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【新年度】PRのし方

 きのうが決算日で、きょうから新しい費用と収益(C&P)が発生します。
 花粉も発生しています。

 ここ川崎市や神奈川県などの全国の多くの地方議会や政府の選挙が来週の日曜日、4月9日に行われます。
 これを統一地方選挙といい、地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律に定められる制度で、4月に行われることになっています。
 なのできょう4月1日土曜日は川崎市麻生区の麻生川桜まつりということもあり選挙の街宣が声高らかに響き巡っています。
 「うゎー❗️ありがとーう💛」などなど、もうそれは隙もへたれもないプロの女による喋りで圧倒されますが、選挙にしても他の催事にしても臨時雇で司会者を傭することはあまり感心のしない方法です。
 場の構造からすると、臨時雇の司会者とは一種のステルスマーケティングで主催者が自己を広報(PR)していることにはならない。選挙なら候補者本人以外にはやはり常任の職員や党員の有志が司会を仰せつかるべき。
 日本人が一概にPRが下手なのはPRというものをかのような自民党のプロの女のように単なる仕事としてしかしないからでしょう。
 そしてあくまでも仕事のためという目的でPRができるようになることを課題づけられている。すると仕事以外なら何でも「言わなくても分かるだろう。」となる。故に就職における自己PRというものや履歴書も廃止して求人募集者が独自に個人調書を取る方式にするべきです、そういうことをやって来て竟にきょう入社する皆さんには物議かもしれませんが。

 講演会なんかも、司会は主催の担当者から出す。或いは司会者を付けずに講演者本人が全てを取り仕切る。
 販売促進なんかも、製造業者や販売店の担当者がする。或いはAIなどによる自動放送でも良い。現にAIではなく肉声の録音ですが「お肉!、お肉‼︎、お肉の日‼︎」とかあります。

 プロの女などの臨時雇による司会は自己PRではないだけではなく、PRの構造としても意識高い系的問題があります。
 せっかく雇っているので司会者の喋りは手短に済ませると勿体ないということでプロの喋りの部分(特に始と終)が長くなりがちです。猪木のように「元気ですかー?‼︎」、ささっとストールとガウンを脱ぎ捨てて早速やin the playということができる専業の司会者は稀で、或る程度の長いお喋りで会衆の注意と気分を惹いて立ち去りにくい空気にしてから本人の御登場とせざるを得ません。
 「それでは皆さんお待たせ致しました。」:いや、ほんまにお待たせなんっすけど。
 因みにそのように立ち去りにくい空気を作れる声の質や速さというものがあり、その波長に惹きつけられる人はほぼほぼ必ず引き寄せられますが惹きつけられない人はほぼほぼ必ず引き寄せられません。いわば一定の市場規模のある波長なのです。

 色々と毀誉褒貶もありますがそのような意識高い系的司会をほぼほぼ絶対にやらないのが久米宏、古舘伊知郎や宮根誠司で、一定の市場規模に限られずに広く揺るぎない存在感を得られるだけの理由があるのです。
 政治家には彼らのような者があまりいません。強いていえば小泉純一郎です。
 自民党はプロの女による一定の市場規模を幾つも持っているので、それらの少数派を足し合わせると安定多数派になります。自民党が政権を取れない時というのはそれが足し合わせられない時です。
 その他は一定の市場規模にも達していません。立憲民主党(当時は民進党)は一頃に蓮舫を代表として巨大な少数派の形成を試みましたがもうやり直せない程に失敗に終わっています。いわば強気過ぎる拡販です。
 唯一安定して一定の市場規模を持つのはカリスマ美容室的国民民主党ですが規模が小さ過ぎます。

 商売も政治も基本は言葉です。
 ∴国語力はとても大切です。

 日本人のPRがおしなべて下手な原因は単なる仕事のためということともう一つ、国語教育の不備にあります。
 それは俗にいう詰込かゆとりかというような低次元の問題ではなく、国語というものについての見方や態度という大きな大きな問題です。その高次元の問題が日常の細かい端々の綻びとなって現れています。

 先ず、言語というより古い歴史のあるものについてはさておき、国語というものが国家権力と共にあるものであることは現下のロシアの特別軍事作戦におけるウクライナ語の禁制とロシア語の強制の可能性ということから改めて感じさせられます。
 俗に世界一美しい言語と名高いフランス語はフランス国家が大革命の後に人為的に形成して普及した国語です。
 日本語も明治維新の後に人為的に形成されましたがフランス語の程には熱心にではなくつくばエクスプレスのような急造で作られました。それは良くも悪くも明治政府が地方分権体制を取ったために数多の方言のある地方の抵抗が強くあったからでもあり、戦前は標準語や共通語がその基となった東京にもあまり普及してはいませんでした。延いては今も標準語らしい標準語を遣う人は東京にもあまりいません。
 地方の抵抗がなかなかなくならないので戦中になると方言札というものが出来たりした訳です。
 フランス語には同じ意味の語が幾つもあったりします。何でかというと、正しいフランス語というものが地方の抵抗なく受け入れられるためにはなるべく多くの同義語を許容するのがよいからです。それでもし通じなければ自分で説明して下さいということで、故に(donc)PRの力が単なる仕事のためではなく日常に必要なものとして身に着く。
 日本語にありがちなのはもし通じなければ自分で説明するのではなくその意味ならその語一つと決まっていてそれを必ず覚えるというもの。それでもし通じなければ「日本語分かりますか?」、「あなたの読解力がないのです。」と云いなさいという。

 司会者が前振りのお喋りを長くして本人の登場を遅らせることはその本人の権威づけになる技法です。
 なかなか直ぐには登場できない程に重みのある者という印象をその声と時間で印象づけるのです。
 それだけの印象を植えつけられていると、その本人の喋りが薄っぺらで退屈でも予めある印象だけで何か凄いという印象になります。
 しかしその好印象は先のプロの女の技に依存するもので、本人の印象の良さや技ではありません。
 それだけ我慢してその場におればもう支持せざるを得ないという心境になって来ます。
 そして「ありがとうございました!」とまた司会者が最後の長い喋りを始めます。それが俗に「まとめ」と呼ばれるものです。

 近年は時短効率化ということが良くも悪くもいわれていることから、ネットにおけるそのような「序論(はじめに)・本論・結論(まとめ)」はそんなに長いものではなく寧ろ何を語り始めたのかも分からない程に短い構成で「まとめ」とか言われる例がかなり散見されます。

 「序論・本論・結論」という構成は従来の国語教育が一貫して示すもので、それそのものは必ずしも間違いではありません。
 そのPRの構成法がなぜ日本の国語教育により墨守されているかというと、それがそもそもは学術論文を一とする、論の主題が予め認知されており、その主題に初めから関心のある人に向け語られることを前提とする構成のし方だからです。
 ∴、卒業論文なしで学士になった私はそのような「序論・本論・結論」の構成によるPRをしたことはほとんどありません。

 そのような構成を教育により植えつけられている日本人はしばしば自己のPRしようとするものの主題が予め認知されてはいないにもかかわらず「こういうことってありますよね…、」みたいに唐突に導入(introduction)を仕掛けて来たりします。
 彼は「こういうことってどういうこと?」とばかりにその導入から以降の本論や結論に関心を持ってくれるものと期待している。
 認知されていなくても認知済なことになっているので、それを知らないことは自己責任なのかと思わされてしまいます。
 そのような技法はネットの普及の前からありましたがネットの普及がそれを変えるかと思いきや、逆に強化されていてハイパー昭和な風景になっています。キモいっす。

 ∴、ネットの記事でも何でも、「まとめ」と書いてあれば全て無視することにしています。

 その逆に、必ずしも結論から述べなくてはならない訳ではありません。
 しかしその話が最終的に何を志向しているのかということは未認知の主題の認知を図るということで初に示す必要があります。それで認知されないなら、その話題は時期尚早なのです。
 これは従来の日本の国語教育が一切も示さなかっただけではなく半ば意図的に忌避して来たものです。
 ∴、SDGsを巡っても日本分団の迷走が著しい訳です。
 SDGsを単なる仕事の課題としてしか考えない。
 我が家がSDGsの妨げになる訳なんてない、妨げになっているとすればそれは子供のせいだ、「俺/あたしは分別あるよ、文句あるのか?」とか。

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