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見る

夢を見た。
とても自己中心的な印象を覚えたけれど、どんな夢を見たのかについては、憶測の域を出ることが無いというか、何も分からない。

夢を見た。
この頭で。
夢を見た。実際に目にはしていないのに。
なぜ夢を見た。
なぜ
「夢を見た」
という風にいうのでしょう。
ワタシはずっと目を閉じていて、瞼の裏しか見えていないのに。瞼の裏に夢が映写されているわけでもない。

なぜ目で見ていないのに、「見た」なんて口にするの。もしかすれば、「見る」という行為には、目という器官が必ずしも重要では無いと云うことでしょうか。ならば、「見る」とはどういうことなのかな。目で見なくとも、「見る」と表現できる理由は、一体なんですか。

仮に、「見る」という行為を、「眼前の物自体を捉える」という行為ではなく、「自分の認識できる範囲に、物自体を変形して当てはめる」としたらどうかな。つまり、「見る」とは一般的な「見る」ではなくて、むしろ「理解する」というものに近いのではと。

夢を見る。それは夢という物自体をこの目で直接捉えたことを意味しません。頭の中で無尽蔵に広がり続けるイメージが繰り替えされていた状態のことを指す気がします。でもあれは、嘘や偽物だと言い切ることができるのでしょうか。確かに、ワタシは「見た」。
なら、今見ているこの文章は、
何なの。

何だ、この文章は。これは「夢」と何が違うのでしょうか。夢を見ていた状態と、何が違うのですか。ここにある文章という物自体を捉えているのではなくて、そのようであると変形して、心の中の凝り固まったイメージの反映に過ぎないのだとしたら、これは、なんだ。この画面は、何だ。

ワタシは本当に、「見ている」のかな。それを確信することなど出来るのかな。夢を見た。人差し指を見た。でも、これらの二つの行為は、別物なんでしょう。ならなぜ、「見る」だなんて、いうのでしょうか。

見ていないのに、見ている。
見ていて、見ている。
見ているのに、見ていない。
これらは、同語反復ではありません。見たと言ってきたものは、実は、見たことにしてきたものなのではないでしょうか。「見た」ものを、今「見る」ことは出来るかもしれない。もう一度、その場所にいけば。しかし「見た」ものは、「見たとおもっているもの」と全く同じなのではないでしょうか。思い出は、事象自体とは異なる。物自体ではありゃあせん。

では、見たとはどういうことですか。
物自体を捉えられないなら、そこに広がっている景色は如何様に映るのかな。いや、それは分からない。
ただ一つ言えることは、まさに「見る」は、実質「思い出」と一緒なのではないかということです。


今日も大学生は惟っている



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