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■【より道‐30】人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差③

戊辰戦争で悲劇の結末をむかえた白虎隊の「脇差」を昨年亡くなった父の従兄弟・佐藤徹さんが持っていたのはなぜだろうか。それは、原敬さんの一番弟子と呼ばれていた、元広島市長・佐藤信安さんの養子として自分のお祖母ちゃん、貴美子さんの兄、ひろむさんが籍を入れたからだと推測している。

・白虎隊の遺族から第19代首相・原敬さんへ
・第19代首相・原敬さんから第13代広島市長・佐藤信安さんへ
・第13代広島市長・佐藤信安さんから豊島家のDNAを紡ぐ・弘さん、博子さん夫妻へ
・佐藤(岡村)弘さんから息子・佐藤徹さんへ

人の命は潰えてしまうが、刀というカタチに残るモノは遺品として現代にも受け継がれてきた。徳川幕府時代から会津志士たちが守り続けた「もののふ」の意志までもが託されているような気もするが、その真意は語られず刀だけが未来に引き継がれた。



【養父・佐藤信安】
自分の父であるご隠居さまは、晩年の佐藤信安さんと面会をしたことがあるらしく、そのときに昔話を聞かせてもらったそうです。佐藤信安さんは、1874年(明治七年)島根県松江市生まれなので戦国時代の尼子氏や出雲松田氏と故郷が同じです。「ご先祖さまは、尼子の落人」という云い伝えのある我が長谷部家の人間としては何かの繋がりがあるのではないかと思ってみたりもします。

佐藤信安さんの経歴をみると、ご自身で弁護士事務所を開業し、1907年(明治四十年)に検事となり全国各地の裁判所で勤務されています。その後、1913年(大正二年)に熊本県警察部長、翌年の1914年(大正三年)には山口県警察部長に就任し、さらには、福島県内務部長を務めたと記録がありました。

そして、1922年(大正十一年)突然、広島市長に選任されています。原敬さんの死亡時期1921年(大正十年)と佐藤信安さんの就任時期1922年(大正十一年)を比べると、原敬さんの直接的な関与で広島市長になったわけではなさそうです。

原敬さんとは、福島県内務部長を務めたときに知り合ったか、もしくはもっと前からの知り合いだったのか、断片的な情報しかないので想像することしかできませんが、原敬さんの一番弟子と語ってるくらいですから、若いころからのご縁だと思われます。もし、仮に原敬さんから「白虎隊の脇差」を譲り受けたのであれば、それは、それは、ものすごいことになりますが、確証はありません。

しかし、この当時、簡単に市長にはなれないはずです。しかも広島の市長です。関ケ原の屈辱を果たした長州(毛利)が徳川から取戻した故郷安芸・備後の国・広島は、日清戦争の時に明治天皇が移り住み大本営となるほどの場所。明治維新後、軍事基地として発展した、日本の武力を示す街の市長にはそう簡単になれないと思います。

では、どうやって、広島市長になったのでしょうか。明治政府は、経済発展と軍事力強化を目指し、中央集権的な強力な国家体制を整備するため、国内の行政は「内務省」という中央省庁が担当しました。もちろん人事なども決めていたそうです。ということは、福島県の内務部長をしている佐藤信安さんは、内務省で官僚の仕事をしていたことになります。

しかも、各首長は支持政党の見返りによって任命されるケースが多かったようです。そう考えると佐藤信安さんは、伊藤博文さんが立上げて原敬さんが政党拡大した「立憲政友会」に属していたと推測されます。ただ、それだけの情報ではやや弱いと思い、歴代の広島市長をしらべてみると、佐藤信安さんの3代前、1914年(大正三年)1月から4月までのわずか三ヶ月間ですが、豊島陽蔵さんという方が広島市長をしていました。

そうです。ここにきて豊島家がつながりました。お祖母ちゃんの兄、ひろむさんの奥さんである、博子さんのご実家が、豊島氏。この豊島陽蔵さんは日清・日露戦争で活躍した軍人さんで、司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」にも登場するような方です。

当時の内閣をしらべてみると1914年(大正三年)1月時点の内閣は、第一次山本権兵衛内閣。そのときの内務大臣は、予想通り、原敬さんでした。そして、1914年(大正三年)4月には、山本内閣が総辞職すると原敬さんの政敵、大隈重信さんの第二次内閣が組閣されます。その影響で、豊島陽蔵さんは広島市長を辞職したのでしょう。興味深いのは、豊島陽蔵さんが、広島市長に就任する前までの約1年間は、広島市長が不在だったのを原敬さんが、内務大臣の任期途中に豊島陽蔵さんを任命しているのです。ここにもきっと何か理由があるはずです。

では、佐藤信安さんが広島市長に就任した1922年(大正十一年)の内閣はどのような人選だったのでしょう。しらべてみると、広島藩出身の加藤友三郎内閣。加藤総理は薩長以外の軍人で初めて首相となった方で、内務大臣は水野錬太郎大臣。加藤首相も水野大臣も原敬さんの知遇を得て、「立憲政友会」の党員となった方でした。


【陸軍中将・豊島陽蔵】
はてさて、急に登場してきた豊島陽蔵さん。どのような方かしらべてみることにしました。豊島陽蔵さんは、1852年(嘉永五年)広島で生誕したので原敬さんの4歳年上。15歳で明治維新を経験し1875年(明治八年)23歳で陸軍士官学校に入学しています。1877年(明治十年)に見習士官になっているようなので、出兵したかどうかはわかりませんが、西南戦争を経験していることになります。

その後、砲兵隊に所属し1894年(明治二十七年)42歳の時に砲兵大佐として日清戦争に出征。1904年(明治三十七年)52歳の時に、日露戦争に出征し旅順攻囲戦で全砲兵を指揮しました。有名な二〇三高地にいまるさんこうち攻略戦で二十八糎榴弾砲にじゅうはちせんちりゅうだんほうを用い、二〇三高知の山頂から旅順港に停泊している戦艦にむけて大砲を撃ちました。1914年(大正三年)に予備役よびえき、つまり、一般社会で生活する軍隊在籍者になったので、このタイミングで広島市長に選任されたことになります。

他には、1913年(大正二年)に生まれ故郷、広島県広島市東区に「男﨑おとこざき神社」の石鳥居を寄進したそうです。「男﨑神社」は、八幡宮を分霊していたということなので、戦いの神さまの氏子ということになります。豊島陽蔵さんとの関りは、

たまたま、お祖母ちゃんのお兄さんのお嫁さんが豊島家出身で

たまたま、原敬さんが内務大臣のときに豊島陽蔵さんが広島市長になり

たまたま、佐藤信安さんが第13代・広島市長になった

たまたま、佐藤信安さんが豊島家の未来を案じ弘さん夫妻を夫婦養子にした

ただ、それだけです。「白虎隊」の脇差は、武士の魂として日本人の生き方をカタチにして現代も残っています。「朝敵」とされた無念も、列強国に挑んだ軍神も、10死0生の特攻に臨んだ英霊も、腹を切った軍人や卑劣な暗殺に倒れた公人も、本来大切にしたかった武士の志、日本人の生きざまを貫いたのだと思います。

人生は儚く、どのんな人でも最後は死に至ります。それでも「白虎隊」の脇差は時代をこえて残っていく。あの脇差は、未来人にどんなメッセージを残していくのでしょう。

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