見出し画像

馬鹿は風邪を引かないの精神で

 「馬鹿は風邪を引かない」という言葉は聞いたことがあると思う。冗談として使ったことがある人も多いはずだ。この言葉の使用シーンを考えると、自虐的に自己評価をする場合と、皮肉を込めて他者に使う場合とがほとんどだろう。
 私は使ったことがないのだが、最近何度か耳にしたので考えてみようかと思った。他人に使うのはあまりよろしくない言葉だと思うので、今回は自称する場合に限って考えてみよう。


 馬鹿はどうして風邪を引かない? 冷静に考えれば馬でも鹿でも風邪は引く。風邪というものが動物の多くが罹る可能性のあるものだと考えれば、馬鹿かどうかは関係なく誰でも風邪は引くはずである。
 それを理解した上で、自身が風邪を引いていると認識できれば、この言葉によるところの馬鹿とは自称出来なくなるはずだ。言い方をかえると、風邪を引かない人間はいないはずなので、極端な話人間に馬鹿はいないはず。にもかかわらず、この言葉が使われて、成り立つと考えられる場合、あるいは慣用句として用いられるというのは、自分が風邪を引いたことにも気づかない様を表現しているためと考えられる。そして、これが馬鹿だとしている。

 では、その様とはどんな場合があるか。


 (1)に、風邪という症状を知らない場合。これは、考慮する必要もないだろう。学習すれば理解でき、たやすくこの状態は脱する。

 (2)に、風邪という知識と実体験がリンクしていない場合。知識としては持っていても、それが風邪であると確証を得ることができなければ、観念できない。ここには、風邪であると認めたくないというものも含まれる。具体的には、風邪よりももっと重い病気であると捉える場合だ。例えば、風邪をインフルエンザと捉えたりする場合「(本当は風邪なのに)これ絶対インフルだわ」と思い込んだり、『馬鹿は風邪を引かない』を盲信し、なおかつ自身が間違いなく馬鹿であるという認識を持つ者がいたならば、「俺は間違いなく馬鹿だから、これは風邪なわけがない」といった考えに至ることもあるかもしれない。

 (3)に、感覚機能が極端である場合。鈍感か鋭敏かだ。風邪症状について、鈍感な場合は「なんかダルいなー」程度で済ましてしまい、風邪を引いたと感じない人もいるだろう。こういった人は、きっと何事もなく生活するはずだ。
 逆に、鋭敏な場合であれば、「咽頭痛を感知。痛みレベル10段階の3。のど飴とマスクによる保湿で対処可能。鼻汁、わずかにあり。ポケットティッシュ残量確認、問題なし。熱、36,9℃。頭脳労働効率10%低下見込みも本日の業務に支障なし。咳なし。その他異常なし。よって、主観的にも客観的にも風邪の要件は満たさない。今日もお勤め頑張ろう」という人間がいてもいい。


 上に挙げた、自分が風邪を引いたことにも気づかない様について、3つのステージに分けて考えよう。

(1)は知識の有無の差
(2)は認識の差
(3)は風邪や風邪症状に対する態度の差

 これらに因ると言うことが出来そうだ。では、自称する時について、もう少し掘り下げてみる。

 (1)は風邪というものを知らないという意味の馬鹿か、風邪は誰でも引くものという知識がないためである。自称すること自体は可能だが、「風邪を引かない」と自称した時点で風邪というものを認識してしまっているので、自動的に(2)のステージにランクアップしてしまう。知識を仕入れても同じだ。

 そして(2)のステージでは、自身が風邪を引いたと認識したら最期、どんなに自己を馬鹿だと思っていても、この言葉を自身に向けて使うことは出来なくなる。稀な例として、馬鹿ではないが風邪を引いたことがない人もここに含まれるが、馬鹿ではない人が自身が風邪を引いたことがないからといって馬鹿ではないと結論することは無いだろう。もし、結論するならその人はきっと馬鹿だからステージ(1)に差し戻しだ。

 (3)のステージになると、逆にこの言葉を使えるようになる。風邪を引いたかどうか、という認識に頓着しないのである。しかしながらこの人たちが自分のことを馬鹿だと認識したりするだろうか。また、風邪への態度がこんな調子な人が、自分は風邪を引かない(だから馬鹿だ)、なんてことは言うだろうか。きっと、どちらも無いと思う。

 ということは、この言葉を自称する場合はもっと違うことを言いたいはずなのだ。

 それはきっとこういう事なのだと思う。例えば、脚を1本失ったワタリガニは歩くことを諦めるか? 生き抜くことを諦めるか? という話だ。そんなことはないだろう。失った脚を意識するかという点も関係なく、その状態でも可能な歩みでカニ生をワタリ歩くだけである。
 人間だって、風邪を引いたからって、仕事や学校は休むことがあっても生きることをやめる人はいないだろう。

 つまり、自分の置かれている状況をどのように観念するかに関わらず、それを理由とせずに為すべきことを為す。そういう存在であるべきだと、この言葉は言いたいわけだ。
 このことを馬鹿と呼ぶのであれば、私は大馬鹿者でありたいと思う。
 もしや、世の中の人は皆、こんなこととっくに気づいていたのか? それなら、馬鹿真面目にこの言葉を考えている私は大馬鹿者であって、そしてそれは、自分で考えて言葉を理解していくという工程は、……誇らしい。馬鹿で結構だ。


 さて次に、そもそも「風邪」でなくてはいけない理由があるかどうかを考えよう。
 今までの考えをまとめると、風邪に限らずとも誰にでも起こり得る要素であれば同じ様な意味になるはずである。
 風邪以外に適当な言葉はないだろうか。

 「馬鹿は怪我をしない」は他者からも怪我の状況を容易に観察できるため、怪我しないと言い張っても、一目瞭然なため適当ではないだろう。
 「馬鹿は後悔をしない」などの内面で生じる事であれば使えるはずである。だが、完全に内面だけのことならば他者からの一切の感知もされないので、これも少し違う気がする。知らんがなレベルが強すぎるからだ。


 風邪とは感冒と呼ばれることもある。感冒の語源は、寒さを感じてそれに冒される、など諸説あるようだが、「(症状の発現により)冒されたと感じる」ことであるとも言えそうだ。
 自分で状態を感じ取ることが必要なのだ。こう考えれば、他者からも風邪を引く可能性を感じる寒さや風邪症状の一端は認識できるだろう。しかし、それを感じない、もろともしない(人)という状況が比較的イメージしやすいため、風邪がチョイスされたのかもしれない。
 そう考えるとこの言葉の「馬鹿」は(3)のステージの鈍感力に近いものと考えるのが妥当と考えられる。

 これまでのことから、自称する場合の「馬鹿は風邪を引かない」を言い換えると、「鈍感力のあるわたしは、他人から見たら過酷な状況下においても、それに関わらず為すべきことを為せる」といったところだろうか。
 これで、馬鹿という言葉と風邪という言葉が繋がった気がする。
 馬鹿は風邪を引かない。自称する分には良い言葉である。自称する分には。

 馬風引精ばふういんせい。寒風吹きすさぶ現代社会を鹿は邪をかないの神でいきたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?