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国家主権と汎神論:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教:その7

 昨年の三月に始まり一年になるロシア🇷🇺の特別軍事作戦(ウクライナ🇺🇦事変)は国家や人民の主権というものにつき考える良い機会かと思われます。
 :というと、❶もの凄く違和感する人、❷少し違和感する人や❸全く違和感しない人があるでしょう。
 ❶は人の不幸を良い機会だとは如何なものか、不謹慎か傍観者的かだというでしょう。
 ❷は私がそれですが、❶の感じを幾らかはありながら❸に似るような感じもする人でしょう。
 ❸は起こった現実は全て受け止めるべきとする人でしょう。

 ❶は絶対主義で、この論の対象ではありません。いわゆる天動説的世界観です。
 ❷は日本🇯🇵の元主流思想の道教主義と現主流思想のスピノザ主義の保守派です。私は道教主義者ですがスピノザ主義にもここに語る幾つかの点などを除き穏健中庸ならば理解や一定の支持をします。スピノザ主義は江戸時代以来四百年の日本の主流なので、何ぼ三千年の歴史のある元主流の道教主義と雖も多数派工作のためには無視できません。
 ❸はスピノザ主義の改革派とプラグマティズムです。日本🇯🇵の非主流派ですが現代は彼等が最も強い影響力を持っており、いわば日本の思想と社会のcasting votesです。

 スピノザ哲学はそもそもがradicalなので、それを全て守ろうとするならほぼ必然に❸になります。❷はスピノザの対抗者デカルトや中世以前の❶絶対主義などの旧思想を何程かは継承する立場です。

 ロシア・ウクライナの紛争を良い機会だとは不謹慎で傍観者的だということについていうなら、あらゆる人はあらゆるものにつき傍観者であるという私の名言一つで済ませます。しかし傍観には程があるもので、程のない傍観は確かに不謹慎です(一言で済ませていない。)。
 一周年の先日に初めてキエフに来たアメリカ🇺🇸のバイデン大統領がその訪問をくそ面白くもないけどし方なく来てやっているのか面白くて来たくて来たのかは明らかです。顔に書いてあります。
 ❸は神の意思は予め定められており(思し召しや配剤などと呼ばれる。)、人生とはその予定に沿うようにすべきもので、紛争もまたその予定の一部であり人間にとっての試練だという思想で、イスラム原理主義などにも見られます。すると、それを信ずる自分達が力を持つことも神の思し召しだがそれが信じない者達により潰されることもまた神の思し召しということになるので、どちらかというと万年野党的傾向になる場合が多いことが特色です。
 しかし現代の日本と世界には万年野党が実は与党なのではないかという程に❸が増えています。
 スピノザは汎神論と自由意志の否定がその哲学の中核ですが、それをmetaphysicalな提題としてではなくphysicalな実践として捉えると❸になり、その典型が三島由紀夫です。スピノザを読むと「あれ?それ三島由紀夫のことじゃん。」と気づきます。或いは極左の中核派などもその一種です。
 metaphysicalな提題とは真そのものではないが真の存在が間接に浮かび上がるような或る種の偽のことで、場合により寧ろ真そのものをphysicalに直接に明らかにするよりも真を理解し易い。
 哲学だけではなく、metaphysicalな提題は例えば数学や理科学の仮説仮定などには普通にあります。仮説仮定が真と見做されるとそれはphysicalに成る(金に成る、即ち喫緊の課題になるように。)訳です。
 国語にもあり、敬語や仮定、若しくはお世辞などの条件法の言葉遣いはmetaphysical languageの一種といえます。
 聖書の創世記の木の実の話は原罪または堕罪の由来についてのものとされますがそれをmetaphysicalsとphysicalsの観点から解することもできるでしょう。生命や知恵というものがそれらの両輪から成り立ち、蛇はそれらの全てをphysicalsに還元する媒体となったという。全てがphysicalならば例えば敬語のない世界で、「主よ、」とは「おい、主、」でいいということになります。それが彼にとりphysicalな真実なのだから本音に忠実だろうという。尤も、イエスなどは罪の贖いの観点から「おい、主、」という呼び方を必ずしも斥けてはいないことは「主よ、」と言う者が救われる訳ではないと云うことに明らかです。逆に全てがmetaphysicalならばもんた&ブラザーズの『Dancing all night』ではありませんが世は嘘に染まるばかりになるでしょう、寧ろ今時は真実こそが嘘の固まりになっているようですが。それがまさに❸の強い影響でしょう。

 ロシア🇷🇺により侵略された自国の主権を衛ろうとしているウクライナ🇺🇦は原罪説のローマカトリック、西方キリスト教と堕罪説のギリシア正教、東方キリスト教との狭間にある地で、OK狭間の戦になってしまっていますが、どうもその辺りが曖昧なのではないか、罪についてだけではなく主権の観念も結構あやふやなのではないかと見えます。曖昧であやふやなものを守ろうとすると得てして総力戦になってしまうものです。それは国の規模や軍事力とは無関係なのでどんな大国もそれであっという間に亡ぶことがあります。
 スピノザは主権についても説明しますが実はそれが落とし穴です。西方の影響を受けると日本🇯🇵にも見受けられるようにその落とし穴に嵌りかねません。穿ち見れば、スピノザは外人がそれを読んだらそう思ってしまうようにわざと嘘を書いたのではないかとも考えられなくもありません。スピノザ以外にも西洋には色々な哲学や実践理論があるので自分が全部を本当のことだけを云う必要はなかろうと。だとすると、スピノザはフェークを含む情報操作の魁だったということになる。哲学で情報操作とか、なんか格好良さそう!
 因みに原罪説と堕罪説はどちらも正しく、原罪説は罪を客観的に捉える見方であり、堕罪説は罪を主観的に捉える見方です。どちらにも或る種の当事者意識と傍観者意識があります。

 先ずは、伝統的概念として恩寵と主権というものがあります。
 恩寵とは神の恵、愛ということですがこれはキリスト教を信じまたは解する人々にしか通じない事柄なのでそれを万人に通じる概念に置き換えて利益ということとします。ラテン語は恩寵をbenedicto(ベネディクト)と、利益をbeneficia(ベネフィチア)と言い、同源の語です。
 スピノザのラテン語氏名はBenedictus de Spinozaで、彼もまた恐らく恩寵と利益の置き換えを考えていたかと考えられ、それも汎神論を構成する重要な要素となったでしょう。
 中世ヨーロッパの皇帝は皆その主権を神の恩寵により賦与されたとされ、それを表すのが戴冠式です。
 それなら、主権(sovereignty)とは恩寵そのものであるかというと、そこが歴史的大問題です。
 中世ヨーロッパは主権は恩寵により与えられるが恩寵そのものではないとされていました。
 現代もキリスト教圏を含む多くの国は中世と同じくそのように考えられています。主権が恩寵そのものならばそれは宗教国家で、政教分離に反します。
 今日の我々の思う(故に我々がある。)近代国家と近代世界とはそのように、中世以前とは異質な近代というものに変わったのではなく、そのような変化を押し留めて或る程度は中世以前に戻ったものです。故に「そんな中世のような旧い世界観は近代の常識ではない、」とか云う人はそういう自分が非常識なだけなので相手にしなくていいです。
 処が、スピノザは主権と恩寵、即ち主権と利益を同一視しました。
 スピノザの膝元オランダを含む多くの国々はそうしてはいませんが近代以降はそうしているような国々もちらほらと見受けられ、それが❸の、日本🇯🇵の一部やウクライナ🇺🇦です。
 主権と恩寵に関し大きな違いは人か神かということもそうですが、実際的に重要な点は分割が可能か否かです。
 スピノザ以前の伝統的思想は、主権も恩寵も分割が可能だとします。
 それぞれ別ものですがその点は同じ。
 但し物心または霊肉の両面に分けると、主権の分割は物、肉としての分割はできるが心、霊としての分割はできない。形がなければ分けられないので当然です。
 恩寵の分割は物、肉としての分割はできないが心、霊としての分割はできる。例えば花の咲く部分だけを取って飾る際にはその他の茎や葉は大抵は捨てるもので、それは花という恩寵利益の分割ではなく取捨選択ということになります。分けても全部が残り用されることが分割です。故に花を霊として分割するとは咲く部分だけを取るのではなく茎や葉ごと全てを与えるということになります。
 主権の分割とは例えば植民地です。現代はなるべくないようにとなっていますが今も幾つかの植民地が公式に残存しています。その多くは防衛や政治経済体制という物、肉に関してはその主権を宗主国に分割するが国民の生活、風土や思想という心、霊としては分割されず自由とされます。
 無論、主権の肉的要素とは人間の肉体のことではない(国家などの集団は個人の人間とは同一視も擬されもし得ない。)ので、主権が分割されるからということで国民やその政治家などの体が切り裂かれたりしてよい訳ではありませんが偶にそういう勘違いをする人や国があったりします。例えばイスラム国の斬首刑などは日本などの主権をイスラム国に割譲させるぞという意思表示な訳です。そもそもその構成員ではない者を処刑するということが斬新過ぎます。
 植民地的なるものを絶対に認めないという人にとっては、主権は肉的にも霊的にも分割できない、させないぞということになりますが、その発祥がスピノザ哲学にあります。
 日本🇯🇵はもう植民地を一つも持たないし(沖縄県という海外領がありますが、)どこの植民地でもないのでということで、スピノザ的主権や恩寵利益の分割不可能説が受け入れられ易い歴史背景があります。心が分割されることはないと云っても何か制度的分割があると心が分割されたかのようにいう。

 主権と恩寵利益の分割が可能なことについてはカトリックキリスト教会の聖体祭儀における一つのパンを三つに割く動作に明らか。そこに神の子キリストの恩寵と神の国の主権の本質、体が表現されているのです。
 スピノザはそれをパン(キリストの体)の分割とは見做さず、単に大きいので司祭の口に入るように小さくしているだけだとします。しかしそうだとすると、福音書にあるイエスが五つのパンと二匹の魚を群衆に分け与えた話はどういう意味ということになるのでしょう?または、大きいので割らないとならないからというなら会衆のと同じ小さなパンにすれば良いということになるのでは。

 スピノザ主義は日本🇯🇵の主流思想ともなり、国と世界の平和と繁栄に寄与して来た面がありますが極左やイスラム国などのテロリズムや戦争と抑圧の時代を生む遠因にもなったと歴史的評価ができます。
 日本🇯🇵は国としてはテロ、戦争も抑圧もしていなくても、その思想がそれらを間接に助長している。
 敵を挑発して侵略を誘い、断固として戦うなどというウクライナ🇺🇦のようなことが日本あるあるだったりする。野党は与党に🇺🇦を翻し、与党は特亜に🇺🇦を翻す。
 人間の知性を改善する筈のスピノザ哲学が人間の最も愚劣で醜悪な姿を生み出している。
 ウクライナ🇺🇦を支援する西側諸国もウクライナ🇺🇦の全面勝利はあり得ない、望みもしないという。
 主権の分割はできないし恩寵利益の分割はできないという汎神論的思想が如何に危険かということが見て取れるこの一年でした。
 で、どこかのグレタさんなども困るのですがそれを非難する日本のおっさんなどの反環境派もそもそもグレタさんと同じ汎神論者達なことにもの凄く黒い根深さを感じる。そもそもの思想が同じなのに低学歴の父親が高学歴の娘を叱るような構図。
 そんな西側という精神的に肥沃な大地(どすなぁ。)に存在しているNATOという枠組はその参加が主権の分割ではなく同志の結束なのだという錯覚の余地があり、一考の余地があります。

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