見出し画像

哲学カフェに参加して考えたこと―「共感」①事前にMOTの展覧会「あ、共感じゃなくて」展へ行く―

9月30日のこと。2週間に1度行われている哲学カフェが開かれた。今回のテーマは「共感」である。

ここ数年、しばしば聞かれるようになった「共感」。当然、新しい概念ではない。今までも行われていた光景に対して、改めてスポットライトを当てている感もある。また時に、ある種の暴力性を伴っているかのような使われ方もされる。

その「共感」とはどういうものだろう?それと自分たちはどう向き合っていけばよいのだろう?そこが鍵となりそうなテーマである。

ここからは本編の感想、と言いたいところだが、まずはその前段として、当日哲学カフェの前に訪れた展覧会に触れることにしよう。

訪問したのは東京都現代美術館(MOT)である。MOTのことは友人とのやり取りでも何度か話題に挙がっていたが、良いタイミングがなく、一度も行ったことはなかった。

そのMOTにおいて、開催中の特別展が「あ、共感じゃなくて」展である。今回の哲学カフェのテーマともリンクする内容であったので、行ってみることにしたのだ。

この展覧会は、5人のアーティストの方が作られた作品により構成されている。

まず目に入るのは有川滋男の作品である。数社の企業紹介ブースが並んでおり、展示会か合説会場の光景を切り取ったかのように見える。

それぞれのブースでは、企業のスローガンらしき看板があり、その奥に企業紹介の動画が流れている。この動画が曲者なのだ。

何らかの業務をしている様子であるが、その業務によって何が得られているのか、見当がつかない。能動的に行っていれば単なる自己満足、受動的であればブルシット・ジョブ、そんな印象を受ける業務である。少なくとも私ならば、この手の業務は遠慮したい。

この作品そのものには果たしてどんな意味があるのだろう?そもそも、そこで働いている人たちは何をしているのだろう?そして、何を考えているのだろう?一般的な業務とは異なり、実用的な意味合いで理解するのが困難な業務ばかりなので、どうしてもそれが気になってしまう。

ただ、それは裏を返せば、日常世界では、行動とその意味合いが第三者から見てもわかりやすい構造になっている、あるいは、行動とその意味合いを無意識的に関連付けて考えている、ということかもしれない。

自分の見えないところに別の関連があるだけかもしれないし、そもそも、行動と意味合いを関連付けて考えてしまっていること自体がおかしいのかもしれない。

「共感」という視点だけで見れば、ここで紹介されていた企業に対して、私は共感できない。そして、そもそも作品自体、日常の思考回路では理解できないように作られている。私が抱いた感触もある種、作者の意図したところであったのあろう。

他の方々の作品も、様々な意味合いでの「共感」を扱っている。空間・時・立場など、様々な違いを超えて共感することができるか。また、すべてにおいて共感が必要なわけではない。共感できずとも、互いの存在を感じ、共存(共生)できないか。そのようなものを模索していく中で生み出されたように見える作品の数々であった。

哲学カフェ参加前にこの展覧会を観たのが、果たして良かったのかどうかは、よくわからない。しかし、様々な共感の形が存在すること、そして、他者に共感できないことがあっても共存(共生)の道は探れること、これらを再確認できる意味で、うってつけの展覧会であったことは、おそらく間違いないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?