what to be desired -性空説

孟子と荀子の言うことに、とあるワタシは納得がいかない。それはもちろん一種の偏見であるし(というか意見は全て偏見であるけれど)、真理たり得ることは無いけれど、少なくとも今のワタシが信じているのは、性善説でも性悪説でもないということだ。名づけるなら、「性空説」だろうか。

人間に真の個性や本性というものがなく、悪や善と言う狭隘な属性を持ち合わせていない。しいて言うなら、本性や固定的な個性がないという特徴が存在しているといったところか。ワタシが示そうとする特徴はどんなものでも、ワタシ自身だけが持ちあわせているものというよりかは、ある特徴によって分類することの出来る集団が持つ特徴と言った方がいいかもしれないものだろう。フランス語を話せると言ったって、フランス語を話せる人はかなりたくさん居る。ピアノが足で弾ける。数学が得意だ。歴史への造詣が深い。暗記が得意。おおよそどんなものを挙げてみても、大体被る。真に個性的な要素が無いというには、集団の例は「性空説」の話しからは逸れてしまったかもしれないけれど、人間が多彩であり、いや、「多彩になることが出来る」とう可能性を持つ存在だと言った方がいいだろうか。

それにしても、何故性善説や性悪説なる考えが出てきたのだろう。中国の諸子百家について世界史で少し勉強したくらい(てかほとんど頭から抜けた)で、ちゃんと本を繙いたことが無いから詳しくはないのだけれど、多分環境の産物なのではないかと思う。この世界の全てが憎く思えたという経験があるから、性悪説を持ちだしたのか。或いは逆張りでそれを反面教師として、性悪説に至ったのかどうかは、これから本なりで学ぶとして、究極の価値基準ほど、ワタシが今必要としないものはないかと思う。

全てが悪く。総てが良い。そうではなく、なぜそうなっているのか。他に解釈はあり得ないのか。その考えは他の状況にも適応可能か否か。その価値文脈などんなものか。そういうことを考えたほうが、幾分か暇をつぶせそうな気がしたから。良いか悪いかなんて、分からないのが当然。変に「善く」或いは「悪く」あろうとするほうが、何だか演じすぎているような感覚がして、気持ち悪くなる。誰かに怒ったり、笑顔を振り向いたり、そうすると、これは本物であって、本物ではないのだという思いがビリリってやってくる。だから、時には考えないことも重要だ。とことん演技という非演技に徹する。友達と笑っている瞬間を、カメラが向く先のものだと思った事はない。それは、まさにその閉鎖的な瞬間にしか現れないものだとして、考えないようにする。その曖昧な部分というか、どこかでニセモノなのではないかと思う余地があることで、一層楽しいのかもしれない。

性空説は、「同じ」をとことん排除したものだ。人間は、同じものが大好きだ。「りんご」という単語を聞いたり、見たりしただけで、何の因果もないあの赤い、主に青森県で作られているのだろう、糖度の高い果物を思うかべ、「りんご(?)」と訊くと、「林檎」という漢字を書く事さえある。そう決まっているのは分かるけれど、文字の「りんご」と、物理的な「りんご」には、直接的な関連性みたいなものはない。それらは、そうであるとされているだけ。だから、極論人間の言語活動から始まるあらゆる行いは、「性空説」とは相いれないことになってしまうかもしれない。

人間(の多く)は、当たり前のように、何かを同じものだと、変わらないものだと見なす。もちろんそうやって、社会が発達してきたところもあるし、その恩恵を非常に多くの人が受けている(貨幣価値が毎日変動しまくったら、笑えないしね)。意味や関係性に対する極度に発達した記号付け、目の前のものだけに囚われないその能力つまり想像力は、あたかも「性悪説」や「性善説」が存在するかのように見せる。しかしその「あたかも」は無視していいわけではない。人間は、「あたかも」で生きている部分が多いとも思う。その「あたかも」は、「性空説」の現れだと思う。何物も、共通している部分などなく、皆が違う。その「前提(?)」が、人間には忘れ去られることが少なくないのではないか。

しかし来し方行く末同じものなんて、一つたりとってあったのか。その変化に気づけなくなりつつあるのは、少しだけ哀しかったりする。「あ、雨が降るな」って雨の匂いが分からなくなったら、大きな穴がまた空いてしまいそうな気がする。




今日も大学生は惟っている




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