文様よもやま話②市松-B やはり炭治郎に市松はよく似合う
A面は、「炭治郎匂わせ」の「市松」文様は、悪なのか?
どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか、明確なボーダーライン
(=鬼滅のオフサイド・ライン)はあるのか?といった話題でした。
そして、本来は無味無臭な意匠であるはずの「市松」文様が
『鬼滅の刃』を想起させる「記号」に昇華した事実、
文様の意味が「上書き」された事が興味深い、
・・・といったところで一旦締めました。
で、ここからは
実は市松の「上書き」は、鬼滅が初めてではないという驚きの事実のご紹介から
始め、市松文様の受容のされ方、その遍歴を振り返ります。
「市松」の影にオバケコンテンツあり
「市松」、この日本の伝統的な「チェッカー・フラッグ柄」の呼称ですが、
これは近世に入ってからであり、ざっくり280年くらい前からと言って良いのではないかと思います。
「市松」は、歌舞伎役者の初代佐野川市松に由来します。
『高野山心中』という演目の中で着た衣装の袴が、
「チェッカー・フラッグ柄」であり、これを機に、チェッカー・フラッグ柄は
「市松」と呼ばれるようになったと言われています。
ちょうど今の子供達が「緑と黒の市松」を指差して「炭治郎!」
と言うようになったのと同じように、
当時の人々も「チェッカー・フラッグ柄」を指し「市松!」と
に言うようになったらしいのです。
私達が『鬼滅の刃』の虜になったように、
江戸の人々は『高野山心中』や佐野川市松にメロメロ、
夢中になっていました。
魅力的なコンテンツに引っ張られて、
「市松」は「市松」として現代まで伝えられた訳です。
「市松」文様という呼称は、
当時の熱量を内に秘めたタイムカプセルだったのです・・。
『鬼滅の刃』の熱を経験した私達には、その余熱が心地よい。
とても共感しやすいエピソードです。
「市松」になる前の市松文様
このように、歴史は繰り返していた訳ですが、
「チェッカー・フラッグ柄」自体は古代から存在していて、
「市松」という呼称が一般的になる前は、
「石畳」もしくは「霰」と呼ばれていたそうです。
古い織物だと、正倉院にも納められているものにも
「霰」文様は見られます。
時代的に前後しますが、それ以外でも
「チェッカー・フラッグ柄」の埴輪(袴?足の部分に「べんがら」で着色されたもの)が発掘されていたりもします。
また、
平安時代、皇太子は、冬の直衣(のうし。日常着の意味だが公的装い)として
袴に「窠霰(かにあられ)」柄の指貫を履いたそうです。
窠霰は、窠+霰(か+あられ)です。
窠と呼ばれる模様がところどころに入ったチェッカー・フラッグ柄。
今でも「有職文様」(ゆうそくもんよう)の一つとして伝えられていますね。
(大河ドラマで見られるかも、と個人的には楽しみにしています。)
※ところで、「有職」は博識、教養があるという意味ですが
具体的には、宮中や公家の儀式、装束、調度について、を指すそうです。
有識者 → 上記について詳しい人。研究者。
有職文様 → 上記で使われる器物に施された文様。
そういうことらしいです。
身分さえひっくり返す「市松」
本来は由緒正しい有職文様の「霰」ですが、
佐野川市松の袴以降、「市松」としての大ブレイクを果たし
状況が一変します。
面白いのは、このブレイク以降、納言以上の位のある人は
「霰」文様の着物を着なくなった、という話もあるそうです。
『鬼滅の刃』以降、「緑と黒の市松」柄の着物を、普通には
着れなくなってしまったように、この時代に於いても
やはり「霰」を着れなくなってしまった・・。
官職もこの「上書き」のマジックに、悩まされていたとしたら、
皮肉も感じられ、面白い。
身分の高い人々は、伝統的な文様を格付けし、
(例えば、有職文様のように。)
身分あるいは権威を可視化することで政治に利用してきました。
が、「市松」が大ブレイクした際は、その氾濫を止める術なく
自分たちが整備してきた秩序をなし崩しにされたのですから。
文様の力を利用する立場でいるつもりであったが、
自らもその力に支配される側に立っていた事に
気付かざるを得なかったのではないでしょうか。
文様は、思っているよりもダイナミックで、
とても制御できるような代物ではないのかも知れません。
「空っぽ」の力
さて、「市松」文様においては、
何故こうも易々、意味の「上書き」が起こるのか?
仮説として思いつくのは、
「無味無臭」だから、「空っぽ」だからという事です。
例えば「菊の花」、「源氏車」といった具象物を模した文様の場合、
あらかじめ色がついているので、新しい意味が入り込む隙間が
少ないように思います。
が、「市松」文様の無機質さならば、乾いたタオルのように
意味を含み込んでくれそうです。
(原研哉さん風にいう、エンプティネスの一種ですかね?)
「空っぽ」ゆえに、佐野川市松や炭治郎というコンテンツが、
すっぽりと入り込んだ。
また、ただ「空っぽ」であれば、どんな文様でもポンポンと
外側から意味が放り込まれるかと想像すると、
そうではない様に思います。
やはり印象に残る「器」ではあったから、
盛り付ける際に手が伸びた、と言う事ではないだろうか。
人の目を強引に惹きつけ、記憶に残る強さが「市松」に備わっていた点も
必要な条件であったのだと思います。
柄の大きさにもよりますが、
白黒の正方形が交互に並ぶ「市松」文様は、抜群の誘目性を発揮します。
コントラスト(違い)が強いので、嫌でも目を引きます。
妙に視覚に訴えてくる強さがある癖に、メッセージは「空っぽ」、
自分からは何も発してはくれない。
・・・それならば、ブランディングに取り入れてしまおう、
そんな風に、佐野川市松が意図したのなら、大したものです・・。
歌舞伎の文様によるブランディングは、今更言うに及びませんが、
エンプティネスを巧みに活用した
偉大な先人の一人として市松さんをつけ加えたい、
そんな気持ちになります・・。
(はじめは有職文様の「格」の高さに目をつけた、そういう可能性もありますが、途中からは確信犯ではないかなと想像します。)
まとめ。 炭治郎に市松はよく似合う
オリンピックもあって注目された市松ですが、
文様の意味としては、「繁栄」などがよく紹介されます。
(「空っぽ」だと言ったすぐ後に何ですが・・。)
「市松」の他にも「七宝」や「青海波」に「亀甲」「鱗」など
無限にリピートして平面充填が可能なものは大体「繁栄」として
紹介されるのが、伝統的文様のお約束です。
(これからの時代は、持続可能性を表現している、とか言い出しそうです・・。)
このような幾何学的な文様は、
やはり「花」や「鳥」といった具象的な文様とは違う魅力があります。
モダンだとかクールだとかいった言葉に託しがちですが、
それは、どこか「もののあはれ」の対極にある価値観に基づいている
様に思われます。
言わずもがな、人間は、自然を対象物として突き放し
観察、手を加えることによって
自然に存在しえないものを生み出すことが出来ます。
数多の道具や、言語、あるいは社会そのものなどは、
人間の知性の産物と言えるでしょう。
人智が及ばないものとして自然を敬い恐れる、そういった感性がある一方で、
少しくらいは自らの知性、その力を誇らしく思う、
そういった感情が人間に備わっていても不思議ではありません。
幾何学的な文様は、これらの気分を担ってきた様に思います。
モダンだとか、クールだとかは、
実は、人間に備わる建設的な知性(考えて、作り出す力)を
自画自賛する態度が生み出した形容詞なのです。
(自然界に似ているものが存在しない「市松」文様は、
特に「不自然」極まりないといっても過言ではないので、
この感触の極地なのかな、という気がしないでもないです、個人的には。
例えば、縞模様は、蜂だったりシマウマ、堆積物(鉱物)とかで
自然の中からも見つけられそうですが、市松の場合は思い付かない。
また「亀甲」「鱗」などは自然物に見立てられている事からも分かる通り、
もののあはれ側に意味が引き寄せられている。)
「市松」は、人間が、自然の模倣に留まらず、
0→1でものを作り出す存在である事を暗示しているし、
平面充填の際限のなさは、永久的持続を暗示してもくれる。
「繁栄」の象徴として、験を担ぐのに
これほど条件が整っている文様はないのではないかと思えてきます。
やはり、人間讃歌に相応しい文様なのです。
ーーー
・・・そういう訳で
やはり炭治郎に「市松」は似合っているのかなぁ、と思いました。
無惨さまという怪物、人智の及ばぬ存在が押し付けてくる理不尽、我が儘に、
炭治郎が信じる人間性でもって立ち向かう物語なので。
(「生殺与奪の権を他人(無惨さま)に握らせるな」です。)
そして未来、たどり着いた「繁栄」・・。
それこそが勝利の証。
吾峠呼世晴先生の天才が成せる業ですか、ね。
終わりに
まとめのつもりでしたが、
あーだ、こーだ言っている間に大分、妄想が一人歩きしてしまっていました・・。
「市松」が、いつか「炭治郎」と呼称される日がやって来るのかもしれませんし、
あるいは、また250年くらい立った頃には、
違う呼称が、この「空っぽ」の文様に放り込まれるのかもしれません。
・・ちゃんと、私たちの文化が「繁栄」していれば、ですが。
『鬼滅の刃』のおかげで、和装関係の人々も
随分、恩恵を受けたのではないかと思います。
その恩恵を無碍にせず、この機会をどうにか活かして欲しいと思います。
(オフサイドには気を付けて。)
最後の最後、クール極まりないこの画像を貼っておきます↓
東福寺庭園の北庭です。東福寺方丈にて伝統工芸展が開催されたおり、
スマホで撮影させてもらいました。
何だか、とても深い・・・と、圧倒されませんか・・・。