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自分は何者であるか...なのだろうか?


自分は何者か、と。ありきたりにしては、どうも頭にひっついて剥がれないこの疑問は、いつワタシの気にすることになったのかをあまり思い出せない。

他の人のnoteを見ていると、相変わらずというか、自分は「何者か」と問うているものがある。おそらくいつの時代にも、いや、もしかすれば自分が何者かを気にすることなんて、実はこの時代に特有なことなのかもしれない。その対自化という欲望や希求がもしや特殊なものだということに、驚きを隠すことは出来ない。

自分は、果たして何者か。

そう問う事以上に、その問いそのものを疑う機会を得る文章に出会った。そうだ。どこまでも疑う。それしかワタシに出来る事はあまりない。無知で無能な虻には、それくらいちょうどいいのかもしれない。

ああでもない、こうでもない。という否定形でしか自分というものはつかめない。他者との関係で、彼あるいは彼女を「わたしではないもの」として知ることによって、初めて自分が成り立つ。アイデンティティはそういうものだろう。それなのに、我々はしばしば「自分は誰か」という問いへの答えが、自分の中に、この皮膚で囲まれた身体の中にあるかのように思いこんでいる。(辻信一、2004、189)

ワタシとは何者か、いや

「ワタシとは何者でないのか」と問う方が、なんだか性に合っているような気がした。割と、ワタシとは自分なりに誰かと問うてきて、結果的に世界には他者しかいないというような(仮の)結論にたどり着いたことも、引用文にあるような考えにつながってくるのだろうか。

ワタシは、この身体の中には、無い。

ワタシは、ワタシだけの存在では、無い。

ワタシは、あなた自身では、無い。

否定し、否定され、否定を延々と繰り返す。「私とは何者か」という狭い考えではなく、視点をずらして「ワタシは何者でないのか」と、しばらくは考えてみることにした。ワタシはきっと、差異の中からしか生まれない。どれだけ結果的に、「盗作」「コピー」「写し」「模倣」「似せもの」であっても、根本は、否定から始まるのだろうと信じて。

UVERworldさんの「ODD FUTURE」には、こんな歌詞がある。

人とは違うと認めた上で
可能性のるつぼ開く

人とは違うという、一種の否定。

その否定から、可能性を拓く。ワタシが「他者について」という一連の記事でたどり着いたのも、そのような”可能性”を開く事だった気がする。「ODD FUTURE」のなかで個人的に、好きな歌詞だ。

さて、ワタシは何者でないのか。それを、その否定形を、主軸にしてみよう。

「何者である」という枠にはめ込むことから逸脱し、何者でないかという空白を



今日も大学生は惟っている


引用文献

辻信一.2004.スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化.平凡社

UVERworld.2018.ODD FUUTURE.gr8!records


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p.s.

自分は、他者との差異、他者ではないという否定によって生まれ得るというのが、この記事の主題だ。しかしそれは一見、「私」とは他者のイメージの集積でしかないという鏡像段階的な考え(今まで書いてきたもの)とは矛盾しているように見える。では、その矛盾を乗り越えるためにはどんな考えが必要なのか。これについては、また今度。

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