#16『読書について』感想
今回ご紹介するのは、
ショウペンハウエル 先生の
『読書について』という作品です。
○あらすじ・内容
前記『付録と補遺』の中から『思索』『著作と文体』『読書について』の三篇を収録.「読書とは他人にものを考えてもらうことである.一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく.」――鋭利な寸言,痛烈なアフォリズムの数々は,山なす出版物に取り囲まれた現代のわれわれにとって驚くほど新鮮である.
○装画・装丁について
さて、いつも私の読書感想シリーズをご覧いただいている方は、「なんかいつもと違う選び方かな…?」と思ったかもしれません。
そうなんです。
今回は実は、ジャケ買いではないんです。
この本はいただきものなので読ませていただきました。
装丁は岩波文庫のよくあるものが例によって採用されており、「哲学」ジャンルなので青帯になっています。
本作は
発行所:岩波文庫
印刷:理想社
カバー:精興社
製本:松岳社
とその他関係企業の方々によって製作されています。
今回はジャケ買いではないですが、製作に携わった方々への感謝は忘れてはいけません。
いつも丁寧な仕事をありがとうございます!
○内容・感想
本作は
1.思索
2.著作と文体
3.読書について
という3部で構成されます。
1部「思索」では、
考えの無い多読は悪であること、読書をどのように使えばよいのか。
2部「著作と文体」では、
金銭第一主義で書かれた作品は悪書になりやすいこと、有名な本を見る時に重要なのは、素材と形式であること。
3部「読書について」では、
読書の心得と"真の文学"について、筆者の懸念
などが書かれています。
大体が思想強めの書き方なので、それを理解した上で進みましょう。
私が本作を読んで最初に感じたのは、
はぁ〜、確かにそんな考え方もあるか。
という感じです。
中々考えることが多かったので、今回もいくつか小見出しにして内容と私なりの感想をお伝えします。感想というか、ほぼ印象に残った部分の羅列というべきかもしれません。
*人には人の乳酸菌。
あくまでも個人の感想なので、全否定はご遠慮いただきたいですが、「でも自分はそうじゃない、こう思う!」という批評は大歓迎です!コメントお待ちしてます。
それでは本題、内容と感想です。
1.多読は思索を遠ざける
本作の大きなキーワードとなる言葉です。
本作冒頭で、筆者は読書をする人を
・多読に人生を費やす者
・自ら思索する者
の2種類に分類し、その違いを述べています。
まず多読に人生を費やす人。
読書はそもそも「他人の思索の跡を辿ること」なので、読書量が多くなればなるほど読者側が自分で思索することが減少していくと筆者は述べます。
これを筆者は
「他人の思索が代替しているため、精神が弾力性を失い、自動人形のようになる」と述べています。
自動人形 という言葉選び、好きです。
対して、自ら思索する者。彼らは思想家とも呼ばれます。言葉の通りですが自ら思索して「自説」を持っているため、読書はただの自説を強化するための素材であると考えます。
まぁつまり何が言いたいかというと、
自分の考えを何も持たずに本を読むと、その本の作者の考えを"見るだけ、知るだけ、借りるだけ"の機械になってしまう。
読書の立ち位置と使い方はよく考えよう。
ということですかね。
確かにこれは一般的に難しめな本や論文を読む時、特に自分の勉強が浅い分野で、先行研究論文などを読む時ににありがちなことだと思います。
「この論文に書いてあったから」という理由だけで引用するのは中々危険です。
もちろん過去に様々な研究が行われてきた過程があるので、調べてわかることも大切ですが、それは先述したように"自説があってこそ"成り立つものです。自分の考えもないのに浅いネット検索だけで得たものを引用すると、何を言っているのかわからないツギハギの文章になってしまいますよね。
なんだか自分に警鐘を鳴らされているかのように感じました。心に留めておきます。
2.金銭第一主義
次に筆者は、執筆する著作家を2つに分類します。それは
・事柄そのもののために書く
・書くために書く
この2つです。
前者は先述した「思想家」と呼ばれる人たちのことで、彼らは自分が経験したり考えたことを、読者に伝える価値があるものだ と考えます。
後者が欲しいのは主に「金」です。
本にできる長い文章を書くために思考を巡らせます。しかし書くために考えた思索など思想家の思索に比べれば浅はかで曖昧なもの。
結局長々と連ねた文章は真偽曖昧で明瞭さに欠けるのです。
では、金銭のために書いている著作家はなぜ生まれるのか?
これは報酬と著作権侵害禁止の2つである
と筆者は述べます。
著作から長い年月を経ても現在まで残っている偉大な作品の多くは著作報酬が無かった時代又はごく僅かな報酬で書かれたものであり、
現代は低劣な著作家の多くが、新刊以外読もうとしない民衆の愚かさを頼りに生きているに過ぎないのです。
↑ここめちゃめちゃ良くないですか?
読んだとき鳥肌が立ちました!
とにかく、金銭第一主義で書かれる作品の多くは良書がほとんどない!というのが筆者の考えですね。
3.「最新=最良」か?
もちろん最新の記事や発言は過去を利用して改善、追加する必要があってそうされているものも多いですが、その過去の利用方法が問題である、と筆者は述べます。
確かに、何か調べ物をするとき我々は最新の論文や記事を読みがちです。
それはどこかで「最新=最良である」と思い込んでいるからではないでしょうか。
しかし、
実際には最新を書こうとする作者は、偉人たちの考えについて深く思索することも無く、
「これは過去の古くさい考えだ。私の考えが新しく正しい」と勝手に記し曖昧不明瞭な自説に偽りの地位を与えていることもあるのです。
最新の引用について、これも現代人に警鐘を鳴らしているんですね。
4.良いのは"素材"か"形式"か
-有名な理由を探る-
筆者は、ある本が有名な理由を以下の2つに区別しています。
・素材(思索の対象)による場合
・形式による場合
前者の素材による場合に扱われるのは、
珍しい自然現象や実験結果、努力と時間を費やした研究からまとめた歴史的事件の記述です。
これらは大衆の関心が高い傾向にあるため、有名になると人気俳優や女優を主人公にして舞台が作られたりします。
これはビジネスとしては良いかもしれませんが、文学,学問としては良い傾向ではありません。
なぜならこれは結局の所、「あの俳優が演じているから観る」ということが起こるなど、
作品そもそもの内容よりもその周辺を掘り下げることの方が大衆の関心を引いてしまうからです。
対して後者の形式によって有名である場合。
この場合の素材は、大衆にとって誰にでも親しみやすいものであることが多いです。
だからこそ、形式、つまり作品の著者が何を考えているのかが作品の価値を決めるため、優れた脳を持つ著者だけがその著書に価値を与えられることになります。
まとめると、
素材で有名な作品よりも、形式(著者の考え方)で有名な作品に触れるべし
ということですね。
また筆者は、この「素材と形式を区別すること」について、
これは会話でも同様に重要であると述べます。
確かに友人と話していても、「話題」が面白い人の話は一時的に聞くのは面白いけれどその興味は長く続かず、話し方に「知性」がある人の話は話題に華が無くても長く話していて楽しかったりするんですよね。
5.賢くあることが、正しい文章作成の源泉である
つまり、会話でも文学作品でも、形式、すなわち話す人や書く人の「知性」がなくては良いものにはならないことが多いということですね。
さらに筆者は、賢さが無い著作家について、次のように述べます。
この言葉に全てが込められている感じがしますよね。
なるほど、賢い著作家の文章はシンプルなわけですね。
「読みやすく素朴」これが賢い著作家の証なのでしょう。
ここで本作で私が印象に残っている筆者の言葉を重ねてお届けします。
いやぁ、これですね。
まとめ!って感じです。
ちなみに私は、本作を読んで沢山考えたことを多量の言葉に連ねています。
つまりそういうことですね。反省。
6."真の文学"とは
本作の終盤、筆者は文学には2種類あると述べます。このパターン分け多いですね。
・真の文学
・偽の文学
さて、この二つの違いとは何でしょうか。
前者「真の文学」は、
学問"のため"、詩"のため"に生きる人々によって営まれる文学で、それは永遠に持続する文学となると筆者は述べます。
しかし歩みは非常に遅く、一世紀でヨーロッパに1ダース生み出されるか出されないかである。
これが時代に"とどまる文学"となるのです。
後者の「偽の文学」は、
学問あるいは詩"によって"生きる人々に営まれ疾走します。当事者たちは大声で叫び、毎年数千が世に送り出される。
しかし2.3年すると人々は問うのです。
「あの作品はどこへ行ったか。
あの名声はどこへ行ったか。」
これは時代の中で"流れる文学"と言えます。
さらに筆者は言います。
つまりは学問"のため"、詩"のため"に生きる人々によって営まれる偉大な文学に触れ、愚かな大衆に向けた悪書には安易に手を出すな。
ということですね。
○最後に
なんだか長く書きすぎてわけがわからなくなってきました。皮肉なことです。
最後に、本書を読んだことがある方に単純にお尋ねしたい。聡明な貴方の知恵を貸してください。
本作を締め括るこの言葉。
本当にこれはどういう意味なのでしょう。
解説できる方がいればコメントにて教えていただきたいです。切実に。
長くなりましたが、本作及び本記事を読んで少しでも学びなることがあれば幸いです。
皆さんの読書人生が価値あるものとなることを祈っています。
○著者について
アルトゥル・ショウペンハウアー
(あるとぅる・しょうぺんはうあー)
ドイツの哲学者
ベルリン大学でフィヒテの講義をきいて失望。ヴァイマルでゲーテと交わる。1820年ベルリン大学講師となったが,ヘーゲルの名声の影響で聴講者がなかったため翌年辞任し,以来,在野の学者として過ごした。彼の哲学は,カントの認識論に出発し,プラトンおよびインドのヴェーダ哲学の影響を受け,観念論・汎神論・厭世観を総合した「生の哲学」を説いた。その思想は19世紀末の厭世思想,特にニーチェに大きな影響をおよぼしている。主著『意志と表象としての世界』。
今回もご覧いただきありがとうございました!
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