夢幻であり、無限である。
こんなこともあるのかと。
完全では無いが、自分が色んな意見に触れ、それらを帰納した結果が、文豪の意見と類似していることに気づいた。
もし、彼の意見が真理じみたものであると仮定すると、私は他人の力を借りつつも、曲りなりに自分で考えた結果、「一つの真理」にたどり着くことができたと思うと、僥倖なことである。
さて、私が眼を遣った文章を引用しよう。
私もまた「万人の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず鬩ぎ合い、啀み合い、相反対し、相矛盾する多くのここを見出すのである。しかしながら私はこれら無数の愛し合い、助け合う、そして実にしばしな憎み合い、挑み合う心の aggregatum per accidents ではないであろう。(三木清、1954、140)
以前このような記事を書いた。
人間は、一人で存在することは無いと、この記事で書いてある。
三木清が言わんとしたことも、おそらく似たようなことであるのではないだろうか。
私は、常に一人ではない。もしくは、一人のように見えても、その後ろには何万という「私」もしくは、それ以上の数がいるかもしれない。
それと同時に、それらの「私」は、夢幻泡沫な存在でもある。
長く居座る者もいれば、すぐ消えてしまう者もある。
いつか、「昔と性格が違うね...」と言われたことを思いだす。
今思えば、あの発言は正しくて、そして同時に間違ってもいたのだと思う。
「昔と性格が違うね...」とは、今の私は、以前の「私」らしくはないとい意向が含まれていたのだろう。
確かに昔の私はもはや消滅しているのかもしれない。
しかし私が「私」であることには変わりない。以前はどんな性格だったかなんて覚えてはいないけれでも、私は依然として「私」だ。
故に
サメの歯のように、現れては消え、消えては現れるを繰り返す
パロールのように、発せられた瞬間に、もう聞こえなくなる
「私」というものは、夢幻(ゆめまぼろし)であって、無限なのであろう。
と
今日も大学生は煩悶している。
引用文献:三木清. (1954). 人生論ノート. 新潮社
サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。