味のしない天麩羅、水で薄めたカルピスの原液或いはカルピスの原液で薄めた水❾
エピローグ的な:
これは、一つの危険性かもしれぬ。唯一無二であろうと思われるものが、実際は千も万も存在しかねない。そしてそれを容認しかねないものだ。我々がそうだと決めるのは、それ自体がそうであるという非常に大きな領域にあるものだったろう。しかし、今その領域は実に狭まりつつある。髪の毛をさらに千切ってもなお、その小ささを表現するには事足りぬかもしれぬ。故に我々が、あるものがそうであると判断するのに必要なことは、言葉や想像による脳への催眠のようなものである。そうでありうべきという”意識”によって、あるものは”そうである”になる。かの、現象学的還元とは相対するものの究極的な思考による志向と嗜好という名の下に。
ま、つまり「あれれ~おかしいぞ~?」(コ◯ン)って思えってことやなぁ・・・。
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『夜に駆ける』という曲を聴いている時に、あることに気づく。あれ、これYoasobiさんのチャンネルが出している動画ではないな、と。
コメント欄を見てみるとどうやら、 YouTube側が自動生成したものらしく、本家の動画というわけでは無いよう。動画の収益はYOASOBIの方に行ってるので無断転載というわけではないかもしれないけれども、本家がプレミア公開する前にこっちで自動生成されてるの動画、ということらしい。
しかし少し厄介なことに、本家のチャンネルの動画より、再生回数が多いという部分だ。
このことを知った瞬間は、私はこの「味のしない天麩羅、水で薄めたカルピスの原液或いはカルピスの原液で薄めた水」という記事に取り上げようと考え及んだところである。
YOASOBIの本家のチャンネルから投稿されている『夜に駆ける』、YOASOBI-トピックから投稿(自動生成)されている、『夜に駆ける』。さて、どちらが「本物」なのか?
そういう疑問が頭に浮かんだ。
どちらも全く同じ内容であることは、言うまでもなく、言を待たずに、火を見るよりも明らかである。そう全く同じなのだ。どちらも正確にデータとして存在しているがゆえに、全く同じなのだ。
ここで、どちらの『夜に駆ける』が本物かを決定する要素は、チャンネルの違いから生ずるものだろう。本家のチャンネルからか、ある意味youtube公式のチャンネルからか。もちろん、多くの人は前者の『夜に駆ける』をよりホンモノであるとして、扱うことだろう。だって、本家のチャンネルから投稿されているのだから。
しかしもう一度書くが、それぞれの『夜に駆ける』を聴いたとしても、どちらのチャンネルから投稿されているかを、見分けるのはほぼ不可能である。「現実」の部分、歌の「構造」の部分を聴いたとしても、判別はやはり不可能だろう。
だから二つの『夜に駆ける』を判断するのは、その一つが、「本家のチャンネルから投稿されているんだ」という「イメージ」である。それは確かに事実であるが、『夜に駆ける』の歌における構造的な部分には関わってこない。そのような「イメージ」があることで、「現実」が同じものであろうとも、両者を区別することができるのであろう。
しかしこれに限らず、youtubeには、原曲の「コピー」のようなものが溢れている。それらの中には、極めて原曲の音に近いものもあるだろう。その原曲の様に聞こえてしまう「コピー」と、「原曲」を分けるのもきっと、どのチャンネルから投稿されているかという事実から生まれる「イメージ」だ。
曲(動画)を投稿した瞬間、もしくはそのまえに、その曲と質的には全く同じと言ってよい代物が、自動生成される。なんと恐ろしいことだろう。唯一無二だと思っていた作品と”同じ”ものが、いつの間にか公式のものとして他に存在している。音だけを聴いても、どちらがどちらか分からない。
もはや、どちらがホンモノかニセモノかなんて、判断のつけようがない様に。
そういえば、ヨルシカの『思想犯』という曲も、同じような状況になっていたような。「thoughtcrime(思想犯)」と検索すれば、本家のものと”思われる”ものと、自動生成されたもの二つが出てくる。やはり、質的には同じである。
それらは、「盗作」であるわけでもない。むしろ、どちらも同様のものである。しかしなぜか、区別されるべきものとして捉えられなければならないと考えてしまう。
”区別しなければならない”という意識そのものの存在は、もはや我々が、容易に、元来から、何がホンモノでニセモノであるかという判断が不可能であるということを示しているような。
というか、ニセモノかホンモノかという区別ははたしてここで適切なのであろうか。
と
今日も大学生は惟っている。
参考動画
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