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哲学カフェのメリット?

ひとまず週1回は更新しようと思ってやっていたが、日本シリーズ等にかまけている間にアップする時間を失った。これからは、よりユルく、気ままに更新するつもりだ。ブログとは「大きな独り言」そのくらいのスタンスで。


さて、今回は哲学カフェでのオフトークから。

10月末のこと、オンライン哲学カフェの主催者T氏は、とある居酒屋で以下のような趣旨の発言をされた。

「哲学(カフェ)をするメリットはなんだろう?」

ある意味、パンドラの箱か玉手箱を開くような問いのようにすら感じなくもない。しかし、避けて通るわけにもいかない問いでもあるだろう。

その後、特にそれに関して深められる会話がなされることはなかったが、自分なりに考え、ざっと3つにまとめてみた。かなりの程度個人的なイメージに偏るのは悪しからず(「大きな独り言」なので)。

①問いへの答えを「暫定的」とし続ける感覚を身に着けられる
②思考の偏りに気づく機会になる
③時間制限を設ける限り、精神的に病みにくい

以下、順にみていこう。

①問いへの答えを「暫定的」とし続ける感覚を身に着けられる

ある特定の問いがあった時、即時に答えを導けないことも多い。また、答えがいくつも見えており、その差が明確には感じられないことも多い。

現代は即断即決が重要視されているが、その結果、失敗を招くことも十分にある。即断即決も時と場合を選ぶ。どうしても考え続けなければならない局面はあるのだ。

そのようなときに、安易に解に飛びつかず、じっと腰を下ろして考える。哲学(カフェ)はそのような局面に慣れる練習になるだろう。

何か問題が生じたとき、その解決策を考える。その時に、簡単に解決できそうに見える選択肢が見つかることも多い。しかし、それで本当に解決できるかは、実際のところ、定かではない。別の問題が生じる可能性すらある。

そのような時に、じっくりと問題に向き合って考える必要がある。最適解に見える選択肢はあくまでも「暫定」として、横において考え続ける。その先に、より良い解決策が見えることもある。当然そうでないこともあるのだが。

このように、安易に「これが正解」と飛びつかずに、冷静に考える練習に哲学(カフェ)はなるだろう。

②思考の偏りに気づく機会になる

このメリットは、集団で行うこと、そして、その集団の思考的な偏りが小さい(もしくは、偏りはあっても、その反対の思考ができる)ことが前提となる。前提条件のハードルが高いが、そこはいったん横に置いておきたい。

人は誰しも思考の偏りを持つ。政治で言う、右翼・中道・左翼はその代表例であろう。右左はともかく、中道は偏りがないように見えるが、「真ん中という偏り」があるとも言えるのだ(ひねくれた言い方ではあるが)。

そのような思考の偏りは、同じような思考体系の人たちと付き合っている時には、あまり感じられない。

しかし、その偏りが時にとんでもないリスクを招くこともある。経営学では「集団浅慮(グループシンク)」なる言葉まであり、特定の思考に偏ることは、時に危険なものにもなり得る。

そのような思考の偏りに気づく最良の機会は、別の思考の偏りを持つ人と会話する機会をより多く持つことだろう。

自分の考えと合わないストレスも時にはあるだろうが、各自の思考そのものは、その人たちが生きてきた過程において生得した「個人的な正解」である。そのことを尊重し、それらを共有していく過程で、自分の思考の偏りに気づく機会が生まれる。

偏りに気づけば、自らの行動に選択肢が生まれる。偏ったままの判断で良い、そのままではマズいので、直感とは別の判断を下そう、というように。

ある意味、偏りに気づかないほうが幸せなこともあるが、気づくことによってしか得られないメリットもあるだろう。その意味で、自らの思考の偏りに気づける機会は、メリット十分と言っても良さそうに思える。

③精神的負荷が小さい

哲学的な問いは時に精神的に多大な負荷がかかる。歴史上有名な哲学者には、死の直前に精神的な疾患を抱えていた人もいるという(それが哲学をし続けたからなのか、本人の性格的な特徴や環境要因によるものなのかは定かではない)。

実際、哲学的な問いの中には、考え続けると最後は発狂するのがオチ、と言いたくなるようなものもある。

しかし、時間制限を設けていれば、それはある意味、運動と同じことになろう。30分ジョギングするのと、似たようなものになる、ということだ。

先の例についていうならば、「生きる意味について、30分考えてみた。その時に○○というのが最適のように見えたので、それで良しとしよう」というくらいの感覚だ。

思考は時間無制限で考え続けることもできないではないので、ジョギングとは異なる。しかし、「哲学カフェ」というお題目と、「制限時間」という理由付けをしておけば、考えを切り替えやすくはなるだろう。

私の場合は、その後もゆるゆると考えることが多いが、それは、ジョギング後にゆっくりと歩いている感覚に近いだろう。思考はやがて別の話題に移っていく(そして、メモした内容を含め、たいがい忘れてしまう)。

思いつめない分だけ、精神的な負荷は小さい(少なくとも、ショートメモリーな人にとっては)。まさにそれは、哲学カフェのメリットであろう。


さて、これまで、哲学カフェのメリットについてみてきた。果たして他にどんなメリットがあるのだろうか?メリットがあるところには当然、デメリットもある。功罪は常に一対だ。そちらを考えてみるのも面白いだろう。

他の参加者はどう考えているのだろう?どこかのタイミングで、この手の話をじっくり行う哲学カフェがあっても良いのかもしれない。

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