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受験エッセイ『付箋まみれの日々』 5.「をかしな世界」

受験勉強が始まると、「古文」が好きになった。

理系を選択した受験生からのヘイトを集めやすいこの分野ではあるが、私は古文の世界観や価値観に存分にハマった。源氏物語を描写した絵巻の写真を集めた大型本を購入するくらいには、古文の世界が好きである。

その裏には、私の理系科目への消極的な思いがあった。

「何となく物理が楽しそう」という理由で理系クラスに入った私だが、月日が過ぎるにつれて理系科目への苦手意識が増大していった。物理や化学といった分野の「面白み」を感じることができない自分に不安を感じた。

教科書の内容を見ても、何も感じない。「月と地球は万有引力によって力を及ぼし合っている」という記述を見たところで「だから何だよ!」と思ってしまうし、自然法則への興味よりも目の前の公式を覚える億劫さの方が強かった。

しかも、どういうわけか私は「理系の探求活動めちゃ頑張ろうクラス!」という風な特殊なクラスに入ってしまったため、周りには純粋に自然科学を楽しんでいる友人ばかりであった。

複雑な数学の問題を解けずともその解説を聞いた後に「ほほう。面白い問題だなぁ!」という感想を言うことができる人間や、休み時間に黒板に積分の問題を書き始めるような人間ばかりであり、その中で理系科目を楽しめないという自分は大きなコンプレックスだった。

だからと言って、理系科目を蔑ろにすることは許されない。自分の選んだ進路であるし、志望する学部にはそれらの学習が必須なのだから、決して逃げてはいけないのだ。

その反動として、「古文」に対する親近感が爆発したのだろう。

「古文が楽しい」というと「きもっ」と顔をしかめる友人達であるが、私に言わせれば「積分が楽しい」という彼らの方がずっと奇妙である。座標平面にあるちぢれ毛みたいな図形の面積を求めて何が楽しいんじゃっ!(個人の感想です)

日頃から古文の授業が楽しみではあったが、本格的にハマったきっかけは映画「かぐや姫の物語」である。何とも安直な野郎である。

映画「かぐや姫の物語」より

日本最古の物語が「帝の失恋」に終わるなんて恐ろしいほどのロマンを感じるし、日本画のようなタッチで描かれた作画も美しかった。BGMも落ち着いた雰囲気の中にどこか上品な雅やかさがあり、心地よかった。「こりゃDVD買っちゃうかなァ!」とレビューを見たら、まぁまぁ駄作扱いされていて凹んだ。「自分にはセンスがないのかもしれない」という疑惑がつきまとうようになったのはこの頃からである。

ネット上での評価はどうであれ、この「かぐや姫の物語」をきっかけにして、私は古文の魅力にどっぷりと浸かった。「月は地球と万有引力によって力を及ぼし合っている」よりも「月には都があって、平安時代に地球から戻ったかぐや姫が今も暮らしている」と考える方がずっと面白い! 

「月」ひとつにしても、様々な見方があるのだ。フィクションの世界を好んだって良いではないか。古文は私の理系コンプレックスを埋めてくれるようだった。

本格的に古典文学を学ぼうと思った私は、「更級日記」「百人一首」の本を買って読むことにした。購入したのは、以下の二つの本。古典の世界を気軽に楽しむことができるので、とてもオススメである。

「更級日記」は、私が最も愛する古典のひとつである。作者の菅原孝標女が自身の人生を振り返った内容だが、若い頃に源氏物語などの文学にハマり、年老いてから自分の人生に空虚さのようなものを感じて仏道に邁進するようになる。

「光源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは。薫大将の宇治に隠し据ゑたまうべきもなき世なり。あなものぐるほし。いかによしなかりける心なり。」と思ひしみはてて、まめまめしく過ぐすとならば、さてもありはてず。

(「光源氏様のようにすてきな男性が、いったいこの世にいらしたのかしら。薫大将様が宇治に女性を隠して住まわせていらっしゃる、なんていうことが実際にはあり得ないのが世の中というもの。ああ馬鹿馬鹿しい。何と浮わついた気持ちだったことか。」と心の底から思うのですが、かといって、本当にまじめに暮らすのだったらいいのですが、そうでもなく、どっちつかずの状態なのです。)

「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 更級日記」菅原孝標女 川村裕子=編 (角川ソフィア文庫) より

この文章が、何とも人間らしくて好きだ。はっきり決断することのできない人間の不合理的な部分を清楚に表現しており、読んでいて救われる気持ちがする。

自分の人生の後悔を率直に綴るのはきっと勇気のいることだし、1000年ほど前に生きた人物と思いを共感できているという不思議な感覚が、過ぎていく日々の生活に勇気を与えてくれる。

過ぎ去っていく日々。受験期の私はこの儚さを嘆いた文章を好んだ。満足に勉強ができていない中で試験当日が着々と近づいてくることに焦っていたことの表れである。何ともわかりやすい人間だ。「無常観」はいつの時代もやってくるのだ。

その印として、「原色 小倉百人一首」の本には

「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」 紀友則 
(日の光がのどかにさしている春の日に、どうして落ち着いた心もなくて花が散るのだろう)

の歌が載ったページの端っこが折られている。当時の私の境遇に寄せて訳し直せば、「友人とくっちゃべっているひと時に、どうして落ち着いた心もなくて試験当日は近づいてくるのだろう。ウザい」となる。情趣とはかけ離れた解釈である。

このように、古人の書き記した文章が現代を生きる自分の境遇と一致している(ように感じる)のが古典の面白い点の一つである。円筒内を一定速度で回り続ける小球が自分の境遇を表してくれたことなど、物理を解いていて一度もない。何とも冷たい学問ではないか、科学は。(個人の感想です)

もっと多くの作品に触れたいと思った私は、さらに本を買い足した。ゲームや遊びはしないので、お小遣いを思う存分使うことができた。遊ぶ体力すらもないのだ。

例えば、かの有名な「枕草子」を勉強し始めた。

枕草子を読んでいて、清少納言の観察力と描写力に脱帽した。それまでは「名前がチョー個性的で、紫式部と間違われる人。大納言あずきとは似て非なる」ぐらいの印象しか持っていなかった自分が恥ずかしい。

特に印象に残っているのは、第218段。

月のいと明かきに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに水の散りたるこそ、をかしけれ。
(月が皓皓と明るい夜、牛車で川を渡ると、ウシの歩くにつれて、水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、なんともすてきだ。)

「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 枕草子」 角川書店=編 (角川ソフィア文庫)より

とても短い文であるが、幻想的な雰囲気を感じる。「水しぶき」「水晶」で例えることでお互いが持つ共通したイメージがピントを合わせ、かつて清少納言が見た風景がはっきりと想像される。

それに、牛車に座りながらボーッと水しぶきを見つめている彼女の姿を思うと、何とも愛らしい。それに、その景色を覚えていて、当時貴重であった紙に書こうと思った彼女の価値観に尊敬する。すっごくカッコいい!

古典文学を読むと、自分が生きている世界の奥深さを知ることができる。

夜、電気を消すと見える窓の外の月。「今日もあまり勉強ができなかったな」と自己嫌悪に陥る自分を遠くから見守っている。似たような景色を見た古人はこの景色を見て和歌でも詠んだのだろうか、なんて思うと、月光に照らされた汚い部屋すらも少し尊く感じる。

1000年も前の人物たちと繋がり、自分の命が一本の繊細な歴史の糸の末端にある事実を知る。そうすると、受験なんてものがとてもちっぽけに感じるのだ。(もちろん、実際は全くちっぽけではないのだが)

受験勉強が本格化し、課外に追われる毎日が始まると、いよいよ古典なんて読んでいる暇がなくなった。

共通テストが終わり、「国語」そのものを受験で使わなくなると、もう完全に時間がなくなった。せっかく覚えた古文単語や文法も結構忘れてしまったから、もう一度勉強したいなぁと思う。


せっかく出会った「をかしな世界」を失ってしまってはいけない。科学では説明できない直感で、そう感じる。




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