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自動的に紡がれる“私達”に怯える私

危惧していることがある。


先日「mimic」という、AIが自動でイラストを生成するツールがβテスト始動後すぐに批判を多数受け停止した。著作権的な問題が主としている。

このツールは、イラストをいくつもAIに読み込ませてその特徴を覚えて自動でイラストを書いてくれるというものだ。使い方によっては、誰でも簡単に他人の絵に似たものが手に入るということになり、ここに疑問符を浮かべる人が出てくるのは容易に想像できる。


自動でイラストを生成するというのでは、少し前から「Midjourney」というのも話題になっている。こちらは文章やキーワードからイラストを生成するというものだ。イラストを生業にしている人からしたら気が気でないだろう。AIが書いたものなんぞに負けはしないと思う方もいるだろうが、恐ろしいのはAIは学習していくということなんだ。


まぁいい。私は絵を描かない。
で、それでいいのか?



私は表現の一つとして声を使っている。

声の分野では、とうの昔にボイスチェンジャーというものがあって、Vtuberやらメタバースやらで既におなじみのものだろう。簡単に好きな声に変化させることが出来るのだ。他人の声とそっくりにすることも出来る。またボーカロイドという音楽ジャンルがある。これはもはや説明不要だろう。

まぁ、私がしたいのは声による表現だから声自体は別にどうでも……と思うが、AIの自動読み上げ機能も日々流暢になっていっている。NHKでニュース原稿を読み上げるほどだ。情緒豊かな読み上げを行う日も遠くないのかもしれない。



いやいや、それでも私には文字がある文章がある。


それもいつまで……


先日読んだ記事の中に、人の書く文章には隠しても隠しきれずに滲み出る要素があるという内容のものがあった。本記事とはあまり関係ないので詳細は述べないが、私も概ね同意できる内容だった。とりあえずここでは、言い回しや言葉の使い方なんかで(たとえ匿名とか別名義であっても)その人が書いた文章だと分かったりすることもあるよね。という感覚を持ってもらえたらいい。一言で個性と捉えてもいい。

これ。

その方が書いた記事の内容が正であり、文章からはその人特有の何かが読み取れるものがあるとする。それを読んだ私が一定の理解を示す。ということは、その文章の中に滲み出る要素を私は感じている可能性がある。これがその人たらしめる、個性と言えるものだと感じたとする。

そこで、その要素を言語化してAIに記憶させるとどうなるだろうか。滲み出てしまう文章の書き方を収集解析して、それ以外の簡単にデータを取れる言葉の使い方や句読点の打ち方、文章構成や論理の組み立て方なども加味して自動生成してみたらどうなるか。それは、その人の書いた文章とそう違わないのではないか。という推論にいきつく。


実際、キーワードから文章を自動生成するツールは既にあるがその精度は今のところまだ低い。今のところ。

だが、学習が進んでいった後はその本人とAIによる自動生成されたものとで区別が出来る保証はない。なにせ、文章はもともと言語で構成されているのだから、AIが収集して活用するのに向いている。

極端な話。
noteに書いてある記事のその全てがAIが書いています。と言われても否定できない世の中になりかねない。そうなったら、私はもう何も読まなくなるだろう。

表面上の言葉は今までと何一つ変わらないとしても、その裏にいる人が見えない(どころか絶対に居ないと断言されるの)ならば、もはや読む価値がないと思ってしまう。

こう思うのは、つまるところ私が読みたいのは書き手の「こころ」にあるからだ。その文章を書き上げた背景を想像して、そこにある「こころ」に触れたいからだ。それが無いのは何とも空虚だ。


日々、学習して進化していくAI。文章や絵を整ったカタチにすることは得意だし、AIがアウトプットしたものを人間が評価するシステム(同じキーワードで作られた複数の絵からどれが選ばれるかのデータは取っているだろう)から、「こころがあるふり」は簡単に出来ていってしまうだろう。AI大喜利という人間特有の「笑い」についても踏みこんだものもある。大喜利例を見ても、くやしいが面白いと感じるものもある。


この色んなものがAIに置き換わっていく流れは絶えることがないと思う。しかし、私はそれに抗いたい。

私が考える人間に残された抵抗手段として、2つのキーワードを挙げよう。それは「こころ」と「連想」だ。

「こころ」は、我々生きている人間が感じた、今生まれたばかりの感情のことだ。それは、過去には同じようなものは無数に表現されてきているはずだが、今まさに誰かの胸の内から生まれたものはたった一つのものであるはずだ(と、信じたい)。

「連想」は色んなものを繋げていくこと。モチーフやテーマを無限に連鎖反応させること。人間の持っているアクロバティックな妄想力を発展させていくのだ。

だが、「こころ」も「連想」もAIに追いつかれ得る代物だ。「こころ」は概算されやすく「連想」は学習されてしまうからだ。


AIに対抗するならば――私達が自動的に紡がれていないことを証明するならば、それは概算される前の「こころ」を描くこと。そして、描かれた「こころ」を丁寧に読み取ろうとする読み手側の態度も必要不可欠だ。概算された状態でしか読み取れない、あるいは概算したものしか読み取ってもらえないのであれば、書き手はAIにその座を譲り渡してしまうかもしれない。書いても無駄だと書き手が思った時点で人の敗北だ。

「連想」に関しては、私達の中に無限に拡がる可能性という名の宇宙を、AIが追いつけないほどに拡張していくしかないと思う。そして、時には別次元へとリンクさせるくらいの突飛な発想でもって、私を、私達を楽しませてくれると信じている。


AIそれ自体は役に立つことも多いだろうし、これからも発展していくことは間違いない。noteのAI(=あなたへのおすすめ)だって日々進化(?)している。

だが、創作の分野においては人間に追い付かれてはいけないと思うのだ。その思いを持ち続けることが、書き手にも読み手にもなるnoteで活動している私達の責任と言えるのかもしれない。

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