「学生」にずっと囚われている

自己の多様性というものを考えたときに、「身分」「職業」といったものは欠かすことが難しい。

自分が誰であるかを語るとき、自分がどのような性格であるかよりも、自分がどのような職業であって、どのようなことが得意でというように、「能力」を通して語られることが多いのではないかと思う、今日この頃。

授業を受けているとき、不図私はこう感じた。

オンライン授業って、すぐに授業を受けることが出来るという点では便利だけど、授業を受けている時の自分と、授業を受けていない時の自分との境界線が曖昧になっている、と。

これはリモートワークを実施している人にも言えることかもしれない。家で画面を気にしながら、その場にいない人に気を使いながら、仕事を行う。「家」という空間にいるはずなのに、完全に外向きの態度にシフトしている。仕事を終えても、周りの環境が急に変わることはなく、かといって以前のように心の急なシフトが起こるわけでもない。

切り替えられていた状態の切り替えがうまく行かない。頭の中には、ずっと課題への焦燥感があって、常に「学生」でいる自分がいる。確かに「学生」でない自分でいる状態が無いというわけでも無い。バイトに行くときは、「講師」という役割を演じることもある。だが、今このオンラインという状況では、「学生」である自分と、「学生」でない自分が安定して別れていない。

以前からこのような状態が無かったというわけではないけれども、今はもっとひどい。しかし、この曖昧さ、安定した不安定さが人間の、現代における性質なのだろうか。この不安定さは、社会的に構造化されたものなのだろうか。

うーむ。私が私であるということは、この不安定さとどのように関わってくるのだろう・・・。




今日も大学生は惟っている。




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