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■【より道‐31】大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの①

日清・日露戦争のことをちゃんと学んだのは、それなりに歳を重ねた大人になってから、ビデオ屋で借りてきたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」をみたときだった。もちろん、学生時代に社会の授業で学んだのだろうけど、若かりし頃の自分は、偏差値38の高校に通うほどの学力だったので勉強に全く興味がなかった。なのでドラマを通じて近代史を知れたことがとても新鮮だったことを覚えている。

「坂の上の雲」は、日露戦争で参謀をつとめた、秋山真之さんの生涯を中心にアジアの小さな国が欧米列強に追いつくために近代国家を目指した奇跡の物語。ドラマのキャスティングがこれまた最高だった。

秋山真之を演じた本木雅弘、正岡子規を演じた香川照之、秋山好古を演じた阿部寛、正岡子規の妹、律を演じた菅野美穂など、名言までもが心に残り、愛媛の方言「だんだん」や「単純明快」「短気は損気」「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」「勝って兜の緒を締めよ」などは、普段、記憶することが苦手な自分でさえも覚えてしまった。久石譲さんの楽曲「Stand Alone for Orchestra」も最高だ。時代を超える壮大さを連想させてくれた。

日清・日露戦争の詳細については、「坂の上の雲」の小説を読んだり、スペシャルドラマを観るのが一番いいと思うけど、ファミリーヒストリーを調べるうちに、叔父さんの人生に関わりがあるかもしれない、陸軍中将・豊島陽蔵さんが登場してきたので、自分なりの視点で、明治の人たちが必死に努力したあの時代の概要をまとめてみようと思う。

【大清帝国の繁栄と衰退】
日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月までの間、日本国と大清帝国の間で行われた戦争です。ロシアの侵攻を恐れる日本と、従属国を失いたくない大清帝国との間で朝鮮半島をめぐる対立が原因ですが、その背景には、どのようなことがあったのでしょう。

何をどこまで遡れば良いか迷いましたが、とりあえず大清帝国について調べることにしてみました。大清帝国は1616年(元和2年)、徳川家康が逝去した年に満州で建国され、1644年(嘉永二十一年)から1912年(明治四十五年)約270年ものあいだ、中国本土やモンゴル高原一帯を支配した王朝です。

1820年(文政三年)の領土最大期には、現在の「中国全土」「モンゴル」「新疆ウィグル」「チベット」「台湾」なども領地で「朝鮮半島」「ベトナム」「タイ」「ミャンマー」「琉球」などは従属国じゅうぞくこくとして朝貢国ちょうこうこくの待遇、いわば、大清帝国の皇帝が豊かな産物を恵んでもらい貢物みつぎものをする代わりに外敵から国を守るという恩恵を得ていたそうです。

そんな、強大な大清帝国が衰退していくわけですが、その背景には人口の爆発的増加、食料問題、自然災害に直面したと言われています。しかし、最大の理由は、1840年に(天保十一年)に勃発したアヘン戦争です。

アヘン戦争の原因は、イギリスがアメリカ独立戦争の戦費を調達するために、これまた、イギリスの植民地、インドでアヘンを収穫して、大清帝国に輸出して銀貨を稼ぐという政策が発端です。

アヘンは、人口が爆発的に増加し食糧難にみまわれている大清帝国の人民に一気に広がりました。その蔓延の様子は、貧しい人だけでなく役人までもが中毒になるほどで、民度の低下がとまらなかったそうです。そこで、1839年(天保十年)にアヘンを厳しく取り締まりますが、それでもしつこく密輸入するイギリスとアヘン戦争が勃発したという経緯です。

1842年(天保十三年)アヘン戦争に惨敗した大清帝国はイギリスと「南京条約」を締結します。内容は、香港島を譲り、上海含む5港の開港とその他もろもろです。その後、イギリスとの「南京条約」に便乗して、アメリカとフランスも大清帝国と同じ5港の開港や通商、居住を認めさせる不平等条約が締結されました。

イギリスはさらに追い打ちをかけます。1857年(安政四年)にイギリスの商船アロー号の乗組員が逮捕されたことを理由に、第二次アヘン戦争を仕掛けました。同時期にフランスも宣教師が殺害されたとして出兵します。イギリスとフランスの連合軍は、圧勝し、1858年(安政五年)、あらたに「天津条約」及び「北京条約」を結びます。

条約の内容は、北京の駐在、九龍きゅうりゅう地区の割譲、天津ら11港の開港、賠償金の支払い、アヘンの輸入を公認させる等、徹底的に弱いものいじめです。更にはロシアまでもが境界線を拡大させるための「アイグン条約」これまた不平等条約を締結しました。具体的には、樺太やウラジオストクなどの外満州がロシアの領地となります。

イギリス、フランス、アメリカ、ロシアに侵略された大清帝国には、もう、チカラがありません。更には、漢族と満族の内戦も起こり四面楚歌、フルボッコです。

ちょうどこの頃に、日本国の浦賀にペリーが来航してきたのです。1853年(嘉永六年)です。隣の大清帝国でこんなことが起こってるのですから、そりゃあ、外国人を排除する思想「攘夷論」が、日本国中に巻き起こるのも無理はありません。ここから明治の先人たちは、必死に近代国家を目指し、欧米列強に対抗するためにチカラを蓄え怒濤の戦争時代に突入していくのです。


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