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スマホがもたらした“日常化“の驚異~守ろう僕らの創作物~

スマホのおかげで便利な世の中になっている。もはやこれが無い生活は耐えられない人間も出てくるだろう。だが、便利すぎるが故に、見えないところで大事なものを失っている気がしてならない。

スマホによって脅かされたものは無数にあるが、今回は創作物に対する接触機会とその時の態度の「日常化」について考える。

日常化の定義

ここでいう日常化とは、スマホによって日常的に対象物に触れられること。アクセスの容易さ。日常生活における創作物との接触時に、明確な意思や態度を持つといった区切りがないこと。
当たり前にそこに存在している状態になったこと。

スマホにより日常化された創作物

既に日常化の被害にあっている創作物に「音楽」と「ゲーム」があると考える。

私が音楽を能動的に聴き始めた頃は、CDが普及しておりMD(もはや死語)も登場した頃合いで、比較的音楽へのアクセスは容易になりつつあった。そうは言っても、子供にとっては安くはないCDを購入し、再生機器を準備して聴いていた。この再生機器というのも、今のようにポータブルでパーソナルなものではない。せいぜい1家に1台で、家族で奪い合いもあれば、うるさいから消せと言われることもあり、じっくり楽しむことはなかなかできなかった。

もう少し時を遡れば、ラジオから流れるのをカセットテープで録音して、擦りきれるまで聴いていたという話もよく聞く。

障害が多いほど、たどり着いたときの感動は大きいもので、その楽曲どうこうではなく、その真摯に向き合う態度が、音楽を聴くことの価値を高めていた気がする。

ところが現代はどうかというと、スマホ1つで全てが完結してしまう。全て当たり前の日常の風景である。

気になった曲はフレーズで検索すれば、曲名から歌詞から楽曲そのものやミュージックビデオまで一瞬で到達する。そこに感動はあるだろうか。などと、感傷的になるのはスマホ以前を知っている側なだけで、これが日常の方もいるだろうから、そこは問題ではない。

私が問題視しているのは、その「日常」に作り手が合わせてしまっている点だ。

例えば、昔のアイドルはアイドルだった。非日常を演出できていたように思う。しかし、いまは会いに行けるアイドルを筆頭に、もはや日常だ(マルチタレント化やSNSのチャネル戦略上、仕方がないのは理解できるが)。ヒットチャートにおいても、ドラマチックな悲哀を歌うよりも、すぐそばにあるような恋愛を歌ったものや、日々訪れる他愛のない感情の起伏を表現したような曲が人気なように感じる。それが悪いわけではないが、聴き手の「日常」に合わせて作り手も「日常」を作ってしまっているように感じる。

スマホのある「日常」のありふれた「日常」を歌った歌を通勤通学時などの「日常」に聴く。そこに音楽を聴こう!という意思や態度はあまりないのだと思う。

そして「日常」はどこまでも「日常」なのだ。誰のところにもあるので創作されやすく、次々にあらわれる。それは陳腐化しやすく、そして消費されやすい。1年前のヒットチャートは思い出せないし、1ヶ月前ですら同様だ。

これも仕方ない。聴き手もスマホで簡単にたくさんの音楽を聴けるようになったし、作り手もネットの発達によりその数は膨れ上がった。溢れすぎていて、吟味する暇もその必要もないのだ。消費していかないと追い付かない。

ゲームも同様だ。ビジネス観点での収益を考えると仕方がないのは承知しているが、据え置きゲーム機で遊んでいた経験を持つ私としては、スマホゲームは物足りなく感じるし、スマホの利点であるところのアクセスのしやすさを逆手にとった依存戦略や集金システムが透けて見えるのが、正直好きではない。だがこれもきっと、私生活が多忙でゲームをする暇を捻出しづらいプレイする側、そんな人たちから効率よくお金を集める提供側の双方が、スマホのある「日常」に適応した形なのだろう。

次に日常化の危機に直面するのは

私が怖いなと感じているのが電子書籍の存在である。

本はそもそもスマホ登場の遥か前より既に日常と言っていいので、「音楽」や「ゲーム」とはちょっと違う。

この怖さの根源は、作り手がスマホのある「日常」に対応してしまうことに起因する「紙媒体であることのメリット」の消失が起こる可能性によるものだ。

漫画の単行本がイメージしやすいので、漫画で説明しよう。

いま、世の中に出回っている漫画のそのほとんどは紙媒体の雑誌等に掲載されたものだ。それが単行本として製本されて、世に出て人々が読む。

ページをめくる。見開き2ページを使った大胆な描写。さらにページをめくるまでの余韻。紙の手触り。紙が擦れる音。伏線を発見し、該当箇所を探すときに一気にページを戻す。どこだどこだ、とページを素早く送る時の感触と胸の高鳴り。

私だけかもしれないが、紙媒体であればこういった感覚を味わえる。そしてそれは創作物を楽しむ上で極上のエッセンスとなりえる。

これがスマホ上で見た時は「指を動かす動作」にしかならない。どこか味気ない。いやまあこれは、私の感想でそれ自体はどうでもいいのだが、作り手がこの味気なさを気にも留めなくなったとき、本当の恐怖が訪れる。気がする。

それはつまり、電子書籍上で読まれるのが完全な日常となってしまったときに損なわれる表現方法があるのではないか。という点だ。

例えば、見開き2ページを使った描写は不要になるかもしれない。そもそも見開きという概念が消失する可能性もある。コマ割りで魅せる技法というものは過去のものになる。

かつて、携帯電話(ガラケー・フィーチャーフォン)が普及したころ、「ケータイ小説」というジャンルの創作物が生まれた。この定義は諸説あるが、画面の小さいガラケーで読むのに適した短文による文章構成であるものが多かった。しかし、スマホに移行するにつれ、表示画面が大きくなり短文である必要がなくなって、その文章構成は消失した。

技術の発展で登場したガラケーの「日常」に適応した結果として短文技法が生まれたが、スマホの「日常」という更なる変化によりこれは消失したのだ。

同じことがまず漫画で起きると思っている。先に挙げた例以外にも変わることがあるかもしれない。

既にWeb漫画というジャンルがあり、Webの利点を生かした作品作りで評価されているらしい。スマホで漫画を読むという「日常」に対応していくその作り手の姿勢はすごいと思う。しかし、まだその作り手たちは紙媒体を知っている世代だから私の懸念していることは起きていないのだとも思う。この先どうなるかは、未知数だ。

文章が特別な理由

「音楽」なら空気を振るわして伝達する情報に意味があり、機器や聴く態度や曲調や歌詞表現が変わっても、その本質に変化はないので日常化自体は、音楽の形として肯定できる。

「ゲーム」なら、行動選択やボタンを押すタイミングなどの操作による刺激の変化を味わうという事に意味があり、その内容は変化しても影響はない。むしろそれこそがゲームの醍醐味で、本質的なところと日常化には関連性はない。

だが、文章は違う。

「文章」は、言葉自体の意味やその表現技法などで別の意味を付与していくわけだが、書き付けられる媒体によって、文章そのものや技法に変化が生じる可能性がある。文章は書き付けられる媒体に影響をうける。この点において特別なのだ。

紙が貴重だった時代において、短い言葉で気持ちを表現しあう短歌は合理的だった。紙は溢れ、データ化され、文字数に制限がなくなった今もなおその文化が生きているのは、その表現技法を美しいと評価し、受け継いできた人たちがいるからでしかない。

先述のケータイ小説の短文構成は、残念ながら消失した。しかし、残念がる人を見たことはない。ゆえに消失した。

そして、この記事の文章を見てほしい。段落字下げをしていない。これは、ネット上にしか文章を書き付けたことがない人に多く見受けられる特徴だと私は考えるが、この人たちが多数派となったとき、段落字下げという技法も消失するのかもしれない。

少し先の未来に、購入した”文章”が、紙媒体で読むのと遜色ない感覚で、脳内に自動で流れ込むような技術が日常化したらどうだろうか。きっとそれは、今ある文章とは別物となっているのではないかと私は思う。

ネットの普及やスマホで読むことが当たり前になり、段落字下げの扱いのように既に浸透しつつある変化は起きている。今以上に電子書籍として文章を読むのが日常になったときに、もっと大きな変化が起きるのか起きないのか。私には想像できないが、これを恐れているのだ。

日常化は避けられないけれど

ネット通販もとうに日常化しているが、まだまだリアル店舗での買い物が主流だ。

だが、これも時間の問題(購買層の通販ネイティブ世代への完全移行)で、今より通販の日常化が進むことは確定的で、そしてある変化があると見ている。

それは、商品外装の簡素化だ。リアル店舗の無数にある商品のなかで、その商品を目立たせるため外装を派手に大きく見せる商品は多い。特に化粧品だ。小学生の筆箱程度の大きさの外装に鉛筆1本分のサイズのアイライナーが入っているのには笑ってしまった。でも、きっとこれはそのうち無くなるだろう。サステナブル社会へという至上命令もある。輸送コストも押し下げられる。この方向に向かわない理由がない。

書店も同様に危うい。大量に平積みされた本を見て、紙の無駄という意見が出て来たら、今のこの社会の流れに逆らえるだろうか。本の完全電子化は案外目の前まで来ているのかもしれない。


スマホをはじめとした技術の発展により、とても便利な社会になった。私のこの拙い文章が人の目に触れる可能性があるという点においても、スマホによる日常化の全てが悪いことではない。だからこそ、この日常化の流れは止められないだろう。

後世の文学者に
「スマホの功罪~消失した文章表現~」
などという論文を書かせないためにも、ここは踏ん張りどころなのかもしれない。

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