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短歌が好き

noteがさ
やってみろよと
言ったから
たまにはイイネ
短歌しゅうかん

明日から
変わる何かが
あるとして
今日のへんかを
忘れるなかれ


noteのお題で#今日の短歌 があったので、短歌作りをこの1週間やってみた。もともと、短歌は表現の一つとして習慣的に作っていたが、色んなやり方を模索しながら楽しむことができた。noteさんありがとう。


短歌の他に似たような表現として俳句や川柳もあるが、その中で私は短歌が好きだ。それは私にとってハードルが一番低いからだ。

俳句は季語を入れる必要があるのが辛い。たったの17音しか使えないのに、季語を入れたら残り何文字使えるのか、という話だ。そして、文語調で古語を使うなら古文の知識も必要となるだろう。高校時代、国語の授業はほぼ寝ていた私にはハードルが高すぎる。

じゃあ川柳はどうかというと。こちらも575が基本でやはり音が少ない。その上、口語調で詠むのは……気恥ずかしい。

一方、短歌はというと、57577の31音にまで使える音が増え、表現の幅は広がるし季語を入れる必要もない。句またがりという音の切れ目を変化させる技法や字余りなんかも使えば、使える言葉は一気に増え、その幅は無限大だ。

短歌は、ゆるいルールの中で自由に振る舞えるというのが私に合っているのかもしれない。古語を使うこともあるが、文法や用法があっているかは正直自信はない。しかし、私がイメージしたものが読者の方のイメージと合致することがあれば、あるいは合致せずとも心地よさを得ることができれば、言葉の使い方に誤りがあったとしても歌を詠むという目的は果たせていると私は考える。
言葉を間違っているかもしれないと思って行動しないことや、正しい用法にすべく弄くり回した結果、伝えたかった言葉でなくなってしまえば意味がない。

そう、私は言葉遊びという名の駄洒落が好きだ。折句という名の縦読み仕込みが好きだ。ひらがなを用いて掛詞を仕込むのが好きだ。
そうするためには、正しい言葉遣いに犠牲になってもらわねばならぬこともある。

こういった行為自体は何も短歌を利用することはない。だが、仮に短歌ではなくこういったことをしたらどうなるか。それは、質の悪いラップ調の戯れ言か、意味のない文章あるいは意味を汲み取ってもらえない文章にしかならないだろう。

だからこそ、57577というルールがある短歌で表現する。そうすると、読者の想像力を借りる形で意味のあるものになる。作者の意図しないものになるのもまた一興。私はそれに頼ることで、自由に言葉を使うことができるのだ。これはつまり、ルールに制限されることで本当の自由を手にするということにほかならない。

変化のない日常でも、その中で起きる色んなことから受け取った感情に返歌するかのように、キミも自由に詠ってみてはいかがだろうか。


なんつってな
適当なこと
言ったけど
ただ単純に
短歌は楽しい


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