夏目漱石「こころ」を読んで疑問に思った、「忍耐」と「我慢」の分別とはなんだろう
夏目漱石の「こころ」を読んで、抱いた様々な疑問
今日は図書館で夏目漱石の「こころ」を読んでいた。
3日前くらいから寝る前に読むと決めて緩く読んでいたのだけど、中盤くらいから如何にもこうにも先が気になり始めてしまい、休みの日を使ってじっくりと読むことにしました。
まだ実は読み終えられていないのですが、
読んでいるにあたって色々な疑問が湧いてくるのです。
僕は読み進めるにあたって、まさに作中の「私」が「僕」であるかのように、作中にのめり込んでいきました。そして、上記に書いた疑問や書ききれなかった疑問についての僕なりの答はまだ出せていません。これらはじっくりと、考えてみようと思うのです。
そこで今回僕が考えようと思ったのが、
先生がKに対して指摘した「忍耐と我慢の分別を了解していない」とあるけれど、忍耐と我慢の違いってなんだ?」ということを考えてみました。
遺書の中で記されている、「忍耐」と「我慢」の分別について
本作中のこの文章が出てくるのは、先生が「私」に宛てた長い長い手紙の中に出てきます。「私」が先生と一緒に過ごしていく中で、ずっとずっと気になっていた先生の過去について手紙を通してようやく明らかになる訳です。
また、この手紙は単なる手紙ではなく、先生の「遺書」であるということを「私」も僕ら読者も知ることになります。
先生の過去で、最重要人物が「K」と呼ばれる人物です。
先生曰く、「私の運命に、非常に変化を来す」ほどの人物で、先生の友人で、幼い頃から仲良しだったそうだです。
そんな「K」は浄土真宗の坊さんの子どもです。
寺に生まれた「K」は、常に「精進」という言葉が口癖で、まさにそんな「精進」という言葉の一語で形容されるかのような彼の振る舞いを、当時先生は大変尊敬していたようです。
つまり、「K」は自分の"道"のためと一度信じたら、どんどん進んでいくだけの度胸や勇気を兼ね備えた人だと先生は思っていましたし、何より「K」もそのように思っていたように思います。
ただ先生は、自分よりも強い意志を持っていた思うKに対して、自分の方が物事を弁えていると思うことがあったと書いています。
それは、こういうことです。
我慢は、理想と現実の乖離からくる憤りが前提にあるのか?
僕はこれを読んだ時に、僕は我慢と忍耐の違いってなんだろう、と思いました。これまでの人生の中で、我慢と忍耐のことなど考えようと思った試しがありません。そんな疑問を傍に、僕は作品を読み進めていました。
僕はこの話が一体、我慢と忍耐の分別とどう関わりがあるのかまだわかりませんでした。
そこでスマホを片手にこの両者の意味を調べてみました。
両者に一貫しているのは、耐え忍ぶこと、つまり困難や辛苦をじっと辛抱・堪える、ということだと思いました。
一方で、「我慢」の方がネガティブな意味が含まれているように思います。僕は上記の意味をみたときに、「自分はこうあるべきだ、だから現状はおかしい」というような理想と現実の乖離からくる憤りが前提にあるのではないか、と思いました。
確かに、「K」は下宿当時あらゆる贅沢のようなものを断っていたし、
下宿先の人と話をしたりすることすらも「あんな無駄話をしてどこが面白い」と云って、先生含めて世間を軽蔑しているようでした。
そして、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と他人に対してしっかり表明するのでした。勿論これは、自分に対しても。
断っておきますが、作中でも先生は「K」のことを
と話していることから、ただ悪人というわけではありません。(物語をもう一度読んでみてください)
作中でも先生が「私」に述べている通り、
人間は状況に応じて善人にも、悪人にも、なりうるということなのかもしれません。
忍耐と我慢の違いは、現実をどう受け止めているのかで感じ方によるもの
話を戻しましょう。
それからまたさらに忍耐と我慢を検索していると以下のような記事を見つけました。
ここで書かれている「我慢」と「忍耐」の特徴というのは、
どちらも苦を要する一方で、「我慢」のみが精神的な悩み(ストレス)を抱えることになるなるのでしょうか。
つまり、「我慢」と「忍耐」の境界線は
起きている現実を「ただ在る」と受容れる・認めるのか、
起きている現実を「なぜこうなのだ」と受け入れない・認めない
の違いなのではないかと思いました。
確かに、「K」は目の前の現実に降りかかる贅沢などの欲望の類を己の道のために節制しようとしていました。
ただし、その節制や姿勢を自分だけに向けられるものではなく、他者への批判や侮蔑といった類の眼差しで世間をみていました。そこで彼は、自分も勿論のこと、自分以外の他者に対してそれらを強いる、若しくは徹底的に関わらないようにしようとしていました。
なんせ、当時「K」にはそれが正しく、それ以外は無駄に見えてしまっていたのですから。
僕らは「我慢」や「忍耐」の先に何を信じているのか
ただ、ここでふと疑問に思ったのは、
僕たちは「我慢」や「忍耐」をした先に何が待っているのか?
という問いです。
そこで次のような記事を見つけました。
ここで書かれていることは、
「私が耐え忍ぶ先に描く未来に何を描いているのか」という目的
があるかないかが「我慢」と「忍耐」のを分ける境界線であるかもしれないということが分かりました。
それでは一体、この考えを提示している有川さんは忍耐の先に何を見出しているのでしょうか?
この方は、忍耐の先に「美」があると思っている。いや、そう信じている。
そんな彼女の「美」の追求という目的が苦難を耐え忍ぶことを「忍耐」へと跨いでいるのだと思いました。
そして、「ちょっとしたことは跨いどけ」という爽快な表現に僕は素敵だなあと感じてしまうばかりです。
僕らは日々、抑圧の機能を持ったルールや規範、そして道徳のようなものを自分自身や社会から強いられています。(と思い込んでいるのかもしれません。)
僕らは、無意識なのか、意識的なのかは定かではありませんが、自分自身を日々の選択の中で「抑制」することを選択しています。
こんな風に思って、僕らは苦難を耐えるわけです。
今回自分の中で、普段苦しいことを耐えようとする時に、
「その先に一体何が待っているんだ」
というコンパスを持ってみてもいいんじゃないのかなと思うようになりました。
この「先」をどれくらい明確化できるのかを試してもいいかもしれません。
ときには軌道修正も必要かもしれませんが。
有川さんのように「美」という抽象的なものを探究するのでもいいんだと思います。
理由や目的がなんであっても、吐き出す、よりも、笑えるを選ぶ方がが僕は好きです。
そして有川さんのご指摘の通り、
人に強いるものではないし、偉くもないし、良し悪しはないということを少し頭の片隅にでも置いておこうと思います。
それこそ、これらを念頭に置いてしまったら「K」のように道を信じる上で、
自分以外の他者を批判や侮蔑で世間を見るか、はたまた積極的に避けるか、
自分の正義を押し通すか、
になってしまいそうだと思うからです。
僕らの先が、何か不安や恐怖などの動機ではなく、自分自身の心からの願いであればいいなと思います。
これは「書くが易し」で、意識していないと普通になってしまいそうです。
なので、今日考えた教訓として少しだけでもいいから頭の片隅に置くことにします。
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