哲学カフェに参加して考えたこと―「共感」②「共感」とはどういうものか?―
前回に続いて、哲学カフェ(テーマ:共感)についての話題を記そう。
今回は、哲学カフェの本編から考えたことをまとめていく。
テーマが「共感」ということもあったのだろうか。比較的序盤からエンジンのかかっている方が多い印象であった。
当日は身近なテーマと言うこともあったのだろうか、いつも以上に実体験や例を交えながらのトークが展開された。その中では「自分が共感した」ケースもあれば「相手が共感してくれたと感じた」ケース等、様々な感覚が紹介された。
そこでやり取りされた共感を整理すると、以下のように表現できそうだ。
共感とは「自分と自分以外の主体(話し相手、観衆など)の感情が同期できていると、自分が思っている状態」を指す。
非常に意地悪な表現をするならば、「感情が同期できているという思い込み」、それが共感となろう。
それを確認していこう。当日のやり取りを見る限り、共感の主体は自分と他人がある。つまり、「(自分が)共感している状態」と「(自分の感情に対して話し相手が)共感しているように見える状態」のように、「共感」の主体が異なるのだ。
自分が共感しているかどうか、これは比較的イメージがつきやすい。自分自身の「共感」の定義のハードルの高さに違いはあれども、目の前の相手や状況に対して、自分の感情が同期しているように感じているかどうか、それが鍵となろう。
しかし、自分から見て「話し相手が自分に共感している」と、どうして言えるのだろう?ここにはある種の思い込みがあるように見えるのだ。それは同様に自分が共感の主体(相手の感情に対して自分が共感していると感じる状態の時)である場合にも言えるのだ。
感情は誰にも正確に理解できない。だが、声や表情から受け取った情報から類推できる。それを基に、相手の感情に寄り添えている、もしくは相手が自分の感情に寄り添ってくれている、と感じること、それが「共感」になろうということだ。
哲学カフェの本編での直接のやり取りから、見い出せた「共感」はここまでにしよう。
本編の最後、私は問題が2つの疑問を投げかけた。モーレツに後味が悪くなりそうなのを覚悟な上で。
1)共感しているかどうかに関わらず、共感しているように見せることができるのではないか?
2)AI/ロボットに対して人間は共感できる(または共感してくれていると思える)のではないか?
共感している(してくれている)と感じれば良いのならば、この問いはともに肯定されることになる。
しかし、それぞれ困ったことも生じる。
1)を肯定する場合、辛そうにしている相手に対して、悲しそうな顔をして「大変でしたねぇ」なんて言いながら、腹の内では「ざまぁみろ」と思うこともできる、ことになるのだ。そこには共感しているように見せる行為はあるものの、共感はないと言える。となると、それは果たして「共感している」と呼べるのか?それが1)の問題となる。
2)の疑問は、「共感している」も「共感してくれている」も自分自身が感じるものに過ぎないならば、その相手は人間以外でも良いことになる。犬や猫のような動物ならば、それ自体が感情を持つ生き物だから共感できることになりそうだ。
しかし、AIやロボットにはプログラミングされた感情(のようなもの)を作ることは出来る。とはいえ、動物が有するものとは明らかに性質が異なるだろう。その「非生命体」である存在と共感できるのかどうか。これが2つ目の問題となる。なお、この疑問は『ドラえもん』のような世界観にも当てはまるだろう。
その疑問について考えたことを次回記しておこうと思う。
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