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1年の密度

noteをこんなに長く続けるとは思っていなかった。ちなみにこの書き出し、何回書いたか覚えていないくらい使いまわしている気がする。今回で最後にしよう。

なんでnoteを始めたか。この記事を読むであろうほぼ全員が、この問に対する回答は持っているはずだ。私の場合も当然ある。

なんでnoteを続けているのか。もちろん、これにも回答をもっている。それは、noteを始めた目的とは違う。当初の目的というのは当初の目的であり、今のそれとは違うんだ。

最初は自分の思考などのアウトプットという目的があって、その手段としてこのnoteを利用していたはずだが、今となってはnoteで記事を書くことそれ自体やささやかな交流が目的になっている側面もある。「手段と目的が入れ替わっている」状態である。しかし、心地が良いのだから仕方がない。

さて、noteを続けることが目的になってしまった私がどうするかと言えば、続けるための手段を用意する必要があるわけだ。すなわち、ネタ探しだ。もとより書きたいことはたくさんあるので、それ自体には苦心しない。しかしながら、それをどう調理すれば美味しく頂けるかにまで考えが及ぶようになったのは、ひとえに自分自身に向き合うことができるようになったからだと思っている。

人に見られることを意識していなかった私が、他者の目に映る自分を意識することができ、自発的に自分自身を意識するようになる。するとどうだろうか。当初の目的の思考のアウトプットにも磨きがかかるのだ。「目的と手段」が入れ替わった結果、当初の目的の質が向上した。少なくとも私はそのように感じている。

noteでもよく見かける「難しいことを考えなくてもある日なにかに気付く」とか「毎日投稿していたら気づいた大切な事」とか「毎日続けることを目的にしてもいい」とか。こういう啓発関係の記事なりキーワードは正直興味がない分野だったが、ここにきて、少しだけ理解できたかもしれない。


そんなこんなで、ダラダラと1年続けてきた私が気づいた、私にとって最も重要なことは、「自由」と「自己表現」であるということだ。

自分の感じたことをそのまま書く。といっても、性格上そのままストレートになんの脚色もなしに書くのは好まないので、エピソードを加えたり創作にしてみたり声を使って表現したり。とまあ、色々とやってきて、そしてこれからもそれを続けていくのだろう。自由に自分を表現していくのだ。それが心から楽しいと言える気がする。


そういえば、ささやかな交流をもった人のうちに、私自身が見えていなかった私のことを教えてくれることが度々あった。
・目的意識がつよく強い男性(像)
・二次創作や評論に才がありそう
・(コメントにより)話を広げてくれる
・同じものを別の視点から見て共有できる
・コメント芸に秀でる

これ以外にもたくさんありがたい言葉をもらっている。そういうものもやはり「楽しいの」材料となる。そして何より嬉しい。


生きるためにご飯を食べる家ではない。
ご飯を食べるめに働く仕事場でもない。
「〜しなきゃいけない」が無いここは、
楽しく生きるために必要だと感じられる。
能動的に生きていると感じられる。
ここに居たいと思えるから、ここに居る。


さあ、明日はどんな記事を書こうか。


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