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「優しさ・優しい」とは何か?②―哲学カフェに参加して考えたこと―

前回に引き続き、哲学カフェでのことをまとめていこう。

②立場・視点によって異なる「優しい」感覚

その後、様々な発想から「優しい」のイメージを具体化させようと試みられた。特定の行為自体を、その直後に評価する場合の「優しい」は、ざっと以下のように整理できそうだ。

1)行為者視点
 "誰か(何か)のためにしてあげる"行為

2)受け手視点
 自らの困難な状況に対し、時間や労力を投入して手助けしてくれる行為

3)第三者視点
 ある人(受け手)にとって、してほしいと思うことを、行為者が想像して実行すること

しかし、当日語られた問いにはこんなものもあった。

「例えば、監督は威張り散らすタイプの人間で指導が非常に厳しく、パワハラ体質。選手はその意図に気付いていなくて、その指導を純粋に受け止めていて、後年感謝している、とする。果たして、その監督の行動は「優しい行動」なのだろうか?」

何とも悩ましい問いかけだ。このパターンで言うと、行為者がどれだけわがままでも、受け手がプラスに捉え、「優しい」と感じることがあるというのだ。このようなケースは現に存在しているだろう。

個人的な直感は「ただの幻想」「記憶の美化」だ。しかし、そうは言い切れない。そして、1つの行為に対して、行為者と受け手はどんな時でも認識が異なる。もしかすると、その受け手の人自体が優しいパーソナリティを持っていて、自分に向けられる様々な行為をすべてプラスに捉えるタイプなのかもしれないのだ。

しかし、第三者から見たとしたらどうだろう?特にパワハラ体質の部分。ここに体罰が入ってきたら、さらに話はややこしくなる。第三者の視点で見れば、どれだけその行為が「優しさ」から行われていたとしても、パワハラ・体罰という行為のNGさ故に、それを「優しい行動」とは受け取り難い。

それぞれの主体によって、こんなにも感覚が異なる。優しい、と一言にいっても、その行為は1つの言葉だけで簡単に表現できるものなどない。そこには各自の経験や知識等に基づく「優しい」がある。そして、それと同じように様々な感覚がある。「優しい」は、それらが綯い交ぜになって表出される感覚の1つに過ぎない。だからこそ、優しいにはこれほどまでに感覚の違いがあるのかもしれない。

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