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※うつ病の具体的な症状が書いてあったり、重い内容なので読むのは気をつけてください。


世界にはいくつの闇があるのだろうか。
人の闇は比べられるのだろうか。


初めて死にたいと思ったのは、お湯が冷め切ったぬるい湯船の中で。
小学生の頃だった。

死にたいという感情の中には
こんなことを考えるなんて私はなんて大人なんだろうという愉悦も含まれていた。


中学、高校とそれは時たま顔を出す。

死にたい

救いの言葉でもあったし
呪いでもあり
私の友人だった。

一度死にたいと思ってしまったら
なんとかその場をやり過ごしても
ふとした時にまた死にたくなる。
酒、麻薬、砂糖のようだ。

死ぬことを考えている時、私の周りにはぬるっと膜が張られ外界と遮断される。私だけの世界。
それは心地いいものだった。
とてつもなくつらいけれど生きている実感が湧いた。


高校2年生の時に両親が離婚した。

私が小学生の頃からすでに家庭内別居状態だったし、離婚前はひどい状態になっていたので母の相談に乗ったり父の憔悴しきっている状態を見て私の方から離婚を勧めた。
離婚後、私は母方の祖母の家に母と移ることになった。

元々使っていなかった部屋を使わせてもらえることになり、白い壁と何もない部屋を毎日見ているうちにプツンと張り詰めていた糸が切れた。



「17年、生まれてからずっとそこにあった家庭がもうないんだ…」

離婚騒動の時は長女の私が父と母、妹を守らないといけないという気持ちが強く、頭が真っ白になりながらも離婚がみんなを守る道だと進めてきたつもりだった。
幼い頃から両親の仲を取り持っていればこんなことにはならなかったかもしれない。

離婚が本当に正しかったのかという疑問と自責、両親の不仲を放置したことへの後悔、育ってきた家庭がなくなった寂しさが一気に襲ってきて私はまた死にたさの膜に包まれた。

(今思えば私が何をしても離婚の結末は避けられなかったと分かるが、当時の私は高校生とは言えまだ子供だった。)

他にも引っ越したことで小中高校と毎日一緒に登下校していた親友と離れることになったこと。
当時付き合っていた彼氏に振られたこと。
大学受験のプレッシャー。


全てが私を殴りにきた。まさに泣きっ面に蜂。

家に帰ると毎日イヤホンから流れる最大音量のハチのリンネを聞きながら泣いていた。

「私は大人になってしまった。」

行動にも移したがうまくいかなかった。


母や友達には普通の顔を見せていたし、死にたいと思っていることを人に話したことはない。
この時が人生の中で一番つらかったと思う。


時は流れ、
大学でも嫌なことはもちろんあったが、死にたいと具体的に思うことはなかった。
それまでの死にたさは思春期特有のものだったんだろうなと解釈した。



そして私は銀行に就職する。

私は絶望的に仕事ができなかった。

小さなミスでも重大な迷惑がかかる緊張感と不安、上司から毎日される罵倒、別の上司とお局の1人からの無視、お局たちの強い口調、女性社員たちの噂話と仲間はずれにされる人、私に好意を持っていたという先輩からのセクハラとパワハラ。

ぬるま湯で生きてきた私にとっては刺激が強かった。

つらかったけど同期たちもつらいつらいと言っていたので、みんなこんなものなのだと思っていた。

一番つらかったのは仕事があまりにもできないこと、それによって誰かに迷惑がかかること。
ミスをしたり怒られるたびに「死ね」と言われている気分で、改善方法を頭で考えながらもそれを覆うように死にたさが私を埋め尽くした。
自分が情けなくて仕事のことは人には相談しなかった。

いつからか、涙が我慢できなくなってきた。
怒られると泣いてしまう。
お客様からも見える席にいたし、泣いたからといって何も解決しない。
怒った人を悪者にしてしまう、これだから女はと思われる、社会人として…。
一度涙が出ると申し訳なさで更に涙が出てしまった。

怒られて泣くようになる前から職場外では毎日のように泣いていた。
朝起きてから、電車通勤退勤の際、寝る前。
電車内で泣いてしまう時には人から見えないようにマスクをしてうつむいていた。
まだ1年目だったし、社会人1年目は泣いて過ごしたという話も聞いていたからこんなもんだろうと思っていた。

怒られて涙を出すことがどうしても止められなかったから、精神科に行って涙を止める薬をもらおうと考えた。
初めて行った精神科の先生には「生理のせいじゃない?」というようなことを言われ腹が立ったけど、デパスという薬をもらうことができた。
気持ちを落ち着ける効果があるらしい。
少しだけ飲んで出勤し始めた。
精神薬を飲むと人格が変わってしまうんじゃ?と心配だったけれど、私の人格はそのままに気持ちだけが平坦になって薬ってすごいなと感心したし、感情をコントロールされる恐ろしさも感じた。
薬を飲むと業務中眠すぎて大変だった。
後に医師に聞いてもそこまでの眠気は普通こないらしいが、私は薬を飲む前から眠くなりやすいタイプだったからそのせいかもしれない。
眠すぎて昼休みはご飯も食べずに休憩室で寝ていたのだけど、他の人から心配されるのでボイラー室で寝た。
それもバレて色々聞かれたので悩んだ末精神薬を飲み始めたことを話した。
すぐに支店長に話が行き、支店長と面談することになった。

その頃には職場に着くと涙が出るようになっていたし、業務中震えが止まらなくなって仕事にならないこともあった。
それまでは辞めるという選択肢はあまりなかったのだけど、さすがにやばいなと思って支店長と相談して辞めることにした。


逃げられる理由ができてよかった。
自分では逃げられなかった。

つらいと言っていた同期たちはその後も3年くらいは続けていて、私ほどやばい状態の人はいなかった。
人のつらさと私のつらさは違うのかもしれない。


その後、生理なんじゃない?発言の医師からは適応障害と診断され、銀行を辞めてからは病的な症状が出ることはなかった。

1ヶ月ほど旅行を楽しんで転職した。
休み中も母から早く就職しないのかと言われていたし。

転職先の会社で体に不調が出るようになった。
心臓が痛い、何かにつかまらないと真っ直ぐ歩けない、めまいがするなど。
新しい精神科に行って薬をもらいながら3ヶ月頑張ってみたけど無理そうだったので辞めた。

今回も辞めたらすぐに治るだろうと思っていた。
精神科の薬も必要ないと思って飲むのをやめた。


異変が起きた。


人が怖い。震えが止まらない。

これまでとは違う「死にたい」にも襲われた。
今までは私の気持ちの「死にたい」だった気がするが、今回は外から津波が押し寄せてくるような感覚。
死にたい以外考えられない。
思考を挟む余地もない。
理由もなく、頭が支配される。
怖かった。

泣きながら精神科に行って再度薬を飲むことになった。

その後も私の意思とは関係ない「死にたい」に襲われ、気を紛らわせるために夜道を歩き回ったり、マキシマムザホルモンを最大音量にして耳に押しつけて聞いたり、家の中だと家族に聞かれるので車の中に移動して叫んで泣いて自分を殴ってなんとか抑えようとした。
刃物で自分を刺したい、刺したいというより刺さないといけないという衝動も出てきて、部屋の中にある刃物は隠した。


医師に聞いたら私はうつ病なんだそうだ。
まさか私がと驚いたけれど、ほっとした自分もいた。
私は許されたのだ。

私のつらさはうつ病になるほどのものなのだと太鼓判を押された気がした。
つらいことをつらいと思ってもいいのかもしれない。


数ヶ月経ち、希死念慮は落ち着いたがまだ働くことはできそうになかったので母の扶養に入れてもらうことになった。
その際に障害者手帳を取得することになった。
発行された手帳を見ると、2級と書いてある。
SNSの意見によると2級はかなり重いらしい。
驚いた。
私はうつ病の中でも軽い方だと思っていた。
母も驚いていたし、その後私のことを知っている人たちに2級であることを話す機会があると知識のある人からは必ず驚かれた。
これまで普通に生きてきたつもりだったから、自分が重度の精神病になったというのは不思議な感覚だった。


私には闇があるが、他人にも同じくらいの闇があると思っていた。
死にたいと考えたことがない人もいると聞いたことがあったが、今ならそういう人も世の中にはいるんだろうなと思える。
私の闇が病的に深いのか、体が耐えきれなかっただけなのかは分からない。
病気になったのは考え方が健全じゃなかったからだろう。

うつ病になって5年経つが、体力は以前の10分の1ほどになったし日常の制限もそれなりにある。
私の闇が膨れ上がった結果か。
失ったものは多い。


得たものもある。
つらいことをつらいと認識できるようになり、逃げられるようになった。
以前はつらいもので占領されていたスペースが空き、心地いいものが入ってくるようにもなった。

闇と正面切って向き合うことを5年続けたら、闇の輪郭が見えてきたのだ。
闇は友人だと思っていたが、その正体は自分だった。
闇を知ることは自分を知ることだった。


今でも時々闇が顔を出す。
蓋をするのではなく、目を凝らし抱きしめる。
それは、ずっと私がされたかったこと。




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