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そんなのどうせ趣味で終わるんだから

さぁ、自己紹介の続き。
高校卒業後は、本当はイタリアに留学したかったのだけど母の”どうやって?”という真顔の圧に勝てず。笑
実家から近い芸大に行くか?
専門学校へ行くか?の2択で、私は試験なんて受けなくていい岡山市内のデザイン学校へ進学しました。
(選ぶ基準終わっとる。頑張れよ自分)

その専門学校は3年制で、アニメーション、服飾、建築、木工など様々な科がある学校でした。

そこで、私は1番に
“ジュエリーデザインコースに行きたい!”と思った。
しかし、父からその時…
”そんなものはどうせ趣味で終わるんだから。建築科にしなさい”
そう言われ、建築科を専攻する事に。
我が家は曽祖父が土木建設会社を創業し、祖父は建築士だったし、母も土木や宅建の資格を持っている様な建築家系だった。そんな事もあり、建築にもそれなりに興味はあったから特に抵抗する事もなくすんなり父の言うことを聞いたんだろうな。
それで、専門学校の3年間といえばまぁ、、結局ほぼ遊んで過ごした様なもので。笑
これもまたいつか話すけれど、服飾科のファッションショーのモデルをさせてもらった事が私の人生に大きく影響を与えたかもしれない。

タイトルは“Bugs town”だったかな?

※表紙のこの写真は卒業制作の模型。
(これは確か金賞か何かもらった記憶がある)

そして卒業の前に少しインテリアショップで働きその後、建築士の先生の紹介で倉敷の設計事務所に入る事になりました。
その設計事務所は所長1人と私だけの小さな事務所でカフェも併設していたからまた再開したいんだ!と、私が前任者から紅茶の淹れ方、スコーンやケーキの焼き方を教わり。出勤したらまずケーキを焼いてから図面仕事をするという変わった事務所でした。
朝から夜中まで、月にほとんど休みなし、丁稚奉公なんだからと給料は半年間6万?だったかな。笑
疲労とストレスで急性難聴になり、1年で退職。
そこから急に大阪へ出る事を決め、コンビニや議員事務所の事務のバイトを掛け持ちして貯めた少しのお金と母の支援で地元を離れました。
それが21歳の誕生日を迎える少し前だったはず。

田舎から都会に飛び出して、全てが新鮮で刺激的だった大阪暮らし。まずバイトをしなければ!と面接を受けたのは”ベネトン”
え!懐かしい!と思ったそこの貴方、私と同じ昭和生まれ♡ですね?
イタリアに留学したかった想いを忘れきれずとにかくイタリアに関係する事を探したんだろうと思う。笑
面接は即日合格を頂き、阪急西宮ガーデンズのオープニングスタッフとして働く事に。
アパレル販売員は初めてだったけど接客は得意だったからとても楽しかった。
当時は周りの友達がみんな意識高い系だったから私も影響を受けて、スケジュール帳は常にぎっしり何かしらの予定で埋まっていないと落ち着かなくてバイトは3つくらい掛け持ちしていた頃もありました。
そのベネトン販売員の頃に、日々入荷する服を見ながら自分のブランドのロゴがついたものを作れたらなぁ〜と妄想が膨らむ様になり。
実はこの頃すでにアクセサリーブランドのロゴも考えていたんです。
ちなみに当時考えたのは…
“0330 REMERE レミーレ” OddThreeの元になったものです。
※どうしても3を入れたかった様だな!

貴和製作所でパーツを買ってちょこっと作ってみて、それを自宅のプリンターでロゴを印刷したパッケージに入れて喜んでいたのを今もよく覚えています。
でも当時はまだstoresやBASE、メルカリなんていう個人が販売できるプラットフォームは無かったし、そこからはあっという間に年月が過ぎていきました。
それから26歳くらいまではバイトをいくつか転々と。
大阪でお酒の楽しさを覚えてから、内臓を壊すほどの暴飲暴食、朝明るくなるまで遊んで帰るという生活をしていた時期もありました。
(あの頃に戻れるならもう一度計画的に、健康的に時間を大切に使いたいと思う)

飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで〜
飲んで 飲みつぶれて寝むるまで 飲んで〜
『酒と泪と男と女』

※頭の中で自然とこの曲が流れるのはなんなの。笑

いやー。また一度には書ききれなかった。
“設計事務所アシスタント、アパレル販売員を経て
デザイナーと名乗るまで”は次へ続く…✨

次回、人生を変えた運命的な出逢いについて

最後までご覧いただきありがとうございました😊
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OddThree ゆう

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