【短編】僕と死と嘘と。(1,870字)
費やした時間に応じて減っていくから、勉強するには鉛筆が好きだ。
書けなくなるギリギリまで粘って、ようやく削る、その瞬間が好きだ。
歯磨き粉でも、スポンジでもなんでもギリギリまで使いたい。
だからこの命もギリギリまで使いたい。
そういう性分なのかもしれない。
喉に癌が見つかったのは3年前の春だった。
会社の健康診断で良の結果を受け取った数週間後だった。
あの時、もっと早く見つかっていれば。
そうは思わない。
人間は遅かれ早かれ死ぬのだ。
そんな心境に至ったのが、癌が見つかってから半年たった頃だった。
もちろん、死が怖くないわけじゃない。
死、そのものというよりも、死によって今流れているしあわせな時間が寸断されることが怖かった。
死がもたらす、様々な別れ。
そのことを思うと冷静さを失いそうになる。
だから、この命をギリギリまで使うとそう決めた。
「死ぬと決まったわけじゃない」
そんな言い回しをよく耳にする。
でも本当にそうだろうか?
死ぬのは決まっている。
それが何年後か、何が原因かが分からないだけで、死ぬことは分かっている。
いつか。
鉛筆は削ればいつか消える。
だから。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
夫の喉に癌が見つかったのは、もう3年前になる。
季節は春だった。
39歳。新しい部署、新しい役職で新しいスタートを切ったばかりだった。
それまで流れていた時間が巨大な闇に飲み込まれたような気がした。
突然に訪れた天変地異のような状況。
すぐさま始まった抗がん剤治療。度重なる入院。
いつも絶やさなかった彼の笑顔はいつしか消えていった。
それでも半年経った頃からだろうか。
彼の笑顔が再び見られるようになった。
うれしくもあり、どういうわけか悲しくもあった。
どういうわけか。
いや、そのわけに気が付いていないのではない。
認めたくないのだ。
いつだったか、彼が「人間は遅かれ早かれ、いつか死ぬんだよ」と笑ったことがあった。
そう、かもしれない。
だけど、そんなふうに言って笑ってほしくなかった。
彼が先に行ってしまう。
そんなふうに思ったのだ。
私は、その日バスタブで膝を抱え、声を殺して泣いた。
いや、その日だけではない。
時々、たまらなくなってそんなふうに泣いていた。声を殺して。
彼も何かを殺して笑っていた。
彼はひとりで殺し、飲み込み、闘い、そして笑っていた。
彼の笑顔が悲しいのは、彼が何もかもひとりで抱えているから。
先に行かないで。
一緒に歩かせて。
時々襲ってくる闇に飲み込まれそうになったら、ふたりで抗いたい。
「人間はいつか死ぬんだ」なんて。
そんなこと、わかってる。
わかってるけど。
私は、あなたに死なないでいてほしいよ。
バスタブの中の湯が増えたのではないかと思うくらい、泣いた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「これで、一旦抗がん剤治療を終わりにしましょう。危険性のあるものは確認されなくなりました」
主治医が告げた。
それまで懸命に殺してきたものが、少しだけ息を吹き返したような気がした。感情だ。
癌発見から4年目の春。
心の中にも春の気配が訪れ、ぽかぽかとし始める。
病院の帰り道。
妻はうっすらと涙を浮かべて笑った。
闘病4年の間、妻の涙は見たことがなかった。
妻も感情を殺していたのだろう。
泣かない妻を見て、思ったのだ。
「人間は遅かれ早かれ死ぬのだ」
そう思って早く冷静になろう。
彼女だけに闘わせてはいけない。
闘いに休符が打たれた今、妻と一緒にこの春を感じながら心を溶かしてもいいのかもしれない。
「死ぬ、と決まったわけじゃない」
閉じ込めたはずのそんな言葉が、口をついた。
自分で少しびっくりする。
「死ぬなんて決まってない」
彼女は笑った。
そして泣いた。
いつか死ぬんだ、と殺してきた。
殺したのは自分で、自分自身だった。
「今だから言えるんだけど」
ふたつのマグカップを手にリビングにやってきた妻に声をかける。
「ん?何?」
「死ぬのが怖かった。今じゃなくても、ずっと先でも」
ソファに座り、リラックスしていても組んだ両手に力がこもる。
「…私も。あなたが死ぬのが怖かった。それが“いつか”でも」
彼女の目からせきを切ったように涙があふれだす。
「死なないで」
絞り出すようにそう言った。
気が付けば、自分も泣いていた。
頬を流れる涙の温かさで、それに気が付いた。
「死なないよ」
そして、重大な嘘をついた。
そうか。「いつか死ぬんだ」なんて正しさよりも、「死なない」という嘘で今あるしあわせを確かめれば良かったのかもしれない。
彼女はコーヒーを持ったまま、ひとしきり泣いた。
「…コーヒー、少し増えたかも」
泣き顔で笑う彼女に、泣き顔で笑いかける。
「いいよ。一緒に飲もう」
END
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