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オリンピック後の日本経済を占う:正常性バイアスの観点から:その2

 経済と正常性バイアスとは分野が異なるようでいて実は陰に陽に深い関わりがあります。
 逆に経済とビジネスとには云われる程には関わりがありません。
 経済とは貨幣の流通速度を科学するもので、国を単位として見れば金融政策が主な関係事象ですし会社(社会)を単位として見れば資金繰り(C/F)が主な関係事象です。
 しかしビジネスを司る経営者が資金繰りを考えられるかというと大抵は考えられません。資金繰りには専門の財務担当が必要です。
 経済学と経営学が別の分野なのはそれ故です。
 正常性バイアスはビジネスにおいては資金繰りの悪化を必要以上に意識することによる混乱の連鎖を避ける作用があります。
 それは勿論、危機意識を持つなということではありません。
 正常性バイアスの欠如による混乱が資金繰りを更に悪化させるのは例えば仕出弁当の廃止など、削っても意味のない費用を削ることで何とかなるのではないかと算段するなどです。
 かれこれの費用の削減に意味があるかないかは場合と金額によるものでもあり、一概に何が意味があり何が意味がないかとはいえませんが会社の仕出弁当がなくなるとか学校の給食が似非ダイエットミールになるとかは食べ物の恨みという人間の最も根深い感情を引掻く政策になってしまいます。

 C/Fで測るのが経済、P/Lで測るのが経営でB/Sで測るのが財政です。
 日本はそれらの左が強く右が弱いという通弊があり、財政学と財政政策が発達していないのは資源大国ではないこととその代替になる植民地政策に失敗したことが理由です。
 財政の対象になる物が乏しいと財政力は上がりませんし、そうならば財政政策といえど精々緊縮か積極かということくらいしか考えにないことになります。緊縮か積極か、何れにしても正常性バイアスには反する、それをできるだけ壊そうとすることになる認識で、日本人は色々な意味で正常性バイアスが弱い傾向があります。何かあると直ぐに騒ぐ。
 資源を動かして治める財政という観念がないと再分配というものの意味するものもお金を配ることしかないということになる。
 企業の経営者が金融政策(経済)を行うことはありませんが財政は政治家だけにではなく経営者にも必要な事柄です。
 資源に乏しいという非優位性を覆うべく日本に発達したのは土地をなるべく売買しないという商慣習です。
 全くの土地の公有制は中世までのもので、それも奈良時代には一部私有制が導入され、室町時代からは私有地の売買が広がり(京都に町名が付き始めたのはそのため。町名とはその土地の商品価値、商標価値を形成するものなのです。)ましたがそれでも日本における土地の所有と取引は一部の例外を除き大概にして至って抑制的なものです。不動産売買として主に取引の対象になるのは建物であり、その下にある土地は儲けの種ではない。
 土地を高く売って儲けることはその時は結構な御点前になりますが高く売れるということは買うのも高くなるということで、それだけ儲けの種を得る機会が少なくなり、延いては自分達の首を絞めることになりかねない。
 土地の流動性を高めないことにより正常性バイアスを保つことが日本の成功の方程式といえます。

 処が、

 今年の正月の令和六年能登半島沖地震においては津波の到来を絶叫連呼する報道のあり方が正常性バイアスを壊す素晴らしいものだというような評論が散見され、一部の政治家も絶賛し或いはTwitterで真似するという馬鹿騒ぎが起こっています。
 彼等の大前提には正常性バイアスは悪いものでありそれを壊すことが正義という発想があります。
 しかしその報道のあり方が根本的に矛と盾の故事なのは津波の来るような大地震でもその絶叫テレビを観ている人がいるという想定です。その時点で先ず電気が止まるからテレビ放送を停止するという想定が普通に有事の発想です。処が、じゃああなたは何でそこで座って叫べるのか、そうしているということは大丈夫ということではないかと、全くの逆効果を招きます。
 正常性バイアスを意図的に壊そうとすることからはその防御反応としての過剰な正常性バイアスや誹謗が生じます。現代日本の通奏基調もその状態で、間違いを繰り返す現象もその原理です。人間は間違いを指摘(正常性バイアスの破壊を)されるだけでは性格の如何を問わず間違っている自分の防御維持(正常性バイアスの拡張)を図ろうとするもので、間違いを正すには至らないのです。何よりも必要なのは正解を見ることです。
 正常性バイアスそのものは必要であり悪いものではなく、それを何に振り向けるか、まさに自分の能力における財政と分配が大切です。

 上手にせよ下手にせよ、現代日本人の主な関心事は資金繰りと損益で、それも必要ですが財政がない。いわゆる、今すぐキャッシュ。
 議会制民主政治の起源と最大の主題は財政ですが、財政に弱いと民主政治もなかなか発達しない。緊縮か積極かということに終始するのは要するに財政が資金繰りと損益の発想でしか成り立っていないからです。
 尤もそれを再履修するために資源大国になることもできないし今更に植民地を取る訳にもゆきませんが他にも財政のテクストはあり、例えば在庫がそれです。
 それも今の今はどうなのかというような感じもありますが現代日本の強い企業は悉く在庫の管理に強い。

 今の今の日本経済の情況を見ますと、賃上げと値上げということでスタグフレーションになるかならないかということが問題視されています。
 断定はできませんがこれからの日本経済はスタグフレーションにはならないと考えられます。
 何でかというと、答は二つ:

 ・過去の日本経済や世界経済においてスタグフレーションが長く続いた例はない(前例がない。)。
 ・従来二十年の日本経済はデフレとはいうものの実際にはスタグフレーションを常に含む推移をして来た。∴実質としてはデフレではないのでデフレの脱却というものもなく、あり得るのは本当のデフレになるか緩やかなインフレになるかしかない。

 過去にスタグフレーションになった例は昭和50年(私の生まれた年)頃。しかしそれで経済が成り立たなくなるということもなく寧ろ安定基調で、五年程で再成長に向かいました。
 因みに今時にいわれる貧困と格差というものはその’80年代にも存在し、今時よりも大きく深刻で、少なくとも今時に新しく生まれた事象ではありません。時代を問わない一般論としてなら意味があるでしょうが時代の特徴を語る時事問題としての意味はあまりありません。
 平成後期のこの二十年はデフレといわれますが物価は然程には下がらず、壱万円札もどう見たって昔と同じ1万円札。問題は単に経済成長がないだけで実質物価は常に上がり続けていました。寧ろ脱デフレを求める論議が経済成長の脚を引張り(言うだけで何もやらない現象。)、それこそがまさにゆるスタグフレーションで、これから本格スタグフレーションが起こるということはあまり考えられない。

 仮になったとしてもスタグフレーションが長くは続かない理由はどう見てもおかしい、やばいからで、そこで対処しないことはあまりあり得ないということです。南京大虐殺も長続きはしません。逆に脱デフレという一見はおかしそうに見えない、まともそうに見えるものが永らく日本経済と日本人の生活を阻害しています。

 ニューヨークのラーメンは三千円だ、日本のラーメンが八百円なのはおかしいから日本のラーメンももっと値段を取るべきだというのもそのように一見はまともそうだが根も葉もない阻害の要素。
 単純に考えれば、それは日本の八百円が向こうでは三千円に化けるということで、昔の日本と第三世界ではありませんが、日本円が強いということです。
 すると、日本円は十年前の半分の為替相場になっている、円が弱くなっているということではないかという方々が跡を絶ちませんが一口にニューヨークとはいえ外国為替市場と街角は全然違う貨幣価値で成り立っており、NYの街角の相場では日本円が四倍近くも強いのです。実感としては私もあまり良く分からない現象ですが数字はそうです。日本人がニューヨークに家を持てる日も近い?
 それだけではなく、原価の違いもあります。ニューヨークのラーメンは同じものも原価が高そうです。
 あらゆる観点からしてそのようなラーメン経済論はナチ臭い空理空論です。

 ニューヨーク外国為替市場の数値が代表しているのは今時の実地の感覚からすればニューヨークとの比較ではなくサンフランシスコとの比較ですね。サンフランシスコの貨幣価値と比べると日本の貨幣価値はかなり低いとはいえるでしょう。尤もそれも少しは差を埋めるべきではありますが比較の対象は他にも幾らでもあります。

 昨今の日本の産業経済の最大の弱味の一つは平成後期の二十年にリスクを取れとか正常性バイアスを壊せとかという思想が逸ったことから安全衛生の面での信用が著しく下がっていることです。ついこの前にも何かあったらしいように、日本の商品は恐くて汚い、一言で言えばキモいという評価になりつつある。日本はクールだというのはいわば京都人の嫌味のようなものですね。
 実際にそう大きな即物的変化がなくても印象は悪くなるもので、特に広告宣伝の能力の取り返しのつきそうもなさげな程の低下が日本の商品の印象を悪くしています。
 コロナ禍はそういうキモい広告宣伝をかなりシャットアウトしてくれたので、あくまでも(アベノマスクと無印良品の布マスクで)生き残った人としての感想ですが天祐だったという感じもします。

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