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変態的性癖愛者(ふぇちらー)

 人生というものはいたずらに日々を繰り返すだけのものなのだ、ということに気づいた時にはある程度のあきらめはついていた。
 今朝は非日常的といえるほどに最悪だった。人身事故、というか飛び込み自殺が目の前で起こったのだ。
 さらに悪いことに飛び込む寸前ホームドアによじのぼったそいつは、俺のほうを見て素敵に微笑みやがった。決して俺の知り合いなんかでもないのに。きっとたまたま俺と目があっちまって、最後だし微笑んでおこうくらいの気持ちだったんだろうけれど、こちらとしては胸糞が悪い。
 なんだって、他人の最期の微笑みを俺が受け取らなくてはならないんだ。

 そんでもって後片付けのために電車は遅延。晴れて一時間目には間に合わなかった。

 そして不幸は連鎖する。朝っぱらから嫌なもん見ちまったとか思いながら登校すれば、授業の終わりに入って来たことにより、望みもしないのに特別丁寧なチェックをうけることとなった。体育教師のそのあたりの意味のわからないノリが俺は嫌いである。気に入っていたピアスはばれて、両耳セット販売とはいえ千円以上したそれをいとも容易く没収された。
 随分前にぶっ倒れて切った頭は未だに痛みを訴え続けているし、携帯電話はいたずらにメールを受信しつづけている。どこかの掲示板にアドレスを晒されたのだろうか。なんにせよ、早く変更するにこしたことはない。
 最悪な日への憂鬱感に頭を抱えながらいつも通りの電車に乗って、長い長い岐路につく。もっと近い学校にすればよかった、とため息をつきながら。
 もちろん、引き続き嫌なことは起こった。電車内ではオーエルのヒールが足につきささるし、すぐそばのおばさんは暴力的に鼻を劈く匂いを撒き散らす。車内が空いてきてホッとしたとたん、右隣のおっさんの頭が落ちて、油でテカッたそれが俺の肩を枕代わりに寝息をたてる。

 なんだか何もかもが辛い。

 それでもこれで今日は終わり、と自分を奮い立たせてアナウンスと共にホームへ降り立った。 
 電車は扉を閉めると同時に、乱暴に風を押しながら去っていく。
 ふと目に入った安全ピンだらけのスカートが電車の通っている間中弄ばれるように舞い上がっていた。そうして除いた細い足は、いともたやすく折れそうで。どこまでも白く、無地のキャンバスに不健康に不規則に浮かび上がる黒や紫の斑点模様に呼吸と意識をとられる。ひどく不釣り合いでひどく暴力的なはずのそれが、なんだか綺麗に思えて。

 思わず零れた吐息は、白い靄となって彼女との間に境界線を作る。その靄が消えたら彼女も消えてしまっているのではないか、という焦燥から手を伸ばしかけ――、あ、と思った時にはすでにくるり、と振り返ってこちらに微笑んだ。
 見とれた先の艶やかな唇は何かしらの単語を作りながら意思と共に動いている。その意味もわからずに口を開けたまま見つめ続けていると、細すぎて人間味のない足をたどたどしく動かしながら不満げに眉をよせて近づいてきた。使い古したローファーが地面を叩く音を想像して脳内に幾度も反芻する。一歩、また一歩と近づいてくるたびに何故か胸がざわついた。その間にも電車は通り過ぎ、気がつけば手を伸ばせば触れられそうな程に近くにきている。

 知り合いかもしれない。ようやくそう思ったのは、久しぶり、と言われた時だった。
 久しぶり。そう返えそうとして喉に言葉がつっかえる。おかしい。ただそう思った。
「あれれ? しかとー?」
 唇を大げさに尖らせて、不服だとばかりに眉間に寄せた皺を深くする。
「ちょっと? 忘れたの?」
「ごめん」
 腰に手を当て、まるで演劇でもするかのように体を前に倒して人差し指をこちらに突き出す。その仕草には見覚えしかないのに、何故か彼女と共有したであろう思い出は何一つとして出てこなかった。まるで脳内に規制でもかけられてしまっているかのようだ。
「ま、いいよ。そのうち思い出すだろうしさ」
 からからと笑い続ける彼女を前に何も言えなくて、どうしようもなく苦しくなった。どうしてだろうか、胸を強く掴まれるような。そんな嫌な気持ち。

 大げさに手をだしてわざとらしく肩をすくめてみせた後に、所々鈍色に光るスカートを翻しながら背を向けられた。どうしたのだろうか、とか考える隙もなくスキップでもしてるみたいに軽い足取りでどんどん去っていってしまう。

「あ、おい」

 引き留めるように自然と漏れた言葉が彼女の足を縫い止めてくれたようだ。ぴたりと止まったのちにこちらへ向いた。その際に少しばかり乱れたであろう髪が彼女の目をすだれのように隠している。
 煩わしい、その感情を少しも表わさずに、白魚のような色の華奢で長い指がまるで舞踊の扇子使いのようになめらかに髪をかきあげる。濡羽烏のように深く光沢のあるそれは、優雅に宙を泳いだ。

 その姿に何故か動きを止められてしまい、何も言えなくなる。前にも見たことがあるような――。そんな不思議な気分のまま口を半開きにしていれば、彼女はまたくすりと口だけで笑う。
「ほら、座ろうよ」

 邪気なんかどこにも見あたらない笑顔と一緒にすとん、とプラットホームとプラットホームのちょうど間に設置されたベンチへと腰を下ろした。ああ、そういうことかなんてどこかほっとしながらも、少しだけ間を開けて無機質に青いベンチに座る。ほんのりと香ったそのにおいにほんの少しの懐かしさを覚える。

「ふむむむむ、そうかそうか君は、そうかそうか」

 すらりとした自身の顎に手を添え、考えていることで有名な彫刻のようなポーズを気取って、険しいような顔をつくる。
 馬鹿みたいに幼くみえる所作は初めて見たはずなのに、やけに懐かしく感じた。

「なあ、俺とお前ってどんな関係だったの?」
 言わされるかのように口からついて出た質問に、彼女は手に顎を載せるのをやめ、インコが首をかしげて見つめてくるそれと同じように口を半開きにしてこちらを凝視した。

 射るような鋭さと鉛のような重たさを持つ目は、俺の素肌に鳥肌を立たせるのには十分すぎる。

「聞いちゃうの?」
 どこか責めるような。覚えていないことを咎めるような。質問に対する質問は何故か胸を深くえぐった。右耳に開け放ったピアスの穴をつめ先で弄びながらその痛みに耐えようとしたけれどこんなもので紛らわすことなど無理だった。

 どうして忘れているの?
 どうして忘れていることを恥じないの?
 どうして思い出そうとしないの?
 どうして思い出さないの?
 どうして? 
 どうして?

 吸い込まれそうなほど黒い大きな瞳が、俺の目へとひたすらに訴えかける。それは音のない責め苦で。

 逃げたくなるようなその視線に、一度目をそらしかけたけれどそれでも我慢をする。すうっと一つ息を吸って、あくまで強いまなざしで彼女を見つめれば、気まずそうにしたのは相手だった。
「俺は、知りたい」

 緊張と一緒に告げてやれば、彼女はあきらめたかのように笑った。

「今から話すのは、ほんの少し前の出来事です」

 朝、登校すれば、机に切り刻まれたハムスターの死体が入っていました。単価五百円の生物です。ワンコインで買える命は、きっと私の命より価値がないのでしょう。
 昼、鞄を開ければ、コンビニで買ってきたパンは姿を消していました。単価百円とちょっとの食べ物です。百五円で買えるパンなのに、きっと犯人はお金がないのでしょう。
 夜、家に帰れば、ちょうど出かける母と中学の頃の担任の先生に出会いました。単価のわからない体です。日雇いで六万程度だったとは思います。それなりに効率のいいお仕事なのでしょう。

 どれもこれもが頭を不幸という言葉で支配するには十分すぎる待遇でした。

 学校へ行けば、悪意だらけの干渉が待っていますし、家に帰れば香水と煙草と酒の匂いの染みついた母がいます。

 それでも、私は幸せだったのです。

 学校の人たちが敵になろうとも、先輩だけは私の味方でした。

 先輩と知り合ったのは入学式の日です。彼は昇降口で委員会の勧誘をしていました。生徒会副会長。それが彼の肩書です。
 足を痛めたとかで今ではやめてしまったけれど、昔はバスケットボールをやっていたのだそうです。そのおかげかどうか、彼の背はとんでもなく高いのです。
  百八十の後半はあろうか、という彼は誰よりも目立っていました。そうして、誰よりも優しそうに見えました。そのうえ、見上げなければならないほど高い位置にある顔は大変整っていました。
 その日知り合った、当時友達だった子と歩いて通り過ぎようとした私に声をかけてくれて。そこからゆっくりと仲良くなっていったのです。

 私だって、見た目は普通です。黒いタイツを年間通して履き続けていましたので、そのことについて不審がられ他ことはあるとは思いますが、何か直接言われたことはりません。特別かわいいと言われたことなどありませんが、格段に不細工だと目の前で言われたこともありませんでした。裏の事情は知りませんけれども。

 そんな私に先輩は一目ぼれしたと言ってくれました。

 そのことは私をひどく舞い上がらせ、そうしてバカバカしいくらいにピンク色に染まった脳内は正常な判断を失ってしまいました。恋愛は気の迷いでしょ? なんて誰かの言葉が頭をよぎったのは大分あとのことでした。
 私をめぐる環境はそのあたりから狂いだしたのだと思います。
 保育園も小学校も中学校も。些細な喧嘩を起こすことはそりゃあ確かにありましたが、差別されることなんてありませんでした。
 家に帰れば家事が待っています。母が帰れば苦痛が待っています。ですから、平和な学校が、友達のいる学校が、好きで好きでたまりませんでした。それは高校に入ってからも同じようにつづいていくものだと思っていたのです。私が楽でいられる場所、誰にも傷に触れられずにすむ逃げ場。誰も私の現状を救ってはくれないけれど、ゆっくりと浸かっていたくなるぬるま湯のような環境。

 ある日学校へ行くと、知らない女の先輩に呼び出されました。先輩のうち一人が大げさに泣いていました。
 涙で化粧が落ちてしまったのでしょう。どろりと黒い涙を流して、見せつけるように目の前で泣いていました。
 そんな人をかばうようにして、仲が良いという残りの五人が私をかわるがわるに責めました。先輩と別れなさい。いつまでたっても的を射ることもなく、ひたすら罵倒を繰り返すだけだった彼女達の言い分は要約してしまえばひどく簡単なものでした。二時間使ってたったそれだけのことを伝えるためのお話し合いだったのです。
 その日は、私を心配するかのように新しくできた友達が教室に戻った私を慰めてくれました。
 私は、泣きませんでした。

 次の日も同じことがおこりました。どうしてまだ別れていないのか、と二時間使って同じように問い詰めてきたのですが今度は人が少し増えていました。昨日泣いていた先輩は、その日は泣いていませんでした。
 教室に戻った私を慰めてくれる友達が一人減っていました。
 私は、泣きませんでした。

 その次の日ももちろん同じイベントの発生です。律義にも日に日に敵が増えていくのです。それでも学年も違いますし、卒業さえしてくれれば楽になるからいいかな、と思っていました。一昨日泣いていた先輩は薄らと笑っていました。
 教室に戻った私を慰めてくれる友達がまた一人減っていました。
 そんなことの繰り返しを続けていると、気づけば私には友達がいなくなっていて、敵はまるで繁殖でもしているかのように人が増えて、すっかり多くなっていました。
 彼女達は自分は善だと根拠のない自信にあふれきっているだけではなく、私がとんでもなく軽い人間だと思っていたようです。流石に百人切りを達成した。なんて噂があると責められたときには思いっきり笑ってしまいました。私の家にだって鏡くらいあります。そんなことができるような容姿を持っていないことぐらい自覚はあるのです。
 悪いことだけが続く無限ループ。それでも学校に来ていたのは、家に帰れば母がいたせいでしょうか。いえ、それだけではありません。先輩のおかげです。

 先輩はいつもいつも私を支えてくれました。

 ノートをカッターでずたずたに裂かれた時も、机の中にミンチにされたひよこが入っていた時も、ジャージをペンキで素敵にびふぉーあふたーされてしまった時も、私の靴がなくなっていた時も、掃除用具入れに閉じ込められた時も、集会中にパンツをおろされた時も、スクール水着をネットに売りにだされていた時も、永遠と呪いの言葉が続くお手紙をいただいた時も、いつもいつも、どんな時も、引くこともなく、笑顔で、私を受け入れ続けてくれました。

 だから、私は泣きませんでした。

 恋と愛の違いは心の位置にあって、恋は下心、愛は真心。ということらしいのですが、私が彼に抱いていたのはきっと恋のほうです。下心でいっぱいの恋なのです。彼のそばなら大丈夫。彼なら私をずっと支えていてくれる。彼だけは私を私たらしめてくれる。彼だけは、彼ならば、彼だから、そんな下心でいっぱいでした。その一方で彼は真心で私に接してくれたのです。本当に本当に愛でるように大事にしてくれました。

 私は深く愛されていた、そんな風に思っていたのです。

 いつしか、彼の愛が重荷になりだしました。恋心しか抱いていなかったものですから、同じだけの愛を返そうと思ってもどうしたらいいかわからなかったのです。

 だから、ありったけの信頼を示すことにしました。

 君は強いね。もう泣いちゃいなよ。困ったように笑いながら頭を撫でてくれる彼なら大丈夫だと思ったのです。

 からすがうんざりするほど啼き続けていたある日の帰り道に、全てを打ち明けました。水を吸って重くなったローファーに心地の悪さを感じつつ歩きながら。

 母の仕事は世間的には冷ややかに見られてしまうこと。父は物心ついた頃にはいなかったこと。たまに母の仕事を代わりにやらされること。人によっては暴力をふるうだけで満足してしまう人もいること。首を絞めるのが好きな常連さんもいて、その人がとっても嫌いなこと。私の体中傷だらけで痣だらけなこと。
 珍しく感情が高ぶってしまったせいか、発情期の雌猿が書いた恋愛小説並みにヒステリズムに、物悲しく悲哀に、なるべく犠牲者であることを強調して。自分の境遇が可哀そうであるという思いこみに酔いしれながら。いつも別れる駅の改札の前で立ち尽くして話し続けていたのです。
 気づいた頃には空は墨汁をぶちまけたみたいに真っ暗になっていて、あれほど煩わしく感じていた烏は、一羽として何も言いませんでした。

 ふうっと、一息吐いた彼女は笑顔のままこちらを見て、それからまた悲しそうな顔をした。
 何か言わなくては、そう思ったけれど口からついてでるのは意味なんかない単語だけ。生まれたばかりの赤ん坊だってそのくらいはしゃべることができる。
 ただただ懸命に言葉を探っていた俺のことを鼻で笑って、それから、それまでの大人びた口調をがらりと急変させた。

「んー、退屈してなあい? 大丈夫?」

 無理をしているであろうことが痛いほど伝わってくるというのに何もかける言葉が見つからない。そのことすらただただつらくて口を少しだけ開けながら彼女を凝視してしまう。

「聞き流すなら聞き流していいんだよ? だって君すでに知ってることだし」
 彼女の話すトーンは不釣り合いに明るい。そのことだけが唯一の救いとなっているのかもしれない。けれど、その前の問題として、俺は何も知らない。

 彼女が酷い目に遭ったなんて話も、そもそも彼女自体も。井伊奈子なんて女の子、いくら思い出そうとしても思い出せないのだ。でも、こんな重い話をした相手を間違えてしまうほど彼女はたくさんの人に語っているのだろうか。いや、それもない。

 だって、彼女自信も言っていたじゃないか。信頼の気持を示す意味もこめて話したと、先輩だから話したと。けれど彼女と付き合っていた覚えなんか少しもない。
 本当にごめん。掠れてしまいそうなほど小さな謝罪ははたして届いたのだろうか。
「聞いた記憶なんてどこにもないんだ」
 右手で強く頭を掴みながら答えれば、彼女はまた悲しそうに笑った。
 やはり、何かがおかしい。
 こんなに強烈な話を忘れてしまうはずがない。
 たとえば授業中の先生のちょっとした不幸話。ひっくり返ったゴキブリを発見したと思ってつぶしたら大事に買っていたカブトムシでした。だなんて軽い落ちのつく話であれば以外とあっさり忘れてしまう。

 けれど。

「おかしい」

 思わずつぶやいた俺に、今度は同情するかのように薄っぺらく笑った。

 視線を反らしたくて下を見れば、安全ピンだらけのスカートが目に入る。そこから伸びた細い足には、青や黒や紫の不規則な斑点が相変わらず存在していた。そうして、それが彼女の話は嘘ではないことを如実に物語っているようで、そのまま見続けることはつらかった。
 仕方がないので気まずいことは承知の上で視線を上へと戻すと、相変わらずの薄っぺらい笑顔がそこにあった。

「気になる?」
「何が?」
「安全ピン」

 ちょこん、と右手で無数の安全ピンのうち一つを摘みあげて見せてくれれば、当然のごとく布がついてくるわけで。そこで、安全ピンがただの飾りでないことを知った。

「あのね、破かれちゃったスカートを見て、これで止めなさいってくれたんだよ」

 その日も泣きませんでした。

 辛くって、苦しくってたまらなかったけれど泣きませんでした。
 一度泣けばそれはもう二度と止まることがなくなるでしょう。幼いころから涙腺にダムを作ってせき止めてきているのです。壊したところで一体何年分あふれ出るというのでしょうか。小さな部屋だったら自分の涙で溺れ死ぬことが可能なほどでしょうか。
 自分自身の想像に窒息しそうになりながらも体育から更衣室へと戻れば、久しぶりに眩暈がしました。

 私のスカートが、裂かれていたのです。

 冷たい視線を背に感じながらも、ため息と一緒にそれを持ち上げれば案外履いても平気そうなことがわかりました。
 犯人達にも良心はあったのでしょうか、裂かれていたのはスカートの中でも下のほうを少しだけ。それも体の側面を一か所です。チャイナ服のスリットのように一筋裂け目がはいっているだけでした。
 ああ、よかった。だなんて、今からしてみれば感覚が少し麻痺しているようなことを思いながらそれを履いて、その後も授業をこなして、先輩と話しながら岐路につきました。
 正直、その頃にはスカートのことなんて忘れていたのです。
 破いたことで達成感を得たのか、その日は彼女らが私のところに来ることはありませんでしたし、何より先輩がスカートについて何も聞いてこなかったのです。私から言うようなことでもありません。普通のカップルのようにファーストフード店で会話を楽しみ、普通のカップルのように惜しみつつも別れ、電車に乗り、そこで男の子に指摘されて初めて気がつきました。
「あの、スカートが見てはいけない感じになってるんですけど」
 これ、使いませんか? 
 遠慮がちに差し出された手には控えめに光沢を放つ安全ピンが数個乗せられていました。
 その時になってようやく私の中に羞恥心が生まれ、おずおずとそれらを受け取ると彼はさらに席を譲ってくれました。
「立ったままじゃつけにくいだ、ですよね?」
 使い慣れない敬語が恥ずかしいのか、顔を反らしながらも無理やりはにかんだその顔はどこか幼く、そうして格好よく見えました。紺に近いブレザーに赤いネクタイをだらしなく申し訳程度につけているところからすると、高校生でしょうか。幼い顔。というよりは少女らしさを感じてしまいそうなその横顔の両側面はほんのりと紅くなっていました。
 幾度かお礼を言いながら、自分で安全ピンをつけ始めて……そうして一つの疑問にいきつきました。

「ねえ、どうして安全ピンなんか持ってたの?」
 自身の手、あるいは吊革を眺めていたその人は一瞬だけ驚いていたかのような表情を露にして、それから気まずそうに視線を漂わせてから私へと戻しました。すぅっと息を吸ったかと思えば数秒止めて。そうしてようやく照れくさそうに頭を掻いて言いました。
「耳に穴開けようと思って」
 これから、薬局で消毒液も買って家で開けるんだ。そう続けた彼に私は思わず呆れてしまいました。

 常識的な子だと思ったんだけどな。なんて勝手な失望でいっぱいです。

 鼻で盛大に笑ってやってから自分のスカートをつまみあげ、右と左とを安全ピンを使ってつなぎ合わせました。
「え、今なんで鼻で笑われたんですか」
「安全ピンなんかじゃなくて、ピアッサーを使ったほうが正確だよ?」
 指の腹でぐっと押してやれば、尖った先端がむき出しになります。鈍い光沢を放つそれが耳たぶを貫くのを想像して、背中を虫が這うような感覚に襲われました。ピアスを開けることだって怖いのに、そんなもので穴をつくるだなんてとんでもない。
「あ、いや、ピアスの穴作りたいわけじゃないんですよ」
 意味のわからない発言に、五本目の安全ピンから針を出していた指は自然と止まりました。ゆっくりと顔をあげてみれば、澄み切った瞳が猫の爪のように孤を描いていて。思わず耳を疑ったのです。
「耳に穴あけたら痛くて気持ちいいだろうなって」
 幼い少年がヒーローへの憧れを口にするように。幼い少女が魔法を使うことを夢見るように。彼の顔にも声色にも、どこにも不誠実差は見当たらず、あまりにも純粋なそれにただただ圧倒されてしまいました。

「あ、でも、別に瞬間的な痛みのためだけに金を払ったわけじゃないから。開けたばっかの穴に、耳たぶのサイズにあってないピアスを早速つけてさ、通気性やらなんやら無視して膿んだら、そのあとも継続的に気持よさが味わえるし、開けたばっかの穴にピアス刺しといてさ、指でちょっと弄ってやるだけでいつでも気持いい。そう考えたら、なんだピアスって素晴らしいじゃんって思って」

 だから、穴開けるついでにピアスもつけるんです。

 期待に胸を膨らませているであろうことをありありと表情に浮かべて、彼は語りきりました。弁解のつもりであろう言葉達は私含めた他の乗客を凍りつかせるには十分でしたし、幼子のように純粋な希望は、あまりにも狂気に満ち溢れていて。幼稚園児にサンタクロースの正体を打ち明けるのと同じように、彼が他人から見たら狂っているということを告げることは許されそうにありませんでした。
 どうしたものか、と悩みながらも彼を見ていることができなくなって。とりあえず御好意に甘えるということで、最後に七本目の安全ピンをスカートに止め終えた頃、彼はこらえきれなくなってかのように忍び笑いを漏らしていました。
 今度は彼自身、自分がおかしいという自覚があったのでしょう。口元を骨ばった右手で押さえながら私のほうを見て、恥ずかしそうに目を伏せつつも笑い続けているのです。
 さて、どうしたものかと思いながらも、恩人だというのに思わず冷ややかな視線を送ってしまった私に気づいて、彼は即座に真面目な顔になりました。
 ああ、よかった。とため息をついた私に、彼は両手を合わせて軽く謝りました。こういうところは普通の人だというのに。

「ごめん、なんかさ、安全ピンのこと考えてたらおかしくなっちゃって」
「どういうこと?」
 狂った脳みそは一体どんな面白いことを考えたのか。ほんの少しの好奇心から聞いてみれば、彼は口角をあげて、楽しそうに話しだすのです。
「安全ピンって名前からして堂々と安全性を歌っているけど、本当に安全なわけじゃねえじゃん。ってさ」
 よく見ると彼が頭を掻くためにあげた手首には、無数の線が走っていました。細いもの、太いもの、短いもの、長いもの、浅いもの、深いもの。ブレザーからのぞくわずかな隙間に隠されることもなく堂々と出ているそれは、私が一年中長袖を着て隠しているそれとまったくのおそろいだったのです。

「だって、あの簡単な金具からちょっと針の先端を出してやれば途端に凶器に早変わりするんだ。指だろうが目だろうが、それこそ耳たぶだろうが、刺したら血がでるし、痛みだって走る。使い方次第で簡単に安全でなくなってしまうもののことを、こう易々と安全だなんて称されちゃうと、本当に安全なものがあるのかどうか疑いたくもなるね。俺みたいに痛みのために購入する人もいれば、君みたいに応急処置のために使う人もいる。無数の用途全てにおいて安全だと言いきれた時こそ、安全なピンだと宣言できると思うんだけど。違う?」

 ううん、違わない。

 安全ピンをおずおずと差し出した彼の面影はどこへやら。歌いあげるようになめらかに饒舌に語った彼の目はうっとりとしていました。もちろんそこにはどす黒さなんてない。前述したとおり、そこには子供が夢を見ているときと同じように輝いた瞳しかないのです。

「ってことは、新しく駅に導入されはじめてるホームドアとか本当に安全なの? あんなの乗り越えちゃえばいくらでもホームに落ちることは可能だよね。ああ、そう考えると、世界には堂々と安全を歌っていることが滑稽に思えるものが蔓延っているんだね。ああ、おかしいね、世界」
 ちょうどそのとき電車の中に響いたアナウンスはいつも降りる駅を告げました。もう降りなきゃ。彼がそうつぶやくのを聞いて、そこでようやく彼と私の降りる駅が一緒であることに気がついたのです。

 電車の扉が開いて一緒にホームに降りたときには、彼は初め出会ったときの常識を持ち合わせた普通の人のようになりました。それはきっと、安全ピンの針を収納するのと同じことなのでしょう。彼の自分では気づいていなさそうな狂気的な部分は、ちょっと押してやるだけで常識人の鞘に収まってなりをひそめるのでしょう。
 そのときの私には、彼に対する興味が家に帰るという憂鬱感をとうに上回っていたのです。それと同時に、先日先輩に話したことがちょっとした踏み台になっていたのでしょうか、この人に話してみようと思ったのです。私を取り巻く痛みだらけの環境を。

 すうっと息を吐いて彼女は伏し目がちだった瞳をこちらへ向けたかと思うと、口角をあげてさみしそうにほほ笑んだ。
「ねえ、君は今話した二人の人のうちのどちらかだよ?」
 話を聞いている間中痛み始めていた頭が、よりいっそう激しさをました。
「俺は、そんな変人じゃない」
「ふうん、じゃあ先輩?」
 痛みのあまりに嘔吐物がのど元まで上がってきてしまっている。
「でも、俺はそんな格好よくない」
「ふうん、じゃあ変人?」
 視界には、ノイズがかかるように白が広がり始めた。
「大体会った覚えすらない」
「ふうん」
 耳鳴りが頭を貫き続ける。
「じゃあさ」
 ねっとりとした、そう表現したくなるくらいにゆっくりと唇を開いた彼女の顔が接近してくる。

 思わず後ろにそれようとして、背中がベンチに強く押し付けられる。彼女の白魚のように細い腕が俺の胸にそえられて、そのまま体重全てがあずけられた。重たいとか、軽いだとか、そんなことを考えるすきを与えてくれることもないまま、じょじょに距離は近づいていって……。彼女の吐息が鼻にかかるようになったころ、ようやく動きがとまった。
 あごをひいたまま、間近に存在する彼女の瞳をとらえようとしたけれどなかなかできなかった。一瞬だけ見えたけれど、それすらもままならない。

「ねえ、君はだあれ?」
 いつの間にか止まっていた電車が、人をおろすことなく走り去っていった。

 その日から、彼が私を支えてくれました。

 もちろん私は先輩を恋していましたし、彼はただのお友達というやつです。

 先輩と別れた後に彼と電車で会って、その日一日の痛みを話し、彼がそれをうらやましがる。なんとも不思議な関係でした。
 下手に同情心を浴びせてくるクラスメイトなんかよりも、彼の心底羨ましそうに痛みを欲するその姿勢は何故か私を強く勇気づけるのです。
 彼の痛みは知りません。というより、彼は自分が自分に与えた物理的な痛みについてしか話しませんでしたし、後から聞いたところ、彼が人に痛みについて打ち明けたのは私が初めてだったというのです。
 どうせ電車の中で顔をあわせるだけの。同じ土地に住みつつも一度も顔を会わせなかった近いようで遠い他人。
 赤の他人というのは何と気を楽にしてくれるのでしょう。
 下心なしに真心から信用できる関係。相手のために自分の痛みをさらけだし、相手のために自分の痛々しさを提供する。真心と真心の通い合いが成立していた私たちは、まさに愛しあっていたといえるのでしょう。
 もちろん、私は先輩には彼のことなど一言も話しませんでした。

 先輩に愛されたい。

彼にとって有用性のある、一緒にいてメリットのある、彼自身が望むそんな人に。それが当時の私の理想でしたし、そのためには幾重にも仮面をかぶるのも辞さない覚悟でした。
 そういった下心から慕っていた私が持ち合わせていたのは紛れもない恋心で、そんな気持ちしかない私には全てを包み隠さずさらけ出す勇気など全くわいてこないのでした。

 なかなか不登校にならない私にいらついていたのでしょうか。私への敵意は日に日に強くなってゆきますし、私のスカートは日に日に安全ピンが増えていきました。

 中途半端に保障された安全だらけのスカートが私の痛みだらけの足を隠している。そのことがどうしてかおかしくて、そのうちに彼と私は痛みを追及していくようになりました。

 お互いの左手はもう刃が入らないほど歪に固くなっていましたから、次に肩を切りつけることにしました。
 家の近くのカラオケボックスである日は軽快な音楽をバックに。またある日は鬱蒼とした音楽をバックに。
 私は肉体的な痛みによって、精神的な苦痛から逃れるためという意味もありました。彼は知りません。
 そのうちに、先輩といる時間が次第に減っていきました。
 そのうちに、先輩と電話している時間が次第に減っていきました。
 そのうちに、先輩への依存がなくなっていきました。
 それは、下心でしか彼を慕えないことを嘆いていた私からすれば、大変喜ばしいことでした。
 これで先輩を解放することができる。
 これで、自分のことを一度置いておいて先輩のことだけを思って慕うことができる。真心から慕うことができる。
 そうした喜びにあふれていたころ、私は余計なことを聞きました。

 その日は気づくと電車のホームに突っ立っていたのです。

 先輩に先に帰ると告げることもしないまま、夢か現か区別もつかないままふらふらと定位置に座りました。

 今日一日の出来事が夢であったらいいのに。そう願わずにはいられないほどに私には大変致命的で。あまりのショックからいつもの彼に声をかけられるまで、その存在に気づくことができないでいたのでした。

「何、今日はそんなにひどかったの?」

 いつもなら恍惚と聞いてくる彼が、珍しく常識的に心配げに聞くものだから、久しぶりに涙が頬を伝いました。生温かい滴がするりと滑って、安全ピンだらけのスカートで破裂して染みを広げます。
「――った」

 久しぶりに口を開いたせいで言葉がうまく出てきません。
 なあに? と優しげに彼は私の顔を覗き込むと、また次の滴が落ちていくのです。

「先輩のせいだった……っ!」
 気づけば次がいつもの駅という時になって、ようやく全てを話し終えました。

 言葉にすればたった一言。あまりにも簡潔にすんでしまうものだったのですが、私の頭があまりにも混沌としていたせいで、余計な経緯まで話してしまい、また、嗚咽混じりに話すものだから余計に時間がかかってしまったのです。

 一切合財すっきりばっさり切り落とせば、今までのいじめは先輩が全部手をまわしていたというのです。

「意味がわからない」
 話を聞き終えた彼は、盛大に鼻で笑ったあと、そう答えました。
「ああ、意味がわからない」
 スカートの上で真っ白になるほど拳を握りしめていると、骨ばった彼の手が私の頭を犬でも撫でるかのように優しく、ゆっくりと撫で続けます。
「どうして、いじめたくなるほど嫌いな人間を彼女にするんだ? それとも不登校にして自然消滅でも狙ったのか? でも今まで聞いてた話からすると先輩は絶対にお前のことを好きだろうし、そうでなかったら相当演技がうまい人間だ。それか俺が聞いてきたものの大多数が妄想だらけになる」

 ああ、意味がわからない。
 もう一度そういうと彼はすっかり黙り込んでしまいました。
 私だって意味がわかりません。確かに彼は私に何度も愛してると言ってくれましたし、傷だらけの私を全て知ったときだって、その傷が愛おしいとすら言ってくれました。私の青あざだらけの膝を綺麗と言い、線でいっぱいの左手首を羨ましいと言い、私の全てを受け入れていると、何度も何度も言いました。辛いことがあれば泣いてもいいと言ってくれて、依存してくれても構わないと言いました。世界中が敵だとしても傍にくればいい、そんな君でも愛し続ける。と囁きました。

 陳腐でチープで嘘みたいに幸せな言葉を饒舌に吐き続けた彼が、私のことを憎んでいるのなら、私は、私は。

 下心だけの恋心は、未だに真心だけの愛に代わってなんかいなかったのでしょうか。
 彼に嫌われていると思った途端、彼と、彼の暮らす世界が偽りしかなかったように思えてきて、孤独への恐怖心が急速に私の精神を蝕みはじめます。

 いつも通りの終点のアナウンスと一緒に、霞む視界の中彼に支えられながらホームに降りれば何故か先輩がベンチに座っている気がしました。
 幻覚を見るほど好きだったのか、とため息を吐こうとした矢先、支えてくれていた彼が吹っ飛びました。そこでようやく意識がはっきりしたのです。
「あ、先輩」
 彼が吹っ飛ばされているというのに、私はへらりと笑みを浮かべていました。拳を握りしめて体を震わせたまま、先輩もいつもと同じ優しい笑みを浮かべてくれています。

 足元で寝そべっている彼はうちどころでも悪かったのでしょうか、頭部周辺に赤いものを広げながら気楽にも眠っていました。こんなところで寝ていたら風邪をひくというのに。

「どうしたの? なんで何も言わずに帰ったの?」
 先輩が一歩踏み出すたびにホームの中にローファーのたてる音がこだまします。かつり、かつり。不気味にも心地がよいその音に合わせてリズムでも刻むように、首を右足を出すときは右へ、左足を出すときは左へと傾けています。
「俺、君が目の前を素通りしていくもんだからさ、思わずついてきちゃったよ」
 かつりかくり、かつりかくり。操り人形みたいに歪なその動きから目を離すことができません。
「びっくりしちゃったなあ、俺がいくら言っても何をやっても泣かない君が、そいつの前では簡単に泣くんだもん」
 私の真横に伸びている彼のすぐそばに立つと、先輩は冷ややかな目で見降ろしていました。そんな先輩すらどこか格好よく思った私もきっと彼と同じ、すでに狂っていたのでしょう。
「先輩、私のこと好きですか?」
 電車の中で彼の言った、私の妄言ではないという確信が欲しくて。先輩に嫌われていてほしくない、という願いが強くて。唐突に口をついた質問だというのに、先輩はびっくりした様子を見せることなく答えてくれました。

「もちろん」

 答えと同時に出た笑顔があまりにも優しくて。そこには狂気なんか何一つ感じなくて。その温かさに胸が幸せでいっぱいになりました。

「君の笑顔は俺だけが見れればいいと何度も思ったし、君のもっている表情は全て見たいと願ったよ」
 私と先輩と寝ている彼だけのホームには、先輩の心地がよいぐらいに低い声はよく響いていました。先輩の一言一句が反響して私の耳へとはいりこむのです。

「俺さ、壊れかけのものが好きなんだ」
 いや、あるいは壊れているものかもしれない。
「桜は散っている最中が綺麗だと思うし、ガラスだって、割れる瞬間に破片が宙を舞っているところはなんだかひどく幻想的だろ。それと同じ」
 人として崩壊しかけている君に惚れたんだ。

 冷たくも温かい先輩の言葉に、私は今日数度目の涙が自分の目からあふれ落ちるのを感じました。

「だからこそ、崩壊しかけの君をもっともっと破滅に近づけたかったんだ。もっともっと綺麗な君を魅せて欲しかった。綺麗な君が欲しかった。俺のこの手で壊れていく君を視ていたかった」
 それは、一種のフェチなのかもしれない。壊れかけフェチ。ああ、なんだかひどく変態じみているね。そう言って恥ずかしそうに笑う先輩に、私は曖昧な笑みとともに答えました。
「それなら、私は変態フェチでいいです」
 人の行動というのは理性で抑圧されています。だから性癖という針を理性から押し出してしまわない限り回りに危害をくわえません。それはきっと安全ピンのように中途半端に保障された安全です、その安全を外してしまえば、それはきっと、酷く危険で。
「先輩が壊れかけフェチなら、私は変態フェチです。危険なほど変態に恋しつづけますし、変態のためなら惜しむこともなく私の持っているものを捧げることだってできますよ」
 なんだ、私達愛し合っていたんじゃなくて、恋し合っていたんだな。そう思った途端肩の荷が降りきった気がしました。私は先輩に強く恋されていて、私も先輩を強く恋すると同時に愛していました。真心だらけの感情を手に入れた今でしたら先輩のために何かをすることだってできます。
「変態変態って、彼氏に向かって言わないでくれるかな」
 私よりも年上な癖に、今のようにたまにむくれて魅せる先輩がいつだって恋しくて愛おしくてたまりませんでした。
「壊れかけフェチだなんてまさに変態の代名詞じゃないですか」
 いつだって私を慕ってくれる先輩のためでしたら、今の私はなんだってできます。
「でも、もうこれ以上君を壊すことなんてできないね」
 恥ずかしげにはにかむ先輩を愛せるようになった今、私は幸福で身がいっぱいです。
「そんなこと言わないで、思う存分壊してください」
 ――まもなく、電車が参ります。危ないですから白線の内側にさがってお待ちください。 

 内側というのがどちらか曖昧なまま、私達は白線の上から小さく三歩退きました。白線を枕に寝たままの彼が目を覚まして、寝ころんだ状態でこちらを見上げました。
 彼の覚醒しきっていない虚ろな瞳は一体何を写しているのでしょうか。

「でも、もう君にばれちゃったじゃないか」

 いたずらに失敗した子供がするように口を尖らせる先輩の胸に私の両手をそっと添えます。

「大丈夫ですよ」
 電車の眩しいライトが、暗い暗い穴の向こうから次第に近づいてきました。
「私が今から」
 風を切りながら進む大げさな音が間近に迫ってきます。

 上手に壊してみせますから。

 電車がちょうどよく来るのを感じながら、私は先輩の胸を強く強く押しました。

「人殺し」
 意図せず口をついて出たのはその一言だった。

 彼女の顔は相変わらず近い。避けるように後ろに重心を預けたままの俺の体はいい加減悲鳴を上げ続けていた。どいてくれ、そう祈っている間中、生温かい吐息が鼻にかかりつづける。
「人殺し? どうして?」
 そんな俺の言葉が不思議だったのか、彼女は眉間に皺をよせて、左手で俺の額をいやに優しくたたいた。
「だって、お前のくちぶりじゃあその先輩は」
「先輩は自殺だよ?」
 言葉をふさぐように先回りされてしまって何も言えなくなる。ホームに相変わらず二人ぼっち。俺の声だけがやけに反響して耳をつく。
「でも胸を押したって」
 自分の目と鼻の先で不思議そうにしていた彼女は、そこでようやく納得が言ったという顔をして、意味深にほほ笑んでみせた。その笑みに冷水を背中に浴びせられたような気分になる。
「そんなことより、君は君自身が誰なのかわかったのかな」
 なぞなぞでもするように楽しげに、人の上でくすくすと笑う。
 そんなはずない、とは思いたいのに、何故か心の中の自分が彼女を愛おしいと思う。
「俺は俺だ」
 絞り出すように声を出して答えてやれば、顔中に満面の笑みを広げて、彼女は高い声でぴんぽーん、と楽しげに言う。この様子だけ見ればバカップルが戯れているようにも見えるのだろうか。
 自分の上で楽しげにする彼女を強く抱きしめたいと思う反面、目の前の少女が人殺しであるという事実に、激しい嫌悪感が沸く。過去の自分と同じリストカッターであるという事実に、同族嫌悪でいっぱいになる。

「頭を強く打った少年は、ご都合主義的に記憶をすっ飛ばして、自傷癖をなくすことができました」

 まるで寓話を語るようにどうでもよさげにすらりと言って見せたものだから、酷く疎ましく思って強くにらんだ。記憶の中の彼女と同一人物だとは思えないほどお茶目に舌をだしてみせて、それから――。
 それから、前のように真面目な顔をつくってみせた。
 突然の変わりように息をのめば、彼女の顔がさらに近づき、鼻と鼻が触れ合う。
「あのね、私は君も慕っているの」
 突然の告白に胸を埋め尽くす嫌悪と恋慕。コーヒーにミルクをそそぎこむように渦を巻いていく思考に酔いそうになる。

「きっとこの感情は恋じゃなくて愛なの」
 長いまつ毛がまばたきをするたびに、その奥の瞳に目を奪われる。どこまでも、どこまでも黒い、澄んだ瞳。
「君さえ望むなら極上の痛みを用意してあげられるよ。君さえ嫌でなかったら、これからはずうっとずうっと一緒になれるの」
 澄んでいると思ってしまうほど深く黒い双方の瞳。しかし、そこには何も映ったりなんかしなかった。
「ねえ、わたしといっしょにいこうよ?」
 わずか数ミリの距離まで彼女の唇が近づいて、湿ったそれが俺のと重なる。啄ばむように繰り返されるそれは決して深く交わることもなく。

 ただただその行為に身を委ねて、霞がかったようにはっきりとしない意識にまどろみ続けよう。きっと彼女は先輩から開放されてようやく自由になったんだ。そう考えると幾分心も楽になった。
 数分そうしていただろうか、おもむろに彼女は起き上って放心状態の俺の手をエスコートするようにとる。

 ダンスでも踊るように軽やかに、恋人のように手をつないで、二人で歩く。ああ、彼女は一体俺をどこへ連れていくつもりなのだろうか、きっとそこでは彼女と俺は――。

「ちょっと!」

 ぼうっとした思考の中、ケツの痛みがやけに響く。何が起きたのか理解できないままに視線を上にあげれば、セーラー服を着た少女が見降ろしていた。

「何があったかわからないけどね! 飛び込みなんて最低よ!」

 今朝だってここで飛び込みがあったせいで電車が遅延して、私小テストうけられなかったんだから! 望みもしないのに怒鳴り続ける少女を何が何だかわからないままに、見続けて入たけれど状況なんか何一つとして理解できなかった。

「なあ、俺の他に女の子いませんでした?」
「はあ?」

 俺の疑問への答えはたったの二文字だった。もしかして、愛おしすぎて幻覚でも見てしまっていたのだろうか。いや、それにしたってやけにあれは生々しかった思う。自分自身の唇に触れてみれば案の定湿り気があった。

「あ、ごめん、質問変える。俺飛び込もうなんてしてました?」

 あまりに冷たい眼光に思わず恐縮しながらも一番の質問を投げかけた。が、その途端盛大に舌うち。人の少ないこのホームに少女の舌うちはよく響く。

「あっぶない目ぇしてんなあって思って見てたら、ふらふらーって。線路一直線! それのどこが飛び込み未遂じゃないってんのよ!」
 本当、どうすんのさ。気持悪いもの見せられたらたまったもんじゃない。そこまで続けた彼女は未だ放心状態から抜け出せない俺を一瞥して、何の前触れもなく頬を引っぱたいた。

 火傷のような痛みに情けなくも涙目になりながら、そこを抑えて強く睨みつければ睨み返されてしまった。

「ねえ、あんたまさか朝の飛び降り男の友達じゃないわよね?」
「いや、ちがう」

 微笑まれこそしたけれど、全くの赤の他人だ。そう答えようとして口をつぐんだ。そんなこと言ったらますます怪しまれてしまう。
 何か言いかけて黙ったのが不思議だったのだろう。ふうん、などと相槌をうちながらも訝しげだった少女は、まあいいか、と軽く笑ってくれた。
 ふと、今朝の飛び込み自殺が頭をよぎる。にっこりと、明日の遠足を楽しみにする小学生のように晴れ晴れしい笑みをこちらに一度むけたそいつは、瞬時に泣きそうに眉根をよせてプラットホームへ向きなおした。轟々と音を響かせながら迫りくる電車に合わせて躊躇いながらも徐々に体を傾けていく。
 とめなくては。なんて思うことも出来ぬままそれを見ていれば、プラットホームをもう一度除きこんだそいつは一瞬にして顔全体に喜びを浮かべた。
 嬉しそうに、誰かの胸に飛び込むように、それでいて幸せそうに両手を広げながらホームドアを蹴る。

 重力に従って落ちていく体は、横から突進してくる電車にはじかれて、落ちて、そうして破裂した。ちょうどざくろを爆発させたように、赤い赤い実を大げさに飛び散らかしながら。

 少女の言うように俺が飛び込もうとしていたというのなら、同じ末路をたどっていたのだろう。俺の体中につまった赤い実が同じように破裂して、俺を形作っていたものがあちらこちらに飛散して。

 そこまで考えてから身震いした。それが痛みへの恍惚とした期待からだったのか、普通に怖く思ったのかはわからない。わかりたくもないのかもしれない。
 そのときの俺がどんな表情をしていたのかすら知らないが、ただただ目の前の少女は不思議そうに俺のことを眺めて眉根をよせていた。

 ここから離れたい。
 早く帰りたい。
 こみ上げる吐寫物に胸を焼かれそうになりながら少女に背をむけ、かがんでスクールバックをむんずと拾いあげると、安全ピンが一つ音をたてて落ちた。しまうのも面倒だし、このままここに捨ててしまおうか。

「あ、ところで知ってる?」

 散々怒鳴ったことで、赤の他人という壁がなくなってしまったのだろうか。クラスの女子と全くおなじような態度で俺の背中に浴びせかけられる疑問。
 女子ってやつはどうしてこんなにも打ち解けるのが早いのだろうか、と苦々しく思いながら振り向けば、好奇心でいっぱいの少女の顔。

「何を?」
 どうせ、大したことじゃないだろう。話半分に聞き返せば、彼女はホーム中に自身の声を響かせて答えた。

「今日の飛び込みは、先月飛び込んだ彼女の後追いだったらしいよ」

 その後にも少女は飛び込みに夢を見るような幸せなことを続けていたけれど、耳に言葉は入れど頭に言葉は入らない。

 惹かれるように目をむけてしまった暗い暗いプラットホーム。そこから生えた壊れかけの手が、こちらへ手招きをしている気がした。



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