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哲学カフェに参加して考えたこと―「共感」③哲学カフェ後に残った疑問―

さて、「共感」をキーワードにしたブログも3回目に突入した。無駄に長くならないようにしつつ、まとめなければ、なんて風にも思う。

余談はここまでにして、前回最後に記した疑問について、自分なりに考えたことを記しておこう。

①共感しているかどうかに関わらず、共感しているように見せることができるのではないか?

この疑問は共感「力」という表現にも直結する。共感力とはどういう能力なのか?単に「共感する能力」なのか、「共感しているというメッセージを相手に示す能力」なのか。

基本的には前者で考える方が無難なように思える。というのは、後者は共感とは無関係に「共感しているというメッセージを相手に示せれば良い」とも言えるからだ。となると、共感力は急に「演技力」の様相を呈するようになってしまう。

だが、現実的には後者は非常に役に立つ。特にビジネスの現場では。たとえ演技であっても、自分たちの苦境を理解し、それを改善してくれるサービスを提供してくれる、と相手が感じてくれるならば、課題解決型のビジネスにおいては、案件を受注できたも同然なのだ。本来それで良いはずはないのだが。

また、スキルとしての「共感力」は、人の優劣を判断する要素にもなり得る。そもそも、その優劣を分けること自体、果たして「共感」につながるのだろうか?同じ状況下にいる人同士では「共感」し合えても、それ以外の人との間では共感できない、ある種の「分断」に繋がり得るのではないだろうか?

メッセージの表明が全く不要というわけではない。むしろ、必要な時もある。だが、本来的な共感の意味合いからすると、メッセージの表明の有無に関係なく、他者に寄り添う、ことが重要になろう。果たして、それは"能力"と言って良いのだろうか?

正直なところ何とも言えない。能力なようにも見えるが、そうでないようにも見える。むしろ、能力かどうかを考える方が野暮な領域なようにすら感じる。

まとまりのない流れになっている。先の問いについて言うならば、個人的な答えは「共感の有無に関係なく、共感しているように見せることは可能であるが、それが人として良いかどうかは、別の話である」となろう。そして、少なくとも「共感しているように見せる行為」そのものは決して褒められたものではないであろう。そのくらいにとどめておこう。

②AI/ロボットに対して人間は共感できる(または共感してくれていると思える)のではないか?

この問いは「共感している」も「共感されている」も、自分の認識に過ぎないことに端を発する。自分の認識に過ぎないのだから、その相手が何であろうと関係ないのではないか、ということだ。

個人的な答えは「共感できる(だろう)」である。モーレツに雑な表現をするならば、LOVOTのような商品が発売されていることが根拠となる。しかし、それはあまりにも雑なので、少し状況を整理しつつ、根拠を示したい。

共感している状況を整理すると、そこには感情を読み取るための情報があることが前提となる。その情報は身体的な表現(泣く、笑うなど)や言語的表現(発言、文章)のいずれかで発せられる。つまり、感情を読み取れる情報があれば、共感できる要素となろう。

AI/ロボットはプログラミングされた処理に基づいて、「感情らしきもの」を発することができる。あとはその情報に対して人間が共感するかどうか。これは現在でも可能だろう。

しかし、「共感してくれている」と人間が感じるかどうかは、話が別である。人間が発した情報を基にAI/ロボットが発出した情報が、人間にとって「共感」と認識できるかどうか、となる。言い換えれば「自分と共感しているように見えるけれど、しょせんプログラミングされたものでしょ」という冷めた感情に至る可能性も十分に考えられるのだ。

だが、それは「プログラミングされたもの=同じ入力値であれば、同じ結果が出力される」ことが前提となる。であるならば、同じ結果にならないようにプログラムを組めば、どうなるだろう?こちらが同じ行動しても、応答にはいくらかゆらぎが生じることになる。そうなると案外、その冷めた感情もなくなっていくかもしれない。


哲学カフェのテーマ「共感」について、考えたことをこれまで整理してきたが、疑問は尽きない。

また、事前に訪問した展覧会「あ、共感じゃなくて」展で展示されていた本の中には、今年5月に購入したまま、文字通り積読と化していた『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』があった。

疑問の尽きないのにその本を読めば、さらに疑問が増えることは必至だ。しかし、そもそも疑問をなくしていくこと、それ自体をしなければならない理由はどこにもない。

今後、本を読み、様々な情報に触れ、色々な人と出会う中で、新たな「共感」像が見えていくことになるだろう。その時の姿は果たしてどういうものだろうか?そして、今思い描いているイメージとどのように異なるだろうか?(そもそも、このブログを書いたこと自体を忘れている可能性もあるが)

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