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「長靴をはいたネコ」のネコ

 「長靴をはいたネコ」という童話をご存知だろうか。今日はこれについて、特にこの物語の主人公であるネコの存在について考察してみよう。ただし、参考にするのは下記あらすじと、こちらの絵本からとなるので、皆様が読んだことのあるものと若干の違いはあるかも知れないということはご了承いただきたい。

 ある粉挽き職人が死に、3人の息子にはそれぞれ粉挽き小屋、ロバ、猫が遺産として分けられた。長男が粉挽き小屋を、次男がロバを取った。残りの猫しかもらえなかった三男が「猫を食べてしまったら、後は何もなくなってしまう」と嘆いていると、猫が「心配要りませんよ。まず、私に長靴と袋を下さい。そうすれば、あなたがもらったものが、そんなに悪いもんでもなかったことが近いうちに分かります」と応えた。
 長靴と袋を調達してもらった猫はまずウサギを捕まえ、王様に「我が主人・カラバ侯爵が狩りをしまして。獲物の一部を献上せよとの言いつけによりお持ちしました」と言ってウサギを献上し、王様から「余からよろしくと侯に伝えよ。“貴公の心遣い、大変嬉しく思う”」と言葉を貰う。これを繰り返して王様と猫が親しくなった頃、猫は三男にある場所で水浴びをさせる。そこに王様と姫が通りがかり、猫はその前に出て「大変です、カラバ侯爵が水浴びをしている最中に泥棒に持ち物を取られてしまいました」と嘘をつく。そうして、三男と王様を引き合わせ、「カラバ侯爵の居城」に王様を招待することになる。
 猫が馬車を先導することになり、道で百姓に会うたびに「ここは誰の土地かと聞かれたら、『カラバ侯爵様の土地です』と言え。でないと、細切れにされてしまうぞ」と言う。本当は、ogre(オーガ)の土地だったが、百姓は王様に訪ねられると「カラバ侯爵様の土地です」と答える。そして、王様は「カラバ侯爵」の領地の広さに感心する。そして、猫はある豪奢な城に着く。これは、オーガの城だったが、猫は「ご城主は凄まじい魔法の使い手だと聞いていますが、まさか鼠に化けられる程ではないでしょう?」とオーガをだまして鼠に姿を変えさせ、捕まえて食べてしまう。そうして城を奪い、王様が着くと「カラバ侯爵の城にようこそ!」と迎える。王様は「カラバ侯爵」に感心。
 三男は元々育ちの悪い男性ではなかったので、姫は三男を好きになり、しきりに気にかけるようになる。王様はこれに気づき、娘婿になってくれないか、と言う。三男こと「カラバ侯爵」は、その申し出を受けてその日のうちに姫と結婚する。猫も貴族に取り立てられて、鼠捕りは趣味でやるだけになった。

出典:wikipedia「長靴をはいたネコ」より

 まず、確認をしておこう。このネコは、喋る。初っ端から少年に対して(少年が履いている)長靴をくれと進言しているのだ。(ただし、少年が履いている長靴、というのは前述の絵本の描写のみとなる。だが、少年が長靴を新たに用意することは現実問題として困難かと思われるので、誤りとも言い切れない。ということにしておく。ポプラ社ホームページより該当ページのリンク
 そして、ネコが長靴をはくことで物語は歩き出す。つまり、このネコが何故喋るのかという点と長靴にはどういう意味があるのかを考える必要があるということだ。



 初めにこのネコの存在を考える上で、長靴がいわゆるマジックアイテムで、これさえ履けば何でもできる道具だったのだ! ということではないのが、最初の場面で分かる。履く前に喋っているからだ。
 喋るネコ、しかも長靴を履くということは二足歩行である。この個体かあるいは全てのネコが、二足歩行をして人語を喋れるように進化した世界である可能性もある。しかし、これだと2番目の兄がロバを選ぶとは考えづらいので、この線は薄そうだ。言うまでもないが、後にネズミと対峙する場面があることから未来から来た猫型ロボットでもないし、ネコに転生してしまった現代人のケースでもないだろう。


 次に、少年はこのネコが喋ることに対して何の驚きもしない点に注目しよう。これが意味するところは、この少年のいる世界ではネコが喋ること自体は何もおかしくはないという世界であるということだ。こう考える根拠はさらに2つある。
 1つが、先に少し触れたが少年の兄たちがネコの相続を放棄したこと。仮に、人語を話すネコが珍しいものであった場合ならば、兄たちがこれを手放すわけはない。そもそも粉挽きの仕事などせず、見世物小屋で遊んで暮らしていただろう。
 ここに追加して、人語を話すことを知っているのは少年だけだったという可能性を入れると兄たちの相続放棄も納得できるが、そういった描写は無い。そしてこれは、もう1つの根拠によってもその可能性の薄さはうかがえる。それは、ネコは王様や百姓とも意思疎通が出来ており、彼らがそこに違和感を持っていないという点だ。つまり、あの世界観ではネコが人語を喋ることは普通のことだと認識されていることになる。
 敢えて反論をするならば、長靴がマジックアイテムかつ、そのマジックアイテムに頼らず意思疎通を会話で行えるのが少年しかいなかったが、少年自体はネコと会話することが出来て当たり前という価値観を持っている。という状況を用意する事が出来れば、長靴がマジックアイテムなだけで、そのマジックの力によりネコが喋れるのは普通だとコミュニケーションの相手に思わせているだけ、と言えなくもない。が、流石にこれは無理がある。
 この部分は物語を決定づける非常に重要な場面であるはずだ。だからタイトルにもなっている。
 一応、最初の長靴を譲ってもらう場面だけ非言語によるコミュニケーションであれば、例えば、ネコが長靴をしきりに引っ掻くなどの表現で長靴をはこうとしていれば、多少説得力はあった。だが、ネコは喋ってしまっている。
 また、そんなマジックアイテムを使うのであればタイトルは「ネコが履いた長靴」にするべきだし、ここまで都合の良いアイテムであればこの物語自体が破綻してしまいかねないので、長靴=マジックアイテム説は無いと考えてよいだろう。
 以上のことと、ネコが喋れることに関して言及している描写が一切ない事からも、ネコが喋るのは普通なことである世界観と言えよう。

 状況を整理しよう。
・喋るという点において、このネコが特殊な存在であるとは考えづらい
・この世界はネコが喋るのは普通のことである
・長靴はマジックアイテムではない
・(絵本の描写より)ネコは裸足だったが少年から長靴をもらう
・長靴を履くことで物語は進展する
・タイトルになるほど長靴は重要である

 長靴はマジックアイテムではない。しかし、そこに何かが、物語が動き出す何かが必ずあるはずなのだ。

 そこで、私は一つの仮説を立てた。

 ネコ=奴隷(などの低身分の者)の隠語であり、奴隷の証拠として首輪や烙印の変わりに裸足でいさせるという世界の話、というものだ。
 こうであれば、ネコとは人間であるから喋るのは当たり前である。だが、その身分の低さから、口を利いてよいかはまた別問題であり、それをクツがえすのが長靴なのだ。


 あらすじに沿って確認して行こう。
 少年の兄らが少年を追い出したのは食い扶持を減らすためと考えるのが妥当であろう。そうなった時に、奴隷=ネコに飯を与えるなんて選択はない。わざわざネコを捨てるという描写も必要ない。そしてネコは、行く宛も無い(一応少年の所有物でもある)ので少年についていく。少年のことを主人と呼んでいるのも説明がつく。また、少年がネコを食べることをしないのも当然と言えば当然だ。



 長靴を譲ってくれ。こうネコが恐れ多くも主人に進言するその意味は、「私を人間(扱いされるよう)にしてくれないか、なんとかしてみせるぜ、この危機的状況をな」という熱い展開、二人の運命を分かつ重大な場面なのである。何故ならば、少年は裸足になってしまい、それすなわち彼らの世界では奴隷に身を堕とすということを意味する。一蓮托生。少年の決断力に拍手を。
 こうして少年はネコに全てを託す。あらすじだけ読むと、何にもしない少年は正直ダメ男に見えるが、実は漢気あふれる人物なのだ。
 少年の熱い思いと共に譲り受けた長靴を履いたネコは、晴れて人間扱いをされる。貢物さえ持てば王様と謁見することもできるし、元より人間なのだから知恵もまわる。狩りはきっと罠を仕掛けたに違いない。

 さて、百姓を言葉巧みに操り領地を少年のものだと王様に信じ込ませ、辿り着いた城に座するは巨人の怪物オーガ。怪物もネコ同様、隠語や隠喩と捉えるのが筋だろう。巨人の怪物はネコの話術に引っかかりネコに食べられてしまう。これはつまり、権力を笠に着て偉そうにしている高い身分の御方を、奴隷身分が知恵比べで打ち破るという風刺の効いた構図とみて良いだろう。カタルシス効果を得るには十二分な演出といえる。


 時系列は前後するが、物語の中で私の仮説を後押しするのが、少年が王様と初めて会う、少年の水浴びの場面だ。
 奴隷は靴を履かないという世界観で起こりうるトラブルの一つとして、奴隷でない身分の人間も靴を脱がざるを得ない場面があり、そこで身分が分からないといったことが起こり得るだろう。そして、その場面のうちに水浴びはきっと含まれる。この状況においては、この世界の人々は、その人が奴隷身分かそうでないかの判断を一度保留すると考えられる。そのため、王様も少年が靴を履いていないその事実だけで、すぐに奴隷身分とは扱わなかったし、信頼していたネコの話から衣類を盗られたと聞けば、少年を奴隷身分と思うことは無くなるはずだ。

 王様と少年をどう引き合わせるかは、ネコにとっては大きな課題であったはずなのだ。靴は1足しかないので、王様とネコと少年が一堂に会することはできない。
 靴がないなら作ればいいとか、買えばいいとか思われる方もいるだろうが、このような世界観であるから、靴というのはおそらく簡単に買ったり作ったり出来るものではないはずだ。簡単に手に入ってしまえば、他人の奴隷に靴を履かせて容易に奴隷解放運動が出来てしまう。故に、マイナンバー並の厳重さで管理されるのが、この世界の靴なのだろう。
 いくらネコと王様の仲がよくなったとはいえ、少年用の靴を新しく用意することを依頼するのは怪しまれるため無理だったのだ。だからこそ、盗まれたという演出が必要だった。実に秀逸、ネコ天才。
 そして、少年は王様の娘と結婚し、ネコと一緒に幸せに暮らす。そこにあるのは奴隷・平民・貴族を超えた美しい関係性で間違いない。
 
 この童話は、身分などに関わらず繋がれた絆。人それぞれに備わった知性。そして幸せを掴み取る権利は、どんな人にも等しく存在するということを伝えたかったのかもしれない。


 なお、原作に記された教訓を読むに、私の仮説は否定された模様。無念。

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