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■【より道‐28】人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差①

父の親族関係を紐解いていくと色んな人物が登場するのでいつも頭のなかが混乱してしまう。でも、父の親友でもある従兄弟の徹さんが亡くなったことをきっかけに、ファミリーヒストリーを探究する身となったからには、そうもいってられない。

父の母、自分のお祖母ちゃんには兄と4人の妹、そして弟がいた。残念ながらお祖母ちゃんは、父が1歳のときに中国の張家口で亡くなってしまったが、お祖母ちゃんの兄弟姉妹たちは父のその後の人生を支えてくれた。

今回は、お祖母ちゃんのお兄さん。岡村(佐藤)ひろむさんと、奥さんの博子さん。そして、息子さんであり、父の従兄弟である佐藤徹さんのファミリーヒストリーを整理してみたいと思う。

ただ、自分は生前の徹さんに一度も会ったことがない。父に依頼されて告別式に出席しただけの関係だ。父の話しだと徹さんは他人の噂をするのが嫌いだったらしい。自分の死後、噂をされるのも不快だろうが、長年にわたる父との交友に免じてお許しください。


ファミリーヒストリーのヒントは、徹さんのお母さん、博子さんが雲州益田藩家老、豊島家の出身で、ひろむさんと結婚したあとに夫婦で元広島市長の佐藤信安さんの養子になった。元広島市長の佐藤信安さんは、第19代総理大臣・原敬はらたかしさんの一番弟子だったそうで、昨年亡くなった徹さんが、白虎隊の脇差を遺品として持っていたという。これら、いくつかの逸話から歴史の謎に迫ることにした。


原敬はらたかしと戊辰戦争】
1853年(嘉永六年)にペリーが浦賀に訪れ、港の開港を求められると「日米和親条約」や「日米修好通商条約」などの不平等条約が結ばれました。天皇の子として武士の心をもつ多くの日本国民は心穏やかではありません。「攘夷」を合言葉に、全国各地で異国人の排除活動が盛んになっていきました。

そんななか、武士が政権を握る徳川幕府の世がこのまま続くと、隣国、清国のように欧米列強国に侵略されてしまうと考え行動に移した人たちがいます。それが有名な土佐藩(高知)坂本龍馬。坂本龍馬が仲介者となり、長州藩(山口)の桂小五郎や高杉晋作と薩摩藩(鹿児島)の西郷隆盛らが手を結び、倒幕を目的にした薩長同盟が成立したのです。

坂本龍馬は故郷の地、土佐藩主であり、徳川の家老でもある山内容堂やまうちようどうに「大政奉還」の建白書けんぱくしょ、現代の身近な言葉でいうと上司に対する意見書を提出させることに成功しました。この動きから1867年(慶応三年)徳川15代当主・徳川慶喜は、政権を朝廷に返上することを決断。鎌倉時代から約700年続いた武士が治める世の中が終わりを告げたのでした。

その後、明治天皇は「王政復古の大号令」を発し全国各潘の領土返上を決定したのですが、それでも旧幕府勢力が影響力を持ち続けていました。そこで、武力での倒幕を果たしたい、力を世に示したい新政府薩長が執拗な工作を行います。すると我慢ならない旧幕府軍の強硬派は、薩長の挑発にのってしまい戊辰戦争が開戦してしまうのです。

旧幕府軍の筆頭、会津藩(福島)は、徳川家と一連托生の間柄で「将軍家に忠勤を励むように」という家訓や「武士らしい武士であるために」という心得を藩主や藩士は幼い頃から学び守り続けてきました。幕末には、チカラの弱まった徳川幕府を支えるために、会津藩のお金で新撰組を派遣し京都守護職として尊王攘夷を唱える浪人などをとりしまるほどでした。

しかし、情勢が変わり鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争がはじまると、徳川慶喜は江戸城を無血開城してしまいます。すると薩長が次に目をつけたのが徳川家を支えていた会津藩。仲間たちに対する積年の恨みを果たしたいと考えたわけです。

会津藩は「朝敵」とみなされ、最新の武器を所有する新政府軍に攻めこまれることになります。そこで会津の志士がたちあがるのですが、そのなかには、16歳から17歳で結成された総勢343名の「白虎隊」がいました。「白虎隊」は、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自決の道を選び自らの首に刃物を突き刺して死んでいきます。この悲劇は現代にも語り継がれています。

また、東北地方では奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいという反維新政府同盟を結び、会津藩の「朝敵」に対して赦免嘆願しゃめんたんがん、ようは、罪を許してほしいとお願いをしました。しかし、薩長に拒絶されてしまい新政府軍に対抗する軍事同盟へと変貌していったのです。


原敬はらたかしの宿命】
1856年(安政三年)に盛岡の南部藩家老の孫であり、南部藩士の息子として誕生した原敬は、11歳のときに戊辰戦争を経験しました。

奥羽越列藩同盟・総大将楢山佐渡ならやまさどは、新政府軍との戦いで敗戦し盛岡報恩寺ほうおんじで幽閉されました。楢山家と原家は共に南部藩の家老として藩を支えた間柄だったため、原敬は、楢山佐渡の姿をひと目みようと悲痛な面持ちで足を運んだといわれています。

1869年(明治二年)楢山佐渡は、「賊軍」の汚名を着せられ首をはねられ処刑されます。楢山佐渡は「薩長は官軍にあらず私兵なり」という言葉を唱え、原敬の芯念として残り続けたそうです。

原敬は、家老の孫として豊かな家に育っていましたので、明治維新が起きると大きな影響を受けたました。しかし、生活が苦しくなっても母親は屋敷を売り払ってまで原敬を上京させたそうです。ただ、上京したのはいいのですが、すぐにお金が尽きてしまい、苦学生としての生活がはじまります。そして行きついた先がキリスト教の「カトリック神学校マリン塾」でした。

この時代になぜ、キリスト教に入信したかというのは、いまでも謎のようです。一説には、食事代が無料だったとも、明治維新の挫折から立ち直るために宗教を頼ったとも言われています。真相はわかりませんが、入信後、牧師先生の布教活動についていくことを条件にフランス語を教えてもらったそうです。ただ、この頃から「打倒薩長、徳川回復」と論じていました。

その後、司法省学校の入退学を経て、フランス文翻訳係として政論新聞の記者となります。そこから、様々な政治論文を発表することになり、一目をおかれる存在になったのですが、1882年(明治十五年)26歳で辞表をだすことになってしまいました。これは、政変のあおりを受けたためと言われています。

政変のあおりというのは、大隈重信の突然の解任です。立憲政体、憲法と政治の体制をめぐる対立で伊藤博文や井上馨がクーデターを起こしたとも言われていますが、大隈重信を擁護する若手官僚も同時に辞任しました。すると大隈重信は、原敬が働いている報知新聞を買収したのです。

そして、大隈重信は、報知新聞社へ一緒に辞任した若手官僚を送り込み自派の機関紙にするよう画策したのですが、そのあおりで原敬は冷遇をうけてしまいます。すると原敬は、「政論の違う人間と働く必要はない」と、さっさと見切りをつけて辞表をだしたそうです。

「捨てる神あれば拾う神あり」新聞社を退職すると、大隈重信と対立している井上馨が声をかけてきました。原敬の文名、政論評価は、この頃からかなり高かったらしく、そこから、外務省御用掛を命じられ実に15年間の役人生活を勤めます。

1883年(明治十六年)には清国、天津領事にフランス語のできる外交官として任命されたると、翌年には甲申事変が勃発したので、その後処理をした伊藤博文を支えたそうです。この功績が認められると、外務書記官としてパリ公使館勤務を命じられ、念願のフランスに旅立ちました。

しかし、フランスで充実した日々を送っていた原敬に、またもやあの男が立ちふさがります。1889年(明治二十二年)大隈重信が外務大臣になると、嫌がらせのように日本に呼び戻されたのです。日本に帰国すると井上馨が大臣をしていた農商務省に転じました。しかし、農商務省は薩長が実権を握っていたので、一日中新聞を読むほど、ほとんど仕事がなかったといいます。

現代のサラリーマンのように安定した生活を人質に飼い慣らされた状況に追いやられてしまった原敬の窓際生活を救ったのが、カミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光むつむねみつです。

陸奥は原敬の素質を見抜き、1892年(明治二十五年)第二次伊藤内閣が発足時に、外務大臣の陸奥のもとに原敬を局長として迎え入れ難題といわれていた「日英通商航海条約」の改正に成功させたのです。

その後、日清戦争後の三国干渉問題で陸奥は、心労のため病に倒れてしまい外務大臣を退任するのですが、後任の西園寺外務大臣のときにも事務次官として活躍しました。

1896年(明治二十九年)に第二次松方内閣が発足すると、外務大臣に大隈重信が就任したため、原敬は当然のように辞表をだし大阪毎日新聞に入社して一年後には社長に就任します。社長就任後は様々なアイデアで改革を進め、当時発刊数No1の大阪朝日新聞を打倒とする目標を掲げ部数を伸ばしていきました。

1900年(明治三十三年)伊藤博文と西園寺公望さいおんじきんもちに新政党、「立憲政友会」の立上げに声をかけられると大阪毎日新聞を退職します。

原敬44歳。ここから、伝説と呼ばれる政治家人生がスタートするのでした。


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