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コロッセオ×ギロチン=アカデミー賞授賞式

 コロッセオ――ローマに建てられた円形闘技場。そこでは、剣奴と呼ばれる剣闘士同士が勇ましい戦いを演じたり、猛獣の狩猟技術を披露したりといった催しが日夜開かれていた。人々はその技術や洗練された肉体に称賛を浴びせていた。そういう時代があった。そこは、大衆娯楽として人々に束の間の非現実を魅せる場であった。

 現代は大衆娯楽というものは数え切れないほど存在する。その中でも根強い人気を誇るのが映画だろう。その映画から特に優れた作品を評価し称賛する場が、アカデミー賞である。



 さて今日は、皆様御存知のアカデミー賞授賞式での、とある俳優による式の司会者への平手打ち事件について語ろう。

 書く私も読むあなたも億劫だろうから、詳細は割愛しよう。大事なところだけ簡潔に書くと、こういったことが起きた。

①司会者が女優の容姿についてジョークを言う
②女優の夫である俳優(以後、彼と表記)が司会者を平手打ち
③彼の言動について世界中で物議

 私は、幸いなことにこの問題となった映像を見ていない。ネットの見出し画像で平手打ちシーンの静止画は目に入ってしまったが、どういった流れだったかは、たくさん書かれている記事に目を通して知っているだけだ。逆にその方が、余計な感情に引っ張られず事実だけにフォーカスしていられる。(私は愛妻家だし、情に脆いのだ。)

 まず、この事件はいろんな意見が出てきた事それ自体に価値があると思っている。もし、彼がそういう意味で、強い信念のもと平手打ちをしたのならば、私は彼を評価する。しかし、そうでないならば彼を擁護する気はない。というか、そうでないことはほぼほぼ確定的だろうから擁護しない。しかしながら、責めたりもしない。
 私が今回語りたいのは、そのいろんな意見が、この問題の本質を捉えているか、という点だ。もちろん私の見解が絶対に正しいわけではないが、それでも……いや、御託はいいからさっさと始めようか。

もし、暴力がそこになかったら

 国内外であがった意見のうち最も多かったのは、何があっても「暴力はいけない」というものだった。また、司会者の発言も「言葉の暴力だから、これもよくない」という意見も多かった。
 そもそもとして、私は必ずしも「暴力はいけない」とは思っていないのだが、ここはひとまず圧倒的マジョリティーたる何があっても「暴力はいけない」という考えに基づき、仮に彼が暴力に訴えなかったとしたらどうなっていたかを考えよう。

 具体例として挙がっていたのは「声を上げる」「言葉で争う」「(式を)退席する」といったものであった。しかし、これらの手段を用いても、アカデミー賞授賞式というルールにおいてそれらは忌むべき行為であり批判は避けられないだろう。
 出席者は、何があっても式の筋書きに沿った行動をしなくてはならないのだ。たとえその筋書きに、断頭台に首を横たえる事と書いてあってもだ。出席者はおとなしく処されて、物言わぬ頭部をさらし、聴衆の嘲りを血涙をもってむかえなくてはならないのだ。それが筋書きなのであれば。

属性による判断は見当外れ

 他には、反撃すべきはジョークを言われた女優本人だったとする意見があった。どうやら女性を男性の所有物とみなしていると捉える人もいるようだ。夫婦という関係性に注目した意見なのだろうが、これもやはりアカデミー賞授賞式というルールの観点で言えば、夫婦である事実は一切関係ないことだ。もちろん、女性は男性が守らなくてはならないといった価値観の出る幕でもない。

 ここで、日本の方の意見で多かったものを紹介しよう。それは、「(暴力はやりすぎだけど)彼は妻を思ってやったことだ(だから、許されるorそこまで咎められないorむしろよくやった)」といったものだ。気持ちは分かるのでこう言うのは心苦しいが、これらの意見は完全なまでに感情論である。
 仮に、女優本人が反撃をしていたとしよう。結果は、同じだ。授賞式のルールではそれは認められていないのだから当然だ。彼が暴力を振るうよりかは、感情論的に擁護の声が上がりやすいだろうが、ルールに反した行動という意味では同じなので最終的な結果は変わらないだろう。
 次に、全く関係のない第三者が司会の発言に耐えきれず義憤に駆られて行動していたらどうだろうか。もちろん、結果は同じだ。だが、彼女や彼が暴力を振るうよりも擁護の声は少なくなっただろう。お前は関係ないだろと言われて終幕だ。これは逆説的に、被害にあったのならば反撃してもよいという感情論を支持していることになる。(むしろ、私はこの第三者こそが善良な人間であると感じるのだが、それはまた別の話。)
 このように、夫婦関係であったことをはじめ、性別や肌の色などといった属性に着目した意見のそのほとんどは、見当外れであると言える。

場外戦は場外ではない

 また反撃の別の方法として、場外での戦いをしかけるパターンが挙げられていた。確かに、式が終わってから抗議をすることは可能だっただろう。ただ、こちらの場合もアカデミー賞授賞式というルールが適用された戦場になるのは想像に難くない。つまり、総スカンだ。今更何を言っているんだと思われたり、その時に言えよ意気地なしと言われたりするかもしれない。何の意味もないどころか完全な悪手にもなり得る。

だってルールは守るものだろう?

 ここまでを要約すると、何故彼が批判されるかは、アカデミー賞授賞式というあの場でのルールから外れたことをしたからだ。その場の法を破ったからだ。人間として正しい行いをしたとしても、あの場ではそれは正しくない行為となり得るのだ。あの場では、カラスは白いと言われればそれに異議を唱えてはいけないのだ。それがルールというもので、その場に居たものはそのルールを絶対に守る必要があったのだ。

楯突かないことがルール

 さて、ここまで「アカデミー賞授賞式のルール」と何度も言ってきたが、それが何かを明記していなかった。
 そのルールとは、司会の言うことや式自体に楯突くな、筋書きを乱すなというもの。たったこれだけである。

 アカデミー賞授賞式における司会者の揶揄――という表現はマイルドかもしれないほどのブラックジョークはお馴染みのものらしい。これは、大衆の抱く、栄光を手にしたものへの嫉妬や羨望を抑える効果もあると記事にしている人もいた。良い思いをしているのだから、コレくらいの酷い目に遭ってもいいだろう、という意味だ。面白い説だが、仮にそうだとしたら、「誉れ」と「罪」という違いはあるものの、大広場で貴族を公開処刑にするギロチンのそれと似ている。自分たちを虐げてきた貴族のその死に様を見て、下々の我々は溜飲を下げるのだ。そのために、ジョークという言葉のギロチンにかけるのだ。

彼への処分は論理的に妥当

 彼はアカデミーから10年間の”刑期”を言い渡されたという。これは、ルールを破った彼への罰だ。授賞式という演目を演じきることが出来なかった者への罰だ。そして、ルールをその規律を守ろうとするアカデミー側の毅然とした態度であるし、そうであるからあの司会には称賛のコメントを残すのだ。彼の暴力というハプニングを処理して、演目と処刑の執行を見事成し遂げたわけだから当然だ。
 これらのことは、至極真っ当な流れだろう。被告の罪を確定し刑期を決めて裁いたに過ぎない。極めて論理的であり、感情論の取り付く島はないのである。

言論の自由を守るヤギとヤギ飼い

 また、ある記事ではこの司会者のようなコメディアンはアメリカ社会で唯一何を言ってもよい存在であり、「言論の自由」の最後の砦であるとし、その責務を立派に果たしたと評価していた。一方、暴力を振るった彼はそれを突き崩す(アメリカ社会の価値観における)悪しき存在であるかのように記述されていた。
 仮に、アメリカ社会では「言論の自由」の守護者のような役割が必要であったとしよう。それで社会秩序が守られているとしよう。私には、その役割は生贄であるようスケープゴートにしか見えない。国全体をあげてそれを善しとしているのだ。それは、軟弱で貧弱で脆弱な意思だ。いつか、狼に絶滅させられるとも限らない。

 ここまで、断頭台に首を横たえていたのは彼(を含めた授賞式の出席者)として喩えていたが、この説を受けて考えると、あの司会もまた、断頭台に「言論の自由」と自らの首を載せたまま発言していたのだとも考えられる。
 自分が処されないために、出席者を処す必要があったのだ。自分が死なないために相手を殺すのだ。そして、それがあの場での正義だったのだ。正義に楯突く彼は、悪にならざるを得ないのだ。悪に仕立て上げなくてはならないのだ。

 闘技場で殺し合いをしている剣闘士同士が下手に対戦相手に同情心を持てば、殺されるのは自分になる可能性がある。その上、血を欲した観客からのブーイングが起きてしまえば主催者の機嫌を損ねることとなり、ブーイングをおさめるために自分の断末魔の叫びが必要になるかもしれないのだ。
 あの二人は、衆人環視のもと、いつ落ちるともわからぬ凶刃を意識したまま、本人同士の意志とは関係なく戦わなくてはいけなかった。あの場はそういったものだったのかもしれない。

まとめと深堀り

 以上が、このアカデミー賞授賞式における暴力とそれに対する意見の根拠やその正当性についての私なりの見解だ。

 要約すると下記のようになる。
・彼の行動もそれを支持する意見も、感情論的に理解はできる
・ただし、授賞式のルールにおいてはそれは正しくない行為
・故に、授賞式のルールに沿った彼への批判は正当であるしアカデミー側の対応も論理的であり正しい

 しかしながら、見落としてはいけない点があり、その点について更に書き連ねよう。その点とは、善悪を決めるルールそのものだ。

被害者は、私とあなたとみんなと世界

 あの司会が差別的な発言をしなければ問題は起きなかったと考える人は多いだろう。それに関しては上述の通り、あの司会もまた、授賞式の演者の一人であって、そういう攻撃的な発言をすることも筋書きであったわけで、そこを責めることはできない。責めるべきは、攻撃的な発言をさせていた”モノ”にある。
 それは善悪を定めるルール、それ自体だ。授賞式という中でのルール。アメリカ社会という国全体でのルール。あるいは、人間という生物のルール。全てはここに集約される。

 我々は、これらをより良い方向へと作り直していく必要がある。その責務がある。
 あなたがこの事件で覚えた違和感は、その責務を果たさんとするあなたの善良なる心からのメッセージに他ならない。と、私はこのように考える。
 司会が悪いのではない、暴力に訴えた彼が悪いのではない、ルールが悪いのだ。そのルールを善しとしてきた今までが悪いのだ。そこに今、気付くことが出来たはずなのだ。気付いたのなら、動かねばならない。


 話題を少し変えよう。

 トランスジェンダーで、男性の肉体を持ち心が女性の水泳選手が、いろんな大会記録を総なめにしている。彼女に対して、シスジェンダー(肉体と心が一致している)の女性選手が、意見するといったニュースを見た。
 
 これも同じ構図なのだ。
 トランスの彼女は、水泳競技というルールにおいて出場を認められ、実力で結果を出している。一切悪いことなどしていないので、批判される理由など本来はない。彼女に対して、男性器を切除していないことや、性的指向が女性であることなど、他の面を攻撃することは止めるつもりはない(善いこととは思わないが)。ただし、いくらそういった要素を挙げ連ねても、彼女の「女子水泳選手」という肩書を消し去ることはできない。そうするにはルールを変えるしかないのだ。

 授賞式のルールも水泳競技のルールも、どちらも簡単に変えることができるものではないのかも知れない。それでも、諦めてしまえばそこで我々は止まってしまうのだ。


 西暦404年に、剣闘士同士の殺し合いに異議を唱えた修道士が観客に石を浴びせられ殉教した。ルールを変えようと行動をして殺されたのだ。現代なら浴びせられるのは石でなく鉛玉か、いや、きっとそれは言葉になるのだろう。
 この殉教事件がその全ての理由ではないが、闘技場での殺し合いは廃止されていく結果となった。修道士の死は意味をもつことになった。
 また、ギロチンは1977年を最期にその役目を終えている。

 人にはルールを変える力があるはずだ。
 どうか、それを忘れないで欲しい。

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