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【映画レビュー】わたしの中の「ウルトラマン」

『シン・ウルトラマン』を見てきた

 ずっと迷っていたが、ようやく『シン・ウルトラマン』を観てきた。
 入場特典としてメフィラスの名刺が配布されるようになったばかりだったからなのか公開されてから時間が経っていたはずだが席はほぼ人で埋まっていたし、なんなら同時刻に上映されていた映画のせいなのか入場にも時間がかかっており、10分ほど押しての入場となった。中々映画館まで映画を見に行かない私にとってはかなり人気な作品なのだな、という印象を入場前から受けていた。

 幼い頃に父の隣でリアルタイム世代ではないのだが昭和のウルトラマンを見、日曜日には弟と平成のウルトラマンを見ていた私は、どちらかと言えば怪獣よりに愛を注いではいたが、ウルトラマンが好き、だった。特にウルトラマンやウルトラマンパワード(注1)に出てくるジャミラ(注2)のストーリーや、ウルトラマンのシーボーズ(注3)、ビジュアルだけで言えばウルトラセブンのメトロン星人がたたずむ姿などの、ちょっと物悲しい雰囲気が私の好みだった。
 もちろんヱヴァンゲリヲンもアニメ、映画とだいたい一通りは見ていたし、庵野氏の作り出した作品の雰囲気も嫌いではない。
 『シン・ゴジラ』に至っては「絶対好きだと思うから見て!!」と勧められて見に行き、案の定電車爆弾やゴジラのビーム放出シーンなどを気に入って「蒲田くん(注4)かわいい!!!」と目をキラキラさせていた。

 しかし、今回『シン・ウルトラマン』を観終わって「どうだった?」と感想を尋ねられた私は「うーん……」と考え込んでしまった。


以下『シン・ウルトラマン』『シン・ゴジラ』『ウルトラマン』などの作品のネタバレを含みます



 確かに禍威獣(かいじゅう)の、特にトカゲタイプのものの動きはとても素敵だった。これはトカゲや爬虫類の動きをよく観察して作ったんじゃないだろうか!とワクワクすると同時に、いつか昔にテレビで見たスタジオジブリ『千と千尋の神隠し』の作画製作現場に密着する番組の中で、宮崎駿監督がスタッフに対し、龍の姿のハクに千尋がにがだんごを食べさせようと口をこじ開けるシーンを描くためにはもっと本物の犬が口をこじ開けられる時にどんな様子かを観察しなくてはならない、と伝えていた場面を思い出したりもしていた。
 今作だけではなく『シン・ゴジラ』においても同様の点が私は気に入っていた。特にシンゴジラが完全にゴジラの形態になり、ビームを口から、背中から、尻尾から放出するシーンの、その重さやエネルギーを感じさせる身体の表現。本当に好きだった。
 また今回は、エヴァの使徒を思わせる造形でありつつも、期待どおりのポロロロ音からの、「ゼットン………ゼットン………」。あのシーンもとても気に入っている。

 
 これらのように、良かったと感じるところはあるにはあるのだが、やはり「良かったよ」「楽しかったよ」とすんなり言葉にできず、結局のところ私は、「ん………、なんか、フラットな感じ……」と返したのだった。

 何故なんだろうか。
 このスッキリしなさは何なんだろうか。


わたしの中の「ウルトラマン」

 そもそもウルトラマンは私の親の代から続いてきた作品だ。シリーズもたくさんあるしウルトラマンも何人もいて、それら全ての総称としてざっくりと「ウルトラマン」と表現することも多い。そんな大きな作品だからこそ、それぞれが色んな思い入れを持って「ウルトラマン」を愛している。
 恐らく「ウルトラマン、好きなんですよー」と表現したとてその「ウルトラマン」が相手の思う「ウルトラマン」と同じである保証はない。様々なイメージやテーマが「ウルトラマン」には投影されているはずだ。
 なぜ、初代やセブンに惹かれてきた私が今回の『シン・ウルトラマン』にはあまり惹かれなかったのか。恐らくその一番大きな理由は、〝わたしの中のウルトラマン〝と〝『シン・ウルトラマン』のウルトラマン〝の違いにあるのではないかと思う。

 前述した通り、私はウルトラマンのジャミラやシーボーズのストーリーなどに強く惹かれ、「ウルトラマン」が好きだと感じている。
 ジャミラはウルトラマン版とパワード版で設定や見た目の違いはあるもののどちらも元人間。意図せず怪獣になってしまい、信じた祖国からも見捨てられ、裏切られ、哀しみと怒りを抱えて地上に降り立つ。最終的にはウルトラマンに倒されるものの、人間側やウルトラマン側に立って見る、いわばマジョリティの立場の視聴者に対し、その怪獣を産み出したのは自分たちでありこちら側の都合で倒しているのだという感覚を強く生じさせるストーリーになっている。
 もうひとつのシーボーズは、かつてウルトラマンが倒した怪獣達の墓場から地球にやって来てしまった骸骨のような怪獣である。地球に害をなすというよりも元いた場所に帰りたい!と駄々をこね、ウルトラマンや特捜隊達に助けられて宇宙に帰っていくどこかかわいらしい怪獣なのだが、作中では特捜隊隊員達が揃って念仏をあげてウルトラマンに倒された怪獣達を弔っているシーンが描かれており、これもまた、悪を倒してスッキリ終了!というだけにとどまらず、色々な理由があって倒された異質な者達に想いを馳せるストーリーとなっている。
 つまり私が「ウルトラマン」に見ているのは、自分たちに害なす巨大な怪獣達を正義の味方のウルトラマンがやってきて自分たちの味方をしやっつけはしてくれるものの、本当にそれで良いのか、それで見逃されてきた、蔑ろにされてきたものもあるのではないかという問いかけ、つまり光の戦士の眩さの、その背後にできる影も忘れずに描いているところ、何ならそのその光も影も結局は人類自身ではないかという部分。そこがわたしの好きな「ウルトラマン」なのだ。


『シン・ウルトラマン』のウルトラマン

 対して『シン・ウルトラマン』はどうか。
 『シン・ウルトラマン』ではウルトラマンの造形はよりスマートに、美しく、宇宙人らしくなっている。またウルトラマンが融合する神永の様子を見ても、小学生を救おうとした後戻って来た際、明らかに中身が他者に入れ替わり、他者の視点から地球の人間に馴染もうとする様子が描かれていた。そして物語の終盤においてもあくまで余所者としてのウルトラマンが人類とその行く末を共にしたいと希望している。
 これは、「光の国から僕らのために 来たぞ我らのウルトラマン」と歌われたように人類の身内感の強い、元の『ウルトラマン』ではあまり強調されなかった点ではないだろうか。『シン・ウルトラマン』のなかでウルトラマンは、あくまで他者として描かれている。

 これは私が勝手に感じていることだが、『ヱヴァンゲリヲン』にせよ『シン・ゴジラ』にせよ『シン・ウルトラマン』にせよ、これら庵野氏の作品で表現されているものは、”自分と外の何かわからない大きな力をもったもの”という構図が多いようにみえる。わけのわからないままに自分が何かしなくてはセカイが滅亡してしまう状況に置かれ、そこまで自分が選べる選択肢も多くない中でどんどん事が進んでいき、関わらざるを得なくなって行った自分の選択でセカイは大きく動いていく。『ヱヴァンゲリヲン』が正にそういった飲み込まれるような不安やセカイを失っていく絶望感や恐怖を伴った作品でもあると思うし、それが『シン・ゴジラ』ではゴジラのもつ性質にぴったり当てはまっていた。
 『シン・ゴジラ』で巨災対(注5)は相手がどんな性質を持った者なのか、何が目的なのかもわからないままゴジラに立ち向かい、人類の出せる力を合わせて何とか活動を停止させる。元々のゴジラも、核という人類には中々制御しづらいような大きな力から生まれた、大きく黒い、意思疎通も出来ないような人類の恐怖の対象である。それを人類はどう扱うか、というのがゴジラシリーズで描かれている一側面だとすれば、ゴジラというアイコンは庵野氏の作る作品のテイストととてもなじみが良いものだったと言えよう。
 同じく今回の『シン・ウルトラマン』でも、今度はマルチバースなどの概念を念頭に置きながら人類には手の届かない思考や技術を用い、様々な外星人が人類を良いように使おうとする。ウルトラマンの派遣元である光の星もその一部である。物語の最後でウルトラマンは禍特対(注6)のメンバーに数式を渡し、人類の力でそれを扱うように残す。人類はそれを用いて目前に迫った禍をウルトラマンと共に退けるのだが、それだけしてもなお、ウルトラマン達からすれば人類はまだまだ赤子のような力の小さい存在として描かれる。
 『シン・ゴジラ』のストーリーでは混沌の中から自分たちなりの対応を編み出していた人類は、『シン・ウルトラマン』の中では手助けを借りながらも尚、宇宙の他の存在に比してどうしようもなく小さな存在なのだという絶望感が私には感じられた。

 つまり、だ。
 私が好きな「ウルトラマン」とは、自身と対話するための「ウルトラマン」という器であり、自分の光であるウルトラマンと、対峙する自分の影である怪獣とのやりとりを通して色々と感じたり考えたりするという構造だった。
 しかし、『シン・ウルトラマン』での「ウルトラマン」はそれとは異なり、自分とは全く異質なものとして描かれ、その異質なものとの否応なしに向き合わされる中で自分に何ができるか、という話に私には取れていたのだ。
 
 もちろん、そんな「ウルトラマン」も全然アリ、だ。解釈違いは認められない!というわけではない。しかし、「ウルトラマン」と言った時には私の中の「ウルトラマン」イメージが喚起されており、それを持ったままで映画を見に行くことになる。どうやらそれとは違うタイプの「ウルトラマン」だ、とわかった時に、ではこの「ウルトラマン」は何だ?何の「ウルトラマン」だ?という事を考えだす。
 そして残念ながら、私にとって『シン・ウルトラマン』は、「こういうことが語りたかったのか!」と心動かされるだけのストーリー展開を持っておらず、元々の『ウルトラマン』の作品の怪獣やモチーフ、音楽、ストーリー展開がたくさん詰め込まれていたために、終始”わたしの中の「ウルトラマン」”イメージを喚起させられては、「あれ?だけどこの表現なのでどうも違うみたい」と頭の中で考えながら繋ぎなおし続ける時間となってしまったのだった。

 これが、「んー……、なんか、フラットな感じ」の正体だった。
 造形や新たな解釈などの”私の中のプラスポイント”もたくさんあったのだけれど、モチーフがぎゅっと詰まってい過ぎて中々ストーリーが私を引き込んで府に落とさせてくれないなどの”私の中のマイナスポイント”もたくさんあり、その結果、「フラットな感じ」。


『シン・ウルトラマン』の中での「上位概念」

 少し話をずらす。『シン・ウルトラマン』のストーリー終盤にて、禍特対のメンバーが使用するコップが2つ、アップで映る場面がある。ひとつはメンバーの滝のもの、もうひとつは船縁のものだったように記憶している。滝のコップには数式が全面にデザインされている、非常に滝らしいものだったが、船縁のものには『魔法少女 まどか☆マギカ』(注7)に出てくるキュゥべえのシルエットがあしらわれていた。キュゥべえは地球外生命体が用いる端末のようなものであるインキュベーター(孵卵器、転じて起業の為の支援をするものも指す)であるとされている。船縁とキュゥべえの役どころとの関連がいまいちうまく私の中で説明付けられてはいないが、光の星、そしてウルトラマンやゾーフィーと人類の関係を連想してしまうのも自然なことのように思う。

 「マルチバース」という単語が『シン・ウルトラマン』の作中にも出てきていたが、ウルトラマンやゾーフィーを始め、ザラブやメフィラスも単体でしか出てきておらず、その背後にあるだろう彼らの星や同族達、それらが持つ文化や技術やその他多くの物は、作中ではほとんど言葉でしか表現されない。メフィラスも日本と条約を結ぶ際、「メフィラスを人類の上位概念として存在することを認めて欲しい」と言っているが、それでは他に人類と同意概念として位置づけられるのはどんな生物なのか、いったい上位概念となりうる力をもつ外星人がどれだけいるのかなど、具体的なものは想像するしかない。

 それら、具体的には描かれず言葉や概念のみで語られる、恐らく人類をとりまく途方もなく大きな何かの存在は人類の小ささを際立たせ、”なにかわからないけど大きくて手の届かないもの”に対する絶望や恐怖を生じさせるにはとても役立っているが、一方で「上位概念」「マルチバース」などは日常的には耳慣れない言葉でもあり、映画の流れの中でそれらを理解し頭の中で『シン・ウルトラマン』の世界観として再構成されるにはやはり、タイムラグが生じるのではないかと思う。映画のストーリーをそのまま追おうとすれば「なんかわからん単語出てきた!」という認識で放置され得る。というか、私がそうなった。

 この点も、後々から考えればとても奥深く想像できて面白いのだが、映画のストーリー展開に集中する事を阻害し、イメージの違いやなんやかをさておいて「たのしかった!」「よかった!!」という感想が、映画を見た直後の私から出てくる事を阻害する要因になったのではないかと思っている。


とかなんとか言っているものの…

 さて。他にもいろいろと、最初「ゾーフィー」と呼ばれていたものが最後のウルトラマンとの対話部分では「ゾフィー」呼びになっていた気がする点から、ガボラが顔を覆ってドリルにしていた時の丁度頭の部分がどうしてもお尻にしか見えなかった点まで気になっている部分もまだまだある。

 こうして私個人の感想を書き留めてはみたが、その後SNSなどで感想を検索すると高評価のものも多い。またこれまでの作品などを挙げて語ってはいるが、ウルトラマンシリーズや庵野氏監督作品を全部網羅したり『シン・ウルトラマン』について出ている情報を全て集めた上で書いているものでもない。

 気になった方は是非、ご自身ではどう感じるのか、実際に見て確かめて頂きたいし、「ウルトラマン」や庵野氏作品についてより造詣が深い方で色々と気付くところがあれば、是非、早口で語りつくしながら色々な視点を教えていただきたいと思っている。



(注1)ウルトラマンパワード:1990年代に登場したアメリカ育ちのウルトラマン。ケイン・コスギが主人公役を務めていた
(注2)ジャミラ:岩のようなひび割れた体をし、肩が頭と同じ高さにある怪獣。幼いときにTシャツを頭からかぶって腕を出し、「ジャミラ!」ってやるやつ。ウルトラ怪獣総選挙などの選抜にはに入るか入らないかきわきわのキャラクター。パワード版では顔面が顔ではなくより宇宙服らしいデザインになっている。
(注3)シーボーズ:ゴジラのような形体だが全身に白い骨格のようなものがあしらわれている。とても駄々っ子。
(注4)蒲田くん:『シン・ゴジラ』で登場したゴジラの第一形態。手はまだなく、エラがあり、つぶらな目をしながらうねうねと地面をはい回る。蒲田辺りに上陸したため「蒲田くん」と呼称される。
(注5)巨災対:『シン・ゴジラ』に出てくる組織であり、巨大不明生物特設災害対策本部の略
(注6)禍特対:科学特捜隊、ではなく禍威獣特設対策室専従班の略
(注7)魔法少女 まどか☆マギカ:2011年に放送されたアニメ。魔法少女と冠してはいるものの、うっかり気安く視聴してしまうと衝撃を受けるだろう。新房監督率いるニトロプラスが製作し、虚淵玄が脚本を担当している。

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