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■【より道‐63】戦乱の世に至るまでの日本史_南北朝時代への突入

第二次世界大戦中の足利尊氏への評価は、「正統な後継者である後醍醐天皇と対立し、光厳上皇を擁立したことは、反逆行為だ」と糾弾されていたそうです。

その思想は、明治維新のときに「王政復古の大号令」を発して、維新の志士たちの旗頭に利用されて、のちの太平洋戦争の敗戦、つまり「天皇陛下万歳」まで続くことになりました。

なので、ペリーに恫喝された江戸幕末1853年(嘉永六年)から1945年(昭和二十年)まで約100年のあいだ、足利尊氏は、日本の歴史上最悪の将軍と評価されていたそうです。

一方、楠木正成くすのきまさしげの生き様は、太平洋戦争末期まで高く評価されました。ただ、楠木正成のホンネであった戦を避けるための思想や願いは後世に続かなかったのではないかと思います。

むしろ、太平洋戦争末期には、弟の楠木正季まさすえの魂が受け継がれたような気がしています。楠木正季は「湊川の戦」に敗れ、自害するときに以下のように語ったといわれています。

「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」

これは、まるで、太平洋戦争末期に「宮城事件」を起こした、畑中健二少佐の遺書と同じです。

「松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。」

ファミリーヒストリーを通じて、DNAは受け継がれるわけですが、どんな時代を過ごしたご先祖さまでも、現代を生きている自分に「何か」が引き継がれています。

それが、来世への生まれ変わり、七生ということなのであれば、いまでも、その魂を受け継いでいる人が、いるということになります。

それが、「歴史は繰り返される」といわれる所以なのでしょうか。そんなことを、ファミリーヒストリーを通じて思うようになりました。


■不屈の男_後醍醐天皇

九州に逃れていた持明院統じみょういんとう光厳上皇こうごんじょうこうは、足利尊氏に新田義貞にったよしさだ討伐の院宣いんぜんを与えて京の都を占拠しました。そして、光厳上皇は、弟の光明天皇こうみょうてんのうを即位させます。

しかし、後醍醐天皇が退位しないまま、比叡山延暦寺に逃走したため、二人の天皇が存在するようになってしまいました。その後も、両軍勢の争いが続きます。後醍醐天皇の主な勢力は、新田氏と北畠氏等の軍勢です。

足利尊氏は、これ以上、無益な戦が続かないようにと、持明院統の光厳上皇と大覚寺統の先帝(後醍醐天皇)の和睦を提案しました。先帝の面子を保ちながら、新田氏や北畠氏等の軍勢と戦う理由をなくしたわけですね。

すると、先帝は、和睦を了承して、京へ戻ることを決断します。これは、一度相手に屈して、再び立ち上がる時を待つという、考えのもとだったそうです。

その後、先帝は、三種の神器を光明天皇に渡し幽閉されるわけですが、人生で何度目でしょう。再び脱走するわけです。それも、女装をしてまで。まるで、平安時代末期に長谷部信連が、後白河法皇ごしらかわほうおうの皇子以仁王もちひとおうを逃したときのようです。

そして、吉野(現:奈良県)に自ら主宰する「朝廷」を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が存在する南北朝時代がはじまりました。

北朝の足利尊氏は、決して北条氏の二の舞にならない「公武一体」の体制を、南朝の先帝は、日本古来の体制「公家一統」の理念を貫くことになったのです。

吉野に逃れた先帝は、足利討伐を諸国に命じます。さらには、北条氏の残党と手を結び足利軍勢に立ち向かいますが、側近中の側近である北畠顕家きたばたけあきいえ新田義貞にったよしさだは討死しました。それだけ、足利一族は勢力をつけていたということです。

南朝勢が、吉野に逃れた翌年。1339年(暦応二年)先帝、後醍醐天皇は、王政復古の夢破れ息を引き取りました。「朝敵」足利尊氏を討ち、公家一統の世を取り戻せと遺言を残して。


この頃のご先祖様の情報を集めますと、どうも、この辺りから、備後国甲奴こうぬ郡矢野庄上下あたり、のちの戦国期に長谷部元信が城主となる翁山おきなやまあたりで長谷部氏の名がチラホラでてきます。

1336年(元弘三年)の「湊川の戦」で足利尊氏に従属して上下の領地を賜ったとか、南朝に味方をしていた、竹内兼幸かねゆき有福ありふく城(現:上下町)を山内氏と共に攻め落としたとか、そのような、断片的な情報が残っています。

しかし、我が家にある「家系図」にはそのようなことが記載されておらず、どれも、ネット検索や広島県府中市の「上下町史」に残るものです。

しかし、ここで、一つ疑問が生まれるわけです。

1333年(元弘元年)「船上山の戦」で後醍醐天皇に味方した、名和長年なわながとし金持景藤かねもちかげふじと共に立ち上がった長谷部信豊は、討死しています。

このときは、後醍醐天皇派、のちの南朝派ということになります。名和長年は、1336年(元弘三年)足利尊氏が「湊川の戦」の後に京に入ったときに討死していますが、金持氏は、その後も、南朝に仕えたという記録があります。

ということは、上下の長谷部氏は、北朝の足利尊氏側に寝返ったことになりますが、想像力を膨らませると、長谷部信連の末裔が、後醍醐天皇を果たして裏切るだろうかという疑問が出てきます。

なにせ、平安末期に以仁王もちひとおうを逃すために命をかけた一族です。長谷部信豊は、後醍醐天皇のために命を落としているのです。そう簡単に志を変えるだろうかという疑問です。

ただ、能登大屋庄の長氏も、北朝の足利尊氏に呼応して戦い、薩摩や越前などの地で活躍しているようなので、この辺りは、それほど頭を固く考えなくてもいいのかもしれませんがーー。

長谷部信豊は、圧倒的に不利な「船上山の戦」に参戦して討死したのに、名和長年や金持景藤のように、厚遇されたわけではありません。

名和長年は伯耆国守護しゅご職、金持景藤は武者所の職を与えられていますが、討死した長谷部信豊の一族は、恩賞をもらっていたとしても、日野町の隣にある伯耆日野の地の隣、久米郡矢送庄を賜った程度。建武新政権に不満がたまっていてもおかしくないなと思いました。


しかし、ここまでの長谷部一族のファミリーヒストリーでは、以下のような転機があったことになります。ここからどのようにして「尼子の落人」につながっていくのでしょうか。

・第一の転機:「以仁王の挙兵」
・第二の転機:伯耆日野に妻子を残して能登大屋庄への栄転
・第三の転機:「船上山の戦」
・第四の転機:「建武の乱」


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