人生は素晴らしくなくていい≠クズでもいいということ。
先日読んだ、
完全自殺マニュアルの著者である
鶴見済さんの『人間関係を半分降りる』という本の中で、
人生は素晴らしくないし、人間っていうのはウザい(=醜い)のが当たり前。
だから、適度な距離を取って、いい加減にマジに真面目になり過ぎずに気楽にやっていきましょう的なことが語られていた。
そんな中で、
Twitterで『生きたい理由は何もないけど死にたい理由は山のようにある』といった様なツイートを見かけた。
そう思ってしまう原因は、
人生というのはそもそもおもしろい場所ではないということの他に、
人生に対してへの過剰な期待があるのが原因かもしれない。
人生という場所がおもしろい場所ではないというのは外的要因?で自分でコントロールできないかもしれないけど、
人生への過剰な期待は、自分の考え方•捉え方次第で少しは自分の力でコントロールできるんではないだろうか?
人生はおもんなくて当たり前。生きたい理由などなくて当たり前。そんな世界の中で少しでも良い事を見つけることができればそれは結構ラッキーなことなんじゃないか?人生は素晴らしいはずだという思い込みが人生に対しての期待のハードルを異様なほどに高くしてしまっているのではないだろうか?
おれの人生は素晴らしくあるべきで、
私の人生は絶対に幸せであるべきだ。と。
その人生への期待のハードルの高さと、
実際の今の自分のつまない人生のギャップ分が苦しさとして表れているのではないだろうか?
だったら、人生なんて元々素晴らしいものでもない、つまらなくて汚くて当たり前と、人生に対しての希望のハードルを下げれば少しはラクになるのではないだろうか?
人生•人間は素晴らしくなくおもんないのが当たり前と一見ネガティブな考え方をベースにハードルを下げて下げまくって生きていった方が実は逆に肩の力が抜けた幸せな生き方なのかもしれない。
とはいえ前述の鶴見済さんの本の中で、
「こんな人間とは距離を置くべき」という不幸を呼び込む攻撃的な人間の特徴に自分がかなり当てはまっていて、そんな特徴がある人とはSNSで密接的な関係になってはいけないとのこと。
(確かにTwitter何人かにブロックされているらしく他の人のリプの一部がみれない時があるな汗 結局酒癖悪いもんな汗)
『結局この世の苦痛を生んでたのはわし自身やったんかい!』
となって、
軽く凹んで、まさ(猫)のお腹に顔を埋めました。
まさああああああああああおれの家に来てくれてありがとうな!こっち向いてくれてありがとう!!
私はまさに食べられたい。アンパンマンみたいに。
結局まさが幸せやったらそれでええんや!
ってことで、
人生論を撒き餌にした結局ただの愛猫自慢でした〜。
ざまあwwwwwwwwwwwwwww乙wwwぷー💨クスクスwwwwブー💩🌷💩←まさのウンコwwwwあっwwwまさかわええぇぇえwwwww
到底愛される人間ではない。
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