「ゲシュタルトの祈り」が好きって話
「ゲシュタルト崩壊」という言葉は割と多くの人が知っている言葉だと思う。
同じ言葉などを繰り返し書いていると「あれ?こんな文字だったっけ?」となる よくあるあの現象。
では、「ゲシュタルトの祈り」はどうだろう。
たぶんほとんどの人が全くピンとこない。
それで恐らくこう思う。
「ゲシュタルトって何???」
ゲシュタルト はドイツ語を語源とする「形態」という意味の言葉で、「人間が認識する、全体性のある構造」を指す。
なんのこっちゃ。
【人間は個々の情報を認識するのではなく、近しいものや似ているものをグループ化して、ひとつの集合体として物事を認識する。】
というのが「ゲシュタルトの法則」。
それが「ゲシュタルト心理学」という心理学から広まり今日に至るらしく、
つまり、人間が“近しいものたち”として一括りに認識したグループ というのが「ゲシュタルト(形態)」と言えるのだろうと推察する。
細かいことは分からん。
そのような情報を軽く抑えた上で本題の「ゲシュタルトの祈り」を説明したい。
「ゲシュタルトの祈り」とは、ドイツの精神科医 フレデリック・S・パールズが創設した「ゲシュタルト療法」の思想を盛り込んだ詩である。
ゲシュタルト療法はアドラー心理学を基にしてパールズとその妻によって始められた心理療法で、この心理療法のワークショップ内で創設者のパールズがよくこの詩を提唱していた。
この心理療法においての指針であったり、考え方、スローガンのようなものかな? と私は捉えている。
私にとってこの詩との出会いは、人生の大きなターニングポイントであり、大袈裟かもしれないがこれで救われたという気持ちもある。
そして今も座右の銘、人生の指針とも言えるし
今の私を作る構成要素のひとつだと思っている。
この詩の日本語訳を以下に紹介する。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えるために生きているのではないし、
あなたも私の期待に応えるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし、偶然が私たちを出会わせるならそれは素晴らしいことだ。
また 出会えないとしても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
この詩に私が出会ったのは高校生の時だった。
当時の私はとにかく自分の ダサさ と しょぼさ に打ちのめされていた。
思春期よろしく親子関係やらに悩んでみては、
自分の持つ悩みがなにか特別で 自分を物語の主人公に押し上げてくれる素晴らしい悲劇だと浸っていた。
というより、浸ろうと頑張っていた。
浅い浅い水たまりに、なんとかかんとか浸れないかと奮闘していた。
信じきって浸れていたらまだマシだった。
つまり 私は、
それが本当はすごく陳腐なもので、
自分は特別な何者かではなく、
悲劇の主人公になれるほどの類稀な悩みでもない。
ただ肥大した承認欲求としょぼい現実の間で葛藤している、ありきたりで至極一般的な思春期の姿だ。
というダサすぎる現実にとっくに気づきながら恥ずかしいので必死で目を逸らしていたわけで。
しかしそんな思い出すのもむず痒い 治らないカサブタのような私の高校時代の、唯一功績と言えるのがこの詩を見つけ出したことだ。
この詩を初めて読んだ時、ストンと胸に落ちてきた。自分のダサさと しょぼさをまっすぐに受け入れるきっかけになったと思う。
私はこの詩をこう解釈している。
私は私で、誰とも比べない。
誰の期待にも応えなくていい。
それならば私のダサさもしょぼさも 全く みじめなものではない。
そんな私が私のままで偶然得られるもの、偶然得られなかったもの。
偶然通じ合えた人、偶然通じ合えなかった人。
そのどちらの偶然も等しく素晴らしい私の真実だ。
おかげで私は自分のダサさ と しょぼさ、
恥ずかしい自意識を まっすぐ見つめた上で、
多少背中をムズムズさせながらも「まあそんなもんかな」と思えている。
「ダサくてしょぼいけど 出来ればカッコつけたい凡人」という なんとも据わりの悪いステータスで
まぁでも結構楽しんで生きる。 という為の
指標であり、モットーであり、思春期から今までの私を支え形作った基礎とも言える。
思春期時代の恥部と、青臭くも誇らしい思考の山。
私にとってその象徴が「ゲシュタルトの祈り」であり、使い古したタオルケットのような愛着がある。
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