『詠むその数より火が灯り』 |短編
#シロクマ文芸部 3800字
「んー、こんなだったかなあ」
わたしはとなりの机でお弁当を食べているチエ先生に言った。
今朝は暗い雲から雨がふっていて、五月の正午過ぎだというのに、そとは夕方のように暗い。
で、だから、職員室でのお昼休みで幻国の教師なわたしがうろおぼえの一句言ってみたら『ムジ子先生それぜんっぜん、ちがうんじゃない?』と数字教師のチエちゃんが答えた、チエちゃんの爪、うっすらグレイみたいなむらさきみたいなコートしてて(コート剤なんていまどきどこで手に入れたんだろう)黒ジャージのうえにカーキのジャケット着てるコーデになんかすごく似合うとわたしはおもっていた。
「ムジ子先生きいてんの? 中村苑子どころか近代俳句ぜんぜんまともに知らないとかなの? あとお昼ごはん連日ブルボンのお菓子ばっかり食べててどうしてあんた太んないのよ?」
わたしのチョコラシオに指をささないでほしいな、大事な糖分たんぱく源である(適当な栄養知識)そしてわたしは体重計に乗らないだけなのだよ。それから呟いた。
チエちゃんがお手製お弁当を食べるお箸をとめて首をかしげ、ジっとわたしのほうを眺めた。「ひとつ知ってんじゃん、さすが先生」
「和歌でーす、俳句じゃないですけどねぇー季節ちがうし。あと今夜デートなのチエ先生?」
「ちげえよ」って舌打ちしたなこの女、
「じゃあなんなんだぃキミー、その爪はぁー」と、しばらくウザめにお相撲取りさんボイスで問い糺すことに、する(すこしハスキーな風味で)。
「べつにいいじゃん関係ねえじゃん」とチエちゃん。
「キミそれー関係ぃー、なくないだろーぉ。ムッジ先生にー、言えないーぃ、ことなのかぁーい ……おいーぃ?」
ちょっと、あの、反応がない。
そしてチエちゃんはごはんを食べながら「うるっせえなこの老害先公コッチはノコノコ義務教育受けに来てやってんだぁらせめて黙って黒板のほう向いておっ立ってろバーカ」と言った。ごはんを食べながら。はきはきと。
あの、ま、まわりの先生が、みんなあなたの言動に注目してるのよ……教頭(ちょっと土俵あがれそうな感じのお身体、だがハゲ)はチエちゃんをあえて見てないところがかえってめんどくさい空気なのよ……。
「え、なに?」
チエちゃんモグモグごはんしてるけどあの、
「チ、チエ先生ったら、最近そんなこと生徒に言われたの?」わたし会心のナイスフォローである。
「あーもー、ムジ子ごめんてー、涙目になるの早いよ……言われてないって、あたしの生徒時代の口の利きかた再現しただけだから」
よかったこんなのが生徒にいなくて。あとフォローが台無しでござる。
「なんでもないほんとに、ムジちゃんだってさ、ほら服装とかで気分上げないとやってらんないときあるじゃん? あたしもう春だから気圧乱高下であったまおかしくなりそうだし」
チエちゃんが『ごちそうさまでした』をした。「ムジ子先生、トイレ行こ」ブルボン昼食なわたしは食べながらでも移動ができる、携帯食でもあるお菓子をバカにするでない、そしてわたしたちはふたり二階の旧校舎への渡り廊下を並んで行く。三年のシキシマやナカソネたちとすれ違った。甘い匂いがする。
チエ先生が立ちどまり「シキシマ。ナカソネ。」と言う。シキシマが答えた。
「いやいや、だからおれらそういうのやめたんだって。あ、リゲルの詩集のあの紙の本、あとで返しますね、おもしろかったよ」
チエちゃんが「だから、リルケだって」と溜息をついた。
「まあまあリルケでもリゲルでもベテルギウスでも源氏でも平家でもなんでもそれじゃチエ先生またねー」
そしてシキシマとナカソネは「はい、せーのっ」って二人三脚ゴッコで笑いながら廊下を走っていった。
「仲いいのねー」とわたしは廊下から消えるふたりを見おくった。
「バカ言わないで」
チエ先生はうつむいていた。
わたしは言う。「しかもいまこの現世に計算よりも天文学や歴史にまでご興味おありと。いやぁまったくあたしの仕事にぜんぜん応えてくれて無ぇ非国民っぷりが、正直頼もしいねぇ、やっぱり若いんならこうでなくっちゃあ」
「令和以前の国語や歴史をそっと否定して改元後のわかものを素直な兵卒へ導くおしごとで、しかも三十路未だ遠い幻国担当のムジちゃん先生が、まったく、あぁ、もう」
少子化が加速してさらに戦禍のただなか、校舎は半分しか要らなくなった。だからといって無駄な校舎を取り壊すにも区も都もそもそも国が防衛費にかけ過ぎてしまったせいでそもそもお金はない。だから校舎は半分だけ電源が生かされていて、旧校舎は廃墟のまま現校舎とを二階の渡り廊下ひとつで接続されたままだった。
その廃墟校舎の二階女子トイレは喫煙所だ。煙草は安くなった。いろいろなものが安くなった。魚や肉は高級品になってしまったけれど、合成はなんだかんだいってじゅうぶん美味しいし、テイクアウトスーパーのお弁当はチケットがあればいつでも無料で便利だ。他の区や地方のことはわからない。知ることはできないからしかたない。新聞には載らないことだし、携帯電話所持は法律で十一年前に禁止された。インターネットはまだどこかの国にあるのだろうか。
「あ」と言ったのはトイレの窓のちかくに立っていたツシマサチコだった。二年生。つくりかけの手巻きのペーパーを舐めていた。傍にユカワカナコ。
ツシマが「ごめん、いっぽんだけ吸わせて」という。「チエにもあげるから」という。
チエちゃんはポーチから出した紙巻のセッタを咥え、
「こっちもいっぽん吸ったら帰っから、さっさとやっちゃいなよ」
ツシマが「ありがと」と言うと、そしたらユカワも隠していた手巻きを、さっと出してニコっと笑ってみせた。かわいい子だとおもう。
チエちゃんが煙草を咥えるとユカワはライターを差しだし「ドーゾ」といって火を点けた。チエちゃんは「ん」とだけ言って、くわえた煙草に灯す。ユカワはわたしにも「ドーゾ」と言う。
いやいいから、自分でつけるよ。そう言うとユカワは自分のまえに、巻き終わったツシマのそれにそっと火をかざす。「ありがと」と彼女は答え、ユカワのライターの火を、自分のくわえた手巻きに移して、甘い煙を吸いこんだ。そして自分の煙草に火をつけるユカワは微笑んでいた。
個室から声がする。「ねえユカワ、ここ誰かいんの?」
「ガイブ、トモダチと、イロイロ」
あ、そ。わたしは窓の外に食べかけのチョコラシオを捨てると冨士を出して喫った。
ツシマが「ねえチエ、シキシマともうヤったの?」と聞いたから「うるせえよマセガキ」と彼女は答えた。
「ぅっわ否定しねえの?」ってツシマがゲラゲラ笑ったのでチエちゃんはその顔を平手で殴った。ツシマが床にふっ飛び、すぐ上体を起こしてチエちゃんを睨む
『『 ウ ゴ ク ナ 』』
その時叫んだユカワの声が、すっごく大きくて、全員の動きが数秒間止まった。制圧音声だろうか、窓や壁が震え、それよりその場全員の身体がうまく動かなくなる。
彼女の声帯を、貧しい愛国者の両親がいじったのは、家族構成報告一覧を当然教師のわたしは読んで知っている。そうして御国のためにと誓わせれば、娘を障害者として国に排除されないから。たとえ必要とあらば戦地に派遣されるとしても、わずかだとしても凌げる。ユカワカナコは充分に愛されていた。もしかしたら、その程度があまりに過剰だったとしても。
ユカワは倒れたままのツシマにひざまづき、じぶんの火のついた手巻きの残りを、震える手でその口許にさしだす。それをゆっくり手で払って、「いいよ、大丈夫だから」とツシマは制圧棒の電流のスイッチを切り、スカートに巻いた腰のホルスターに戻した。
個室のドアが開いて、スーツを着たのどっかのおっさんが走って出て行く。途中おっさんは一回けつまづいて勢いよく転んだ。次いで、胸のはだけたミカワアキコがスカートのなかのパンツを上げながら出てくる。
「もー、バイト邪魔すんのやーぁめてよー」
「シラケた」とツシマがいって、トイレを出て行った。
ユカワがミカワへ不安そうに「サッチャン…… ア、アキチャン?」と振り向いた。ミカワアキコは服のボタンを手早くとめて、「あたしらも行けばいいんだよ、ほら早くついて行こーねー」とユカワの二の腕をつかんで出ていく。
そのあとどこかできっとミカワはふりむいたんだ。「チエせんせー! マジになったらダメだよー!」
「さっさと行けよ」と小さく、チエちゃんが言った。
タバコをもういっぽん取りだして、めのまえのひとは自分で火をつけた。わたしのほうを見ない。
彼女のことばが、ひとりごとになってしまう。
だから「ダメだよ、チエちゃん、奈落だよ」とわたしが言った。
「ねえ、文学に詳しいらしいムジ子先生、きっと恋をしてる女のことでしょ? この句って」
チエちゃんの目を見た。
「きっともういちど滅びるこの国の教師だからって、自暴自棄になっていいことなんてない」
「どんな時代でだって、好きになったらそのひとと結局恋愛したいの、あたしは。 あたしがそうしたいの。 それをこんな国なんかのせいにはしないわ、決まりもクソもあるもんかよ」
わたしは一本のたばこを吸うことなく、履いている官製ブーツの底で摺りつぶした。
「いい度胸」
わたしはそう言った。
「そう。ありがと。いこう、子供たちに授業しなくちゃ」
めずらしくチエちゃんがお礼をしてくれた。またこのひととふたりで、ウチで鍋がしたい。
初稿掲出 令和6年4月28日 日曜