて、誰を選びましょうか。

あ、大変失礼致しました。情報に誤りがありました。

正しくは、

190センチの人が普通のサラリーマン
170センチの人が特殊部隊元スナイパー
158センチの人が柔道の有段者

こうでした。選択が変わりましまか?それは仕方ないです。情報は常に更新されていくものですから。

ここでのポイントは、犯人もボディガードを視る可能性が高いということ。犯人からすれば各候補者の経歴はわからないのだから、外見からの情報で評価するしかないのです。犯人側の視点にたって考えてみて、有効そうな人物を選ぶのもありとなります。ボディーガードには「かかし」的な役割も期待できます。

つまり、ルッキズムのその本質は、視覚情報による情報の取捨選択や優先順位の選定に伴う評価のことです。

仮に、先ほどのボディーガードの選出をルッキズムによらないように選択をするならば、身長体重や顔写真などは全て廃した情報だけで構成しなくてはならず、「かかし」効果はあてにできない可能性があります。そして、意思決定に多大な時間と労力がかかってしまい、その確度も不安定となり、総じて非効率となるでしょう。

非効率くらいいいじゃないかと思われる方もいるかもしれないが、これが実は大問題なのです。それは、人間もまた動物であるという事実に起因します。

本能としての視点

人間以外の動物には言葉はありません。ゆえに、情報の交換方法が極めて少なく限定的です。というよりも、情報交換している暇もない環境にいる動物も少なくないのです。そこで有効なのが、視覚情報となります。一瞬で意思決定をおこなわくては次の瞬間には命がないかもしれない環境にいる動物は、目でみて判断します。

目の代わりに嗅覚や体毛のゆらぎや音波の反射など、動物によって得意な手段を用いて外部情報を取得している動物もいるのは事実です。

では人間はどうでしょうか。

嗅覚は他の動物よりも衰え、耳も犬やコウモリなんかよりずっと聴こえない。その他の情報獲得手段を何一つ持ち合わせていない。つまり、動物よりも多くのことを視覚情報で補っているのが人間なのです。


動物たちについて、種の保存という観点で求愛行動や配偶者選びを考えると、

孔雀は美しい羽根を広げます。セミは美しい羽音で鳴きます。ライオンは食料の確保ができることを誇ります。みな、それぞれの形で他者よりもすぐれていることをアピールするのです。オス猿はメス猿のおしりをみます。

動物たちにとっては、容姿の美醜よりも違うことに価値をおいていますが、すべてフィジカルに関することです。

人間において、その美醜以外の要素とはなんでしょうか。

人柄、性格、収入、地位や名誉。こういった外見以外の情報でしょうか。勿論これらも大事です。でもやっぱり外見からのデータにも左右されます。

ルッキズムの批判は、つまるところ動物的な本能に反した行動といえます。本能を理性で抑えるのが人間じゃないかという方もいるでしょうが、生きることに直結した機能による、情報の取捨選択と意思決定という観点において、理性を働かせる道理がありません。

コミュニティ維持という視点

あなたが急に猿山のてっぺんに登り、大将を気取っても、どの猿もついては来ないでしょう。

視覚情報や臭いなどにより、動物は同じコミュニティかどうかを見分けています。基本的には、自分と違う種族は敵と考えておくことが動物としては正しい行動ですので、異端が混じれば排除するでしょう。話を飛躍させると、極端に違う生物と交雑しようとは通常思わないことでしょう。あくまでも自分と同種の存在とでないと、自分の種を残せないというのは本能的に理解しているわけです。

ところで、アナタはガーナと南アフリカの生まれ人の見分けがつきますか?私は無理です。

日本人と韓国人の見分けがつきますか?そこそこわかると思います。

この2つの違いは、単純に見慣れていてそれぞれの違いを認識できているかという違いしかありません。この見慣れるというのも視覚情報の蓄積とそこから引き出した結果です。

そして、美の価値観は人それぞれ違いますので、絶対的に美しいとか醜いとかはありませんが、それでもコミュニティ内における美醜の価値観はある程度共有されています。その一定の価値観を担保されたなかで、自分の好みのものを評価していく。これこそが、生物のあるべき状態です。言い換えると、美醜の差異を評価できるくらいの認知が進んだ状態が安心できる状態なのです。

そして、人間はこういう会話をすることで、自分が異端ではないということを確認して、自分はこのコミュニティの一員だと安心するのです。すなわち、

「今すれ違ったあの人、かっこよくない?」
とか

「今年のミスコンは2番か5番が優勝だね」
とかです。

「あの人くらいならギリギリぽっちゃりで通るよね?」とかもです。

男女かかわらず、これらは自分の価値観が外れていないかを確認する行為です。

今年のトレンドはオレンジです。となったら、そこを押さえていなくてはコミュニティから外れると思うので、みな同調します。

これら全て外見から得られる情報に重きをおいているからです。人間は視覚情報に頼ることを選択したのですから、これは抗えないことなのです。

ルッキズムを廃するには

どうすればよいでしょうか。差別に対する定型的なアクション以外では、

目をつぶす。単細胞生物になって、すべてクローンで統一する。肉体と精神を分離して、外見をいつでも書き換えられるアバター世界で人間をしていく、などでしょうか。どれも非現実的です。

生物が種の保存やコミュニティを形成するにあたり、視覚情報はなくてはならないものです。それを取り払うには、もはや進化を遂げるほかありません。

実際、視覚を切り捨てた動物はいます。ただし、いずれも限定条件下の特異なケースとなります。それくらい、視覚というのは動物には重要な機能なのです。

つまり、そこを改めるよりも、いかにして付き合っていくかを考えた方が建設的といえます。

ルッキズムを受け入れる

あなたがルッキズムに属しない価値観を貫けるなら、きっとそれは素晴らしいことでしょう。ただし、相対するものの全てがあなたと同じ価値観であるわけもなく、あなたはルッキズムに則った他者の査定をうけ続けるのです。

そのことについて、あなたがルッキズムによる差別を受けたと感じるなら、被害妄想以外の何物でもありません。相手にとっては極当たり前の自然な行為なのですから。誰だって濁った水と澄んだ水があれば、澄んだ水を飲むことでしょう。

差別的な取り扱いをしなければ問題ないよ。と考える方もいると思いますが、その差別的でない取り扱いという線引きを誰がどのように決めるのか、という問題があります。また、外見を磨くという行為は自分をアピールすることにつながります。その行為の結果が、なんの努力もしていない外見の人と同じ評価というのは、それはそれで差別的な取り扱いではないでしょうか。

では、どのようにルッキズムと付き合っていけばよいでしょうか。それは、他者の評価をありのまま受け止めることです。そして、その評価に自分が納得できるかを考えます。納得できなければその原因を突き止めて改善するだけです。

大事なことは、評価は他人に委ねても決定権は自分が持っていることです。そうすることによって、たとえ外見が他者評価上であまりよくなくても、自分は強く生き抜くことができます。自分が選らんだわけですから、ルッキズムに惑わされることはなくなるのです。

逆に他所評価に翻弄され、自身を改善できたのならば、そのことについて誰がアナタを卑下するでしょうか。自分が納得のいくところまで、改善を重ねて突き進めばよいのです。整形地獄にはまろうが、それを選んだ自分まで否定することはないと私は考えています。

全てを受け入れて、その上で自分がどうしていくかを決めていくこと。全世界の人がそれを実施できれば、ルッキズムなんて言葉はなくなります。けれど、それは不可能なので、アナタの中からだけでも、この言葉が消え去るように毎日を過ごしていければよいかと思います。


かつて私は、外見なんてどうでもいい。人間は首から上さえあればいいと豪語していました。外見で人を判断するのは愚か者がすることだと考えていました。でもそれは間違いでした。外見は迅速かつ有益な情報交換が行える立派な道具です。これを利用しない手はないのです。

そのように考えるようになり、ダイエットにはげみ、身だしなみに気を遣い、いい年になってから歯列矯正も開始しました。

猫背も直さなくてはいけないし、発声も磨かなくてはいけません。まだまだ出来ることはたくさんあります。
ルッキズムによる差別的な取り扱い? ドンと来い状態です。その度に私は強くなるチャンスに恵まれるのですから。

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